「命」という言葉の乱用

月澄狸

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同族嫌悪、命への嫌悪

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 動物は好きだけど、動物好きの人は苦手かもしれない気がしてきました。

 犬や猫が好きな方はよく、動物虐待について発信しておられ、そこのコメント欄で多く見かけるのが「命を何だと思っているんだ!」「虐待犯を同じ目に遭わせてやりたい!」という言葉。

「犬が……」「猫が……」と言われるなら分かりますが、動物好きはどうも「命」という言葉を好んで使います。
 もしかしたら、「命=人間」というのが大前提の認識であり、「犬や猫だって人間と同じ命なんだぞ」と言いたいのかもしれません。

 けど命というのは、虫であり微生物であり草であり、犬や猫や人だけのものではありません。そこを、限られた種に対して「命、命」と感情的に連呼されると、逆に違和感があります。誰も殺虫剤コーナーに抗議のメッセージを送ったりしないだろうし、「肉や野菜を食ったヤツを、食べられた動植物と同じ目に遭わせてやりたい」なんて言わないのに。叩いた蚊に手を合わせることすらしないだろうに。

 人間が思う「可愛い生き物」だけが「命、命」と持ち上げられている感じがして凹みます。まわりの優しい人みんな、私のような落ちこぼれにも歩み寄ってくださるけれど、やっぱり虫とか苦手なんだよな~ということにも、落ち込む日はとことん落ち込みます。私の前世はゴキブリか何かなんでしょうか。

 多分私のこの思いは、同族嫌悪です。動物虐待を許さない人と考え方が似ているから、イライラするのです。
 私はもはや生き物好きと言えるかどうかすら分からないけど、以前は犬猫の殺処分にものすごく憤っていました。でもやっと分かってきたのです。意図的に、「まぁ広まっても良いだろう」という「概念」は広められ、私の知らない「駆除」「搾取」の実態は裏に数多くあることに。

 私の子どもの頃から、私の住む滋賀県では琵琶湖の外来種(特にブルーギルやブラックバス)を問題視しており、外来種の駆除がいかに大切であるかを教わった気がします。ところが近年、在来種であり魚を食べる野鳥カワウも、生息数が増えすぎて被害が出るからと、駆除されていることを知りました。結局生態系がどうとか言うのは、外来種とか在来種とかいう問題ではなく、漁業などのためなのです。

 この間も、ワニ皮のバッグのためにワニが殺されている話を見ました。そりゃそうですよね。「◯◯皮」がある限り、そのために生産されている動物たちがいる。生産と駆除は違うけれど、いずれにせよ、命を都合よく切り捨てたり使ったり、そういう態度は同じ。
 だから特定の生き物を「益虫だから」とか「可愛い」とか持ち上げることに、違和感を覚えるのかもしれません。

 持ち上げるのも叩き潰すのも表裏一体。兄弟の片方を溺愛し、片方を惨殺するのと同じです。
「可愛いから」と増やされる裏で、翻弄され殺される命がある。虐待犯にも問題があるけれど、ビジネスのために何かを持ち上げ、それが流行り、踊らされる世界にも問題があるのでは。「みんなが持っているから私も欲しい」とか「飽きた」とか「もう古い」とか。

 しかしここで私は何か、諦めたのかもしれません。すべてを思考し尽くしたところで、一つも実行できやしない。私はゴチャゴチャ語るだけ。実行できる範囲で私がやっていることはすべて、中途半端だと。
 私はベジタリアンになることも難しいけれど、ベジタリアンになったら次は、「植物を食べたくない」というのが課題でしょう。そしてこれから先、食糧危機により昆虫食が進めば、昆虫が食材として扱われる時代に突入するはず。可愛い虫が生産され、食べられる、それが当たり前の世界。

 もはや何も抗わない方が楽です。かといって、「虐待犯を同じ目に遭わせてやりたい」という言葉に「そうだね」とも言いたくないのは、耳が痛いからかもしれません。
 私は「食べることは許され、虐待は許されない」とは思っていません。人はヴィーガンになることが可能なら、ヴィーガンにならない人はすべて動物虐待犯ではないでしょうか。そしてヴィーガンは植物差別主義者、と言えなくもないのかも。

 誰の意見にも「一理あるね~」と冷静に言いつつ流す、心乱れない人間になりたいです。
 そしていつか、「これこそ本物の真理だ!!」と思える、魂のルーツのような、強烈な光に出会いたいです。




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