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『前話が6000文字、今回が1万文字、そんだけ書けるなら早よ小説書けよ……』
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Amazonレビューとかで、好きな作品が批判されているのを見ると、グサッときます。それを好きな自分まで否定された気がして。
感想を見たい、共有したい。同じ趣味で語り合える友達がいないから、作品名で検索して感想を見たりしているわけですが、どうしても批判に気を取られてしまいます。批判は適当に読み流せばいいのに、そしてそれができないなら見なければ良いのに、どうして無意味にモヤモヤしてしまうのでしょう。
……もしかしたら本当のところは、「思ったことをズバズバ言える人」が羨ましいのかもしれません。
私は批判が怖く、ほんの少しでも否定的なニュアンスのことを言われたと見るや、緊張し、喧嘩モードに入ってしまいます。
本当は、穏やかな気持ちで話したいです。もし相手から悪意のあることを言われたとしてもスマートなオトナの対応ができる、一線を越えない会話方法を身に付けたいです。そして相手も、言葉を選んでくださると、「良い人だな」とホッとします。
穏やかな気持ちで話せていないと、無意識に、こちらが先にピリピリしているでしょうね。
人間不信モードで会話に入れば、相手に、「この人と話していると四六時中見張られているみたい。何か少しでも気に食わないと根に持たれそうだし、気が休まらないな」と思わせ、疲れさせることでしょう。
過去に私は、無意識に喧嘩を売って回っては言い争い、傷つきました。全部が全部こっちが悪かったとは思いませんが、私のコミュニケーション能力が低いため、相手にストレスを与えたであろうことは確か。
自分が無意識にイライラしている(気が荒い)と、目に入るものなんでもかんでも悪意に見えますが、実際は被害妄想だったりもするもの。勝手にこちらのイメージや記憶と重ね合わせたりとか。
相手にグレーやブラックな部分が見えたとしても(色で表現するのは人種差別の問題的に今はダメかもですね)、グレーやらダークやら無意識の差別偏見やら、至らない部分は自分にもあるものだし、そこまで過剰に反応する必要ないと思うのです。相手がグレーゾーンを問題だと思っていようがいなかろうが、それは相手の勝手。こちらへの害や敵意がなければOK。ある程度、「グレーでもまぁしょうがないじゃない」という余裕、許容が必要であると思うのです。
自分が完璧(自分基準の)に振る舞えたなら、完璧な人間との繋がりだけを求めるのもアリかもしれませんが(ベジタリアンになれたのでベジタリアンとだけ付き合う、みたいな)。有言不実行、実現化能力の低さ、判断ミス、不注意、ブレやズレ、見栄っ張り、強欲、不誠実、世間知らず、都合の悪いことは秘密……。自分はまだまだだなぁと思います。
「自分に甘く、他人に厳しい」人を見ると「?」となりますね。人の言動はやたらと気になるようだけど、ご自分のそれはどうなの? と。
「私ってまだまだだな」と思えるならば、人の至らないところ、見たくない部分をそっとしておきたい。それは見て見ぬ振りっていうより、改善(その人の理想を極め、その人らしい「完成」を目指すこと)には長い時間がかかるものだと思うから。善人を目指しても、一日や二日でどうにかなれるものじゃない、上手くやれない、早く叶えられない人は仲間。お互い様です。中にはすごいスピードで変化できる天才もいるでしょうが、迷ってブレて落ち込んで、そんな人も多いのでしょう。自分の至らない部分から目をそらす、気づかない、そういう時間も重要なのです、きっと。それに加え、「頑なに善悪を決めつけていたのは自分だったな」と、後で思うこともあったり。
自分の勝手な尺度の正義感で、常にこちらが悪を批判する構えならば、相手は罪悪感のある部分について、こちらに心を閉ざすでしょう。たとえば私が「過去にいじめられたから、いじめっ子だけは絶対許せない!」と言い続けていたら、相手は、いじめっ子であった過去を隠すかもしれません。
そうやってどんどん、こちらが無意識に何かを追い詰める空気を放っていけば、誰とも腹を割って話す機会は訪れないかも。隠し事があるのは息苦しいこと。こちらも、自分自身の見たくない何事かから目を逸らしているのかも。
人を無意識に責める、追い込むって、罪を負うことになりそうな気がします。
「人を恨むのは良くないと知ってる、けどどうしてもいじめっ子という存在だけは許せないんだ!」ならなんとなくまだマシそうだけど、正義感を振りかざし、優越感に浸るのは、何か違うような。自分に直接危害を加えたわけでもない人間を勝手に悪だと決め付けて、SNSで叩いて自殺に追い込む、とか。「自分だけじゃない」隠れ蓑で人殺しとは卑怯なような。
けど、見えない部分で人を追い込むって、私もやっている可能性は高いです。至らない自覚がある部分もあり、それ以上に気づかないことはきっと山ほど……。人の振り見えて我が振り見えず、みたいな。
誰かを悪者にしているうちはちょっと、安心なのでしょう。自分に矛先が向かないから。自分の至らなさに気づいたときは……まずいです。
誰かを悪だと決め付ける、弱さに寄り添わない、恐ろしいことです。全部すり替えかも。そもそも動植物を食らう弱肉強食のこの世の中で、善悪を論じること自体が不毛、ではありますが。
思ったことを一方的に言うのは、ある種の快感が伴います。私もこうやって勝手に書いているうちは幸せ。だけれど、こっちの偏った一方通行な思考が、正解であるはずはありません。
善も悪もないなら正しいも間違いもない、もしその極論が結論ならば。
私の言うことは正しくもあり間違いでもない、つまり、こっちが「私は落ちぶれた」と思おうが、「成長した」と思おうが、「善も悪もない」のだから何も変わらない?
どうでしょうね……。愛は心を打ちます。手を差し伸べてもらったとき。労ってくれたとき。何事も善でも悪でもないといったって、嬉しいものは嬉しい。
逆に、疑われるとき。責められるとき。否定され続けるときは辛い。辛いものは辛い……それは大抵共通の感覚ではないでしょうか。
刺激が怖い。想定内の言葉はストレスがないけれど、急に議論など吹っ掛けられようものなら怖い。言葉に詰まる、なんと答えたらいいか分からない、整理がついていない、消化できていない、自分自身の至らない部分やコンプレックスへの刺激。そんな話は持ち出さないでほしい。安心感のある言葉だけ欲しい。私は今、その程度です。
けれど気を使い、気を使われる関係性のみ求めるのはどこか虚しい。100点しか出さない採点マシーンや相槌マシンを、コレクションしているような気持ちになります。一生誰とも腹を割って話せないのかもしれません。褒められても本心かどうか分からず。
そんな中……遠慮のない批判って、ほぼ本心ですね。だから傷つく、なのに気になってしまう。慣れようとしているのかも。
買い物ならみんな遠慮せず、本音をズバズバ言う。私の口には合わなかった、不味いとか。つまらなかった、好みじゃなかった、金返せとか。友達でも知り合いでもないから容赦ないです。
逆に賞賛の意見も、なんの見返りも求めない、本当の言葉です。中にはみんなに合わせる人もいるかもしれませんが、思い入れのある・なしは、見ていれば多少分かるはず。
好みじゃないのは悪いことじゃない。ズバッと言う方が誠実かも。
好みじゃないのに笑顔を振りまいて気を使って、後で陰口言ったり、言わなくても心の奥底が見えなかったり、そういうのも怖いなと。
見せかけの平穏か、少々キツい正直さか。
どっちが私の求める世界か、私には分かりません。
それを決めたいので、批判が気になっているのかもしれませんね。
私はすべての人、すべての物、すべての概念に価値があると信じたい派です。誰が優秀で誰が劣っているとか、何が美しくて何が汚いとか、そんなジャッジは嫌なのです。
今は自分の中にそういう概念がある(ウンコは汚いから触りたくないとか)、だから最終目標とのズレ、矛盾は大いにありますが(ウンコを触りたくないということは、ウンコを触った人を触りたくないという差別が発生しそうですね)。
すべて、優劣とか点数とか善悪じゃなく、「好み」だと思っています。犬派猫派はまぁ良いけど、どっちが上とかは違う。最終的には「全部素晴らしい、全部好き」を目指したいです。
正直私は愛に飢えています。「嘘でもいいから褒めてほしかった」と。
無条件に愛されているように見える人には嫉妬します。自分がそのポジションを目指すことを諦めているからですね。
けれど、嘘の「上手だね」を言ってくれる人が現れたとして、それが何になるのか。
また、私は「嘘でも褒められたかった」、「すべてに価値があると信じたい」から、無条件に相手のことを褒めたいですが、それは相手の望みやスタイルと一致するとは限りません。自分の大好物を人にあげたって、その人の大好物であるとは限らないように。
「自分がされて嬉しいことを人にする」は誠実なのか? そもそも上から目線に褒められるのが嫌いな方もいるでしょうが。
兄弟とかの場合、どうか。親が優秀な方だけをベタ褒めする……それはなにか不愉快。けど、不快・不快じゃないとかの感情ではなく……実際にはどうすべきなのでしょう。頑張った方を褒めすぎず、劣っている方もとりあえず褒める?
学校の教育だの点数だの、評価の基準もおかしいとは思いますが、じゃあ、その場合に親が表せる最大の「誠実な態度」とは何でしょう?
また、兄弟の片方と気が合う・合わないとか。好み・好みじゃないとか。そういう場合、どうしましょう。
私は誠実になれないし、愛の正解も分からないので、自分の人間性も出来上がっていないのに子育てはしたくありません。正直自分だけのために生きたいし、他者に愛情を注げないというのもあります。人と一緒に行動するのは楽しいけど、好きには振る舞えないんだよなーって、オトナの人間関係に対してさえ思うから。
自分の今のレベルを自覚するこそが、私の最大限の誠実さです。できないことはしない。見栄を張らない。ゲスであることを、理由もなくわざわざ、さらけ出す必要はないですが、隠しもしない。
まだまだダメ人間でありたい。だって、ちゃんとした立派な人間って大変そうで、楽しくなさそうに見えるもの。
そろそろ嘘から抜け出したい、誹謗中傷でなく実りのある厳しさを得たい、あるいは、この混沌とした世界で、人の本当の心に触れたいと思ったとき。どうやって優しい嘘を見破るのか。人の闇や本性はどこにあるのか。
普段から嘘をつかないまっすぐな人や、空気読めない人を拒否しないでおかないと、やがて綺麗な嘘しか受け付けない人間になっていくかもしれませんね。少しでも外れたものは叩きのめし、見なくて済むようにし、正しいと思うものを信じ、それ以外を存在しないかのように扱う世界。
人殺しを禁じあえば人殺しは減っていくが、人殺しに走るような人類の本性は消えていない……差別用語が禁じられても、差別自体は残っている……そういう隠された心理、人間の生態、本能。攻撃性を見せない人はなるべくそれらを見せようとしないが、逆に躊躇なく批判する人、SNSでKYなコメントをする人、価値観が古い人などから、人間の本性の片鱗が読み取れるかもしれません。いじめや戦争や差別はダメっていうのに何故やってしまうのか、そもそも何故ダメなのか。理性VS本能かな。
荒ぶる本性を上手く隠し、少しでも温かくあろうとすれば、社交辞令をいただく機会もできる。褒めてもらえることもある。けれど評価が伸びていかない、関わりのない人はちらっとこちらを覗いて去ってゆく。多分面倒だから。一般人の素人には不味かったとも言わず去る、それが現在の自分への、本当の評価。
嘘じゃない評価が欲しい、つまらないならつまらないと、素晴らしいなら素晴らしいと。
甘さじゃなく、本当の意味で認められたい。なら、実力で勝ち取るのみ。
けれどじゃあそもそも、「勝負」は「正しい」の?
横並びの一等賞を批判する人もいますが、そもそも人は体格も能力も違うのに、競わせることが不毛な気がします。ただの能力差……まぁ努力で伸びたり、変えられたりすることはあるでしょうが。変えるのが難しいこともありますよね。
好きでスポーツやゲームの対戦とかはまだ良いですが、学校とかで強制的に優越感や劣等感を植え付けて、一体何になるのでしょう。重い障害を持っていて動きにくい方は、駆けっこで勝ちにくいですよね。で、運動できる体に生まれた人は偉いの? それじゃあ、人種や性別の優劣みたいな、生まれによって人を判断することと大差ないのでは。
鳥や虫が飛べる、魚が泳げる、それぞれ得意分野はあり、すごいとは思うけれど、それは評価されたり、「偉い」と言われることなのでしょうか?
勝負なんて、決着なんて、もっと言えばこの世の学力だの大手企業だの、全部おかしく見えます。「受験頑張れ~」もおかしい、自殺者毎年2万人いることが、あまり話題に上らないのもおかしい。
けれどコンテストで勝つとかすれば一気にアクセスを集められ、チャンスを得、それで食っていけるようになる可能性があるならば。正しいとは思わないこと、合点のいかないことでも、勝ち取りたい。精子が卵子を勝ち取るように。大人になれるウミガメが1000匹に一匹と言われるように。嬉々として勝負に乗ります、やる気が出れば。
現に今も私は、アルファポリスやツギクルで、私の掲載作品のランキング順位をチェックしています。誘導面でランキングは重要そうですからね。
ついでに、今は行っていませんが、カラオケのランキングバトルも好きです。音程バーに合わせれば音程正確率アップ、サビで大声出せば数点アップ、テキトーにビブラートかければ加点されます。こっちは田舎で古い方のDAMの機種なんで、新しい機種のシステムは知りませんが。カラオケはマニュアルに合わせるシューティングゲームだと思っています。
吹奏楽部のときは譜面と指揮者とメトロノームとチューナーに従いました。個性など抑えて、隠し味のごとく溶け込みます。まぁ、メゾフォルテと書かれているところを、お気に入りだからフォルテッシモで吹いたりと、ささやかな反抗はしましたが。気づかれもしなかった。
今は甲子園がアツいですね。やはりバトルには燃えます。
綺麗事を言ってうずくまっても、見向きもされないのでしょう。
そもそも自分の掲げる理想と理性に、自分自身がついて行けていない。じっとうずくまって自分を律していられない。ウズウズする。綺麗事以外のボロが出る、化けの皮が剥がれる。肉を食ってバトルがしたくて、ドロドロ血液が騒ぐのです、これ捨てロール。
創作において面白いもの、素晴らしいものが評価されるってことは、それ以外のものが落ちるという競争。良い人が採用されれば他の人が落ちる、運によっての左右もある。
勝ちたい。率直に言って勝ちたい。カネと居場所と永遠の安泰が欲しい。
あんまり目立ちすぎず、嫉妬・追撃されないくらいのポジションがいい。ゴキブリランキングジャパン6位、くらいの。誰も欲しくねーよそんなポジション、みたいな。
私は責任は嫌いです。そう思うと私の場合、できる限り遊びに近いことで勝ちたいです。命に関わるようなことからは、できるだけ遠く離れたい。
乗り物関係は怖い、食べ物も怖い、生き物に関わる仕事をして命の格差や現状を見せつけられるのも嫌、あと接客も嫌。どうミスっても何者をも殺さないやつがいい。
どうミスってもって言ったって、うっかり仲間を階段の一番上から突き飛ばすとかしたら、業種に関わらず最悪のミスになりますが。あとプライベートで何かやらかしても人生終わりますが。
残念ながら現在は仕事で虫を殺めています。何度潰しても沸くもんだから。
私が潰そうとするまでは、みんなゆったりまったり歩いていたのに、潰し始めたら、分かるんですね、小さな体で一生懸命逃げ惑います。
可哀想ですね。小さくたって、姿が違ったって、虫を殺す光景は、戦争と一緒だと思います。恐怖の感情が見える、必死に逃れようとする生き物に、知能がないとは思えない。人間と一緒です。
お客様が、虫が沸いていることを気にしないでくれる保証があるなら、私は放っておきたい。けれどそうもいかないでしょう。
雇われるとはそういうこと。学校に通うのもそんな感じ。大体すべて、人間様の答えは決まりきっている。
私はどう足掻いても不本意にしか生きられない。私が歩けば命が潰れる、さらに私の存続には唐揚げが必要なのです。大好物だから。
またも責任転嫁な発想で、全員滅んでしまえばいいのにと時々思うんですが、それを言うと人が怒る。
繁殖と存続は生物の性。殺し合うもまた性。非効率な。
闘争心、排他的、愛と許容がない、そして私はそんな社会と自分の強欲に跪く。ウンコですね。
「すべての人がゴキブリをも愛せる社会を目指している、そのときこそ世界の差別も戦争もすべてなくなるだろう」というコンセプトの人は滅多にいません。そのような演説をする人を見たら一票入れるかもしれませんが、選挙に言ったこともありません。人に甘いことなんて、実現する気があろうとなかろうと言えるでしょうし、甘いこと言えば人はついて来るでしょう。逆に、人類になんのメリットもない「ゴキブリファースト」とか言われたら、「おおっ!?」となるかもなのです。
人の多くは、生き物が苦手。だけど目指すくらいは頷いてくれたって良いじゃない、害虫も何も殺さない究極の世界に。すべての生き物が平等に愛され、「可愛いね」と褒められる世界に。
でも頷くって覚悟いりますからね、分かります。私もまだ頷けません。スズメバチに追われる夢ばっか見るし。「うちにシロアリが来てくれて嬉しいわ」とは言えない。
そして農家じゃないから農業害虫と戦っていない。昔から人類が自然と向き合い開拓してきた、苦労を分かりもしないのに綺麗事なんて。
また、「あなたが本当に素晴らしい世界を望むなら、毎日ボランティアしてください」と言われて、それこそが真理だと思ったとしても、私は頷きません。カネが欲しいし、マンガ読みたいし、ゲームしたいし、グダグダ寝たいのです。短冊には毎年世界平和と書いていましたが、それについてのアクションが創作というのは、実際どうなのだろうと思ってきました。思いますが私の場合創作は、「勉強していないのに勉強しているように見せかける」みたいな見せかけ工作かもしれません。なんなら私が「夢を叶えたいけど叶わない」現状を生み出していることも、何かを怠けているのかもしれません。世界を変える意思表示なら、必死に働いて全額募金箱に入れた方が良いかもですからね。
けどそれで人類が進歩しているのかどうかも疑問です。争いを繰り返す、平和の願いが届かない。私の代、私の命なんて短いもので、それ以上にずーっと世界は弱肉強食であり、恐竜も食らい合っていた。人間界においては貧富の差があった。生き物も、体が大きく立派な方が、細く弱々しい方を追い払っています。ならばと私は、滅びのニオイに惹かれます。創作は地球へのストライキかも。物質界においては生産性も影響力もない、だから良い。不参加を目指したい。
まだ私は自身を表現できていない、創作コンセプトが伝わらない……というより定まっていないんでしょう。
覚悟が足りないのはこっちの方。なんたって自分もベジタリアンになれていなかったり、至らないから、創作の面でも手を緩めてしまう。創作に理屈や目的などいらない、やりたいからやるんだ、読んでくださいと食らいつく。
せめて創作でもっともっと振り切って、ギョッとするようなのをやりたい。根底から感覚的に揺さぶられる、理屈じゃない、そんなやつ。
どうせ動いても動かなくても人生は夢幻ならば。疑似体験で感情を掻き乱す、迫真の演技を。世界をもう一つ構築するくらいの化かし。どうやったら書けるかな。意味などない、知らん。
特に、この世のシステムとは違う世界とか惹かれます。それに理屈を通すにはどうしたら良いのか、とかも。
理不尽な世界で生きる人々でなく、究極の理想を描くやつ。でも私にはナントカ主義だのといった社会の仕組みや、これまでの歴史の知識もないし、科学的アイデアもありません。どのようなシステムなら成立するかとか分からない。だから「からくりの鼻唄」とかでは、あらすじで世界観を語るだけになってしまいました。落ちこぼれにも優しい世界、あるいは落ちこぼれの存在しない世界が欲しいならば、何がどう機能すべきか考えないと……。
でもまぁ、脳は10%も使っていないという説もあったし(近年変わったのかな?)、書けなくてもしょうがないや。と、甘く思っています。
だって怖いんだもの、批判されるのが。そして、100%ぶつけても誰にも伝わらないどころか、読まれさえもしないことが。それ以前に、結局グダグダ言って書けないみたいだし。ならもう良いんじゃない、嘘でも褒めてくれる人を探し歩けば。居場所は見つけられる。
綺麗事の海で心を休めて、偽物の愛にすがり付く虚しさ。
かといって本物の悪意に殴られるのも嫌。本気で訴えて、本気の無理解が返ってくるのも嫌。
知っています、「虫には心があり、虫と通じる感覚をひしひしと感じます。虫は我々人間を認識しているし、我々以上に大きな感覚を持っています」と言えば、「あり得ません。構造的に虫には我々の脳に該当するものがない、認知能力も云々かんぬん」と返す人がいること。UFOがありますと言っても、幽霊がいますとか死後の世界がありますと言っても、「あるかないか」議論を始める。なぜか、ないことにしたがる。それが人類です。今まで通り「ないない」言ってたら埒明かないから、あると仮定して先へ進みましょうよ。
虫の脳がどうとか知らんが、怯えたり少しくつろいだりとか、雨の日はダルそうにしてたりとか、虫と人間の行動に大差ねぇだろ、とか張り切って対戦してもしょうがなし。
良いのです、知っています、すべての理屈を越えて頷いてくれる人もきっと一定数いること。その方たちはいずれ、生類憐れみの令DXワールドを実現することでしょう。
私なんかよりよっぽどすごい人いっぱいいる、だからなぁなぁで行こう。私は寝転びます。頷いてくれない人に全力投球してバテるんじゃなく、頷いてくれる人に、頷いてくれる範囲で、こっそり明かすのでヨシ。
「一体この世の中は何なんですか、ケッタイな」、そんな気持ちに挑むのが作品であり、その作品への批判は時として本気ですね。無理解な批判じゃなく、真理への探求。全否定じゃなく、食らいつく反論。人生に、魂に、ぶつかる思い。眠りと目覚めのバトル。
私は……どこかでそんな本気を求めているのかもしれません。負い目も怒りも好みも、人間の汚い部分もタブーも、恐れることなく何もかもさらけ出して、ドン引きされるとかしないとか、嫌われるとか好かれるとか、そんなことはどうでも良く、完全に、思ったことを熱く言い合える世界。
陰口じゃなく、我慢じゃなく、嘘でもなく、綺麗事でもなく、「本当」しかない世界。何も疑う余地のない、覚醒しきった、100パーセントの世界。スパーンと潔い音がしそうな。
けれど今は日常の、化けの皮を剥がさないでほしいのです。
甘い綺麗事の海に浸りたいのです。
嘘でもいいから褒められたい愛されたい、みじめな社交辞令で結構なのです。否定が怖い。
あと5年? 10年? 一万年? 分かりません、気が済むまでです。
癒しが欲しいだけ。だってほら、生活も仕事もあるし、本気のぶつかり合いなんかで疲れたくないもの。熱く語り合えば5億円くれるってなら別ですけど。誰も明日の元気を保証してくれないし、人生崩せば自己責任。化け疲れた狸を飼ってもくれない。
けれどこの地球のすべてがひっくり帰るなら? それは私が思うよりもっともっと、良いことかもしれません。
全力の喧嘩、憎しみ合い、罵り合いが始まるでしょうか? きつく責められ裁かれるのでしょうか?
違うのかも。受け入れ、混ざり、許し合うような。ぶつけなくて済むならば、そっちの方が良いような。
それは「ゴーッ」とか「バキバキ」とか「ギャー!!」とか音のするような天変地異ではなく、花開くように繊細で丁寧で、気遣いの深い天変地異なのかも。
RADWIMPSとセカオワ聴きたいなぁ。
『君の愛も僕の意固地も 明日を越えてゆけるかな 世界最終日その日の午後に残ってる方を 勝者としよう』ってね。
感想を見たい、共有したい。同じ趣味で語り合える友達がいないから、作品名で検索して感想を見たりしているわけですが、どうしても批判に気を取られてしまいます。批判は適当に読み流せばいいのに、そしてそれができないなら見なければ良いのに、どうして無意味にモヤモヤしてしまうのでしょう。
……もしかしたら本当のところは、「思ったことをズバズバ言える人」が羨ましいのかもしれません。
私は批判が怖く、ほんの少しでも否定的なニュアンスのことを言われたと見るや、緊張し、喧嘩モードに入ってしまいます。
本当は、穏やかな気持ちで話したいです。もし相手から悪意のあることを言われたとしてもスマートなオトナの対応ができる、一線を越えない会話方法を身に付けたいです。そして相手も、言葉を選んでくださると、「良い人だな」とホッとします。
穏やかな気持ちで話せていないと、無意識に、こちらが先にピリピリしているでしょうね。
人間不信モードで会話に入れば、相手に、「この人と話していると四六時中見張られているみたい。何か少しでも気に食わないと根に持たれそうだし、気が休まらないな」と思わせ、疲れさせることでしょう。
過去に私は、無意識に喧嘩を売って回っては言い争い、傷つきました。全部が全部こっちが悪かったとは思いませんが、私のコミュニケーション能力が低いため、相手にストレスを与えたであろうことは確か。
自分が無意識にイライラしている(気が荒い)と、目に入るものなんでもかんでも悪意に見えますが、実際は被害妄想だったりもするもの。勝手にこちらのイメージや記憶と重ね合わせたりとか。
相手にグレーやブラックな部分が見えたとしても(色で表現するのは人種差別の問題的に今はダメかもですね)、グレーやらダークやら無意識の差別偏見やら、至らない部分は自分にもあるものだし、そこまで過剰に反応する必要ないと思うのです。相手がグレーゾーンを問題だと思っていようがいなかろうが、それは相手の勝手。こちらへの害や敵意がなければOK。ある程度、「グレーでもまぁしょうがないじゃない」という余裕、許容が必要であると思うのです。
自分が完璧(自分基準の)に振る舞えたなら、完璧な人間との繋がりだけを求めるのもアリかもしれませんが(ベジタリアンになれたのでベジタリアンとだけ付き合う、みたいな)。有言不実行、実現化能力の低さ、判断ミス、不注意、ブレやズレ、見栄っ張り、強欲、不誠実、世間知らず、都合の悪いことは秘密……。自分はまだまだだなぁと思います。
「自分に甘く、他人に厳しい」人を見ると「?」となりますね。人の言動はやたらと気になるようだけど、ご自分のそれはどうなの? と。
「私ってまだまだだな」と思えるならば、人の至らないところ、見たくない部分をそっとしておきたい。それは見て見ぬ振りっていうより、改善(その人の理想を極め、その人らしい「完成」を目指すこと)には長い時間がかかるものだと思うから。善人を目指しても、一日や二日でどうにかなれるものじゃない、上手くやれない、早く叶えられない人は仲間。お互い様です。中にはすごいスピードで変化できる天才もいるでしょうが、迷ってブレて落ち込んで、そんな人も多いのでしょう。自分の至らない部分から目をそらす、気づかない、そういう時間も重要なのです、きっと。それに加え、「頑なに善悪を決めつけていたのは自分だったな」と、後で思うこともあったり。
自分の勝手な尺度の正義感で、常にこちらが悪を批判する構えならば、相手は罪悪感のある部分について、こちらに心を閉ざすでしょう。たとえば私が「過去にいじめられたから、いじめっ子だけは絶対許せない!」と言い続けていたら、相手は、いじめっ子であった過去を隠すかもしれません。
そうやってどんどん、こちらが無意識に何かを追い詰める空気を放っていけば、誰とも腹を割って話す機会は訪れないかも。隠し事があるのは息苦しいこと。こちらも、自分自身の見たくない何事かから目を逸らしているのかも。
人を無意識に責める、追い込むって、罪を負うことになりそうな気がします。
「人を恨むのは良くないと知ってる、けどどうしてもいじめっ子という存在だけは許せないんだ!」ならなんとなくまだマシそうだけど、正義感を振りかざし、優越感に浸るのは、何か違うような。自分に直接危害を加えたわけでもない人間を勝手に悪だと決め付けて、SNSで叩いて自殺に追い込む、とか。「自分だけじゃない」隠れ蓑で人殺しとは卑怯なような。
けど、見えない部分で人を追い込むって、私もやっている可能性は高いです。至らない自覚がある部分もあり、それ以上に気づかないことはきっと山ほど……。人の振り見えて我が振り見えず、みたいな。
誰かを悪者にしているうちはちょっと、安心なのでしょう。自分に矛先が向かないから。自分の至らなさに気づいたときは……まずいです。
誰かを悪だと決め付ける、弱さに寄り添わない、恐ろしいことです。全部すり替えかも。そもそも動植物を食らう弱肉強食のこの世の中で、善悪を論じること自体が不毛、ではありますが。
思ったことを一方的に言うのは、ある種の快感が伴います。私もこうやって勝手に書いているうちは幸せ。だけれど、こっちの偏った一方通行な思考が、正解であるはずはありません。
善も悪もないなら正しいも間違いもない、もしその極論が結論ならば。
私の言うことは正しくもあり間違いでもない、つまり、こっちが「私は落ちぶれた」と思おうが、「成長した」と思おうが、「善も悪もない」のだから何も変わらない?
どうでしょうね……。愛は心を打ちます。手を差し伸べてもらったとき。労ってくれたとき。何事も善でも悪でもないといったって、嬉しいものは嬉しい。
逆に、疑われるとき。責められるとき。否定され続けるときは辛い。辛いものは辛い……それは大抵共通の感覚ではないでしょうか。
刺激が怖い。想定内の言葉はストレスがないけれど、急に議論など吹っ掛けられようものなら怖い。言葉に詰まる、なんと答えたらいいか分からない、整理がついていない、消化できていない、自分自身の至らない部分やコンプレックスへの刺激。そんな話は持ち出さないでほしい。安心感のある言葉だけ欲しい。私は今、その程度です。
けれど気を使い、気を使われる関係性のみ求めるのはどこか虚しい。100点しか出さない採点マシーンや相槌マシンを、コレクションしているような気持ちになります。一生誰とも腹を割って話せないのかもしれません。褒められても本心かどうか分からず。
そんな中……遠慮のない批判って、ほぼ本心ですね。だから傷つく、なのに気になってしまう。慣れようとしているのかも。
買い物ならみんな遠慮せず、本音をズバズバ言う。私の口には合わなかった、不味いとか。つまらなかった、好みじゃなかった、金返せとか。友達でも知り合いでもないから容赦ないです。
逆に賞賛の意見も、なんの見返りも求めない、本当の言葉です。中にはみんなに合わせる人もいるかもしれませんが、思い入れのある・なしは、見ていれば多少分かるはず。
好みじゃないのは悪いことじゃない。ズバッと言う方が誠実かも。
好みじゃないのに笑顔を振りまいて気を使って、後で陰口言ったり、言わなくても心の奥底が見えなかったり、そういうのも怖いなと。
見せかけの平穏か、少々キツい正直さか。
どっちが私の求める世界か、私には分かりません。
それを決めたいので、批判が気になっているのかもしれませんね。
私はすべての人、すべての物、すべての概念に価値があると信じたい派です。誰が優秀で誰が劣っているとか、何が美しくて何が汚いとか、そんなジャッジは嫌なのです。
今は自分の中にそういう概念がある(ウンコは汚いから触りたくないとか)、だから最終目標とのズレ、矛盾は大いにありますが(ウンコを触りたくないということは、ウンコを触った人を触りたくないという差別が発生しそうですね)。
すべて、優劣とか点数とか善悪じゃなく、「好み」だと思っています。犬派猫派はまぁ良いけど、どっちが上とかは違う。最終的には「全部素晴らしい、全部好き」を目指したいです。
正直私は愛に飢えています。「嘘でもいいから褒めてほしかった」と。
無条件に愛されているように見える人には嫉妬します。自分がそのポジションを目指すことを諦めているからですね。
けれど、嘘の「上手だね」を言ってくれる人が現れたとして、それが何になるのか。
また、私は「嘘でも褒められたかった」、「すべてに価値があると信じたい」から、無条件に相手のことを褒めたいですが、それは相手の望みやスタイルと一致するとは限りません。自分の大好物を人にあげたって、その人の大好物であるとは限らないように。
「自分がされて嬉しいことを人にする」は誠実なのか? そもそも上から目線に褒められるのが嫌いな方もいるでしょうが。
兄弟とかの場合、どうか。親が優秀な方だけをベタ褒めする……それはなにか不愉快。けど、不快・不快じゃないとかの感情ではなく……実際にはどうすべきなのでしょう。頑張った方を褒めすぎず、劣っている方もとりあえず褒める?
学校の教育だの点数だの、評価の基準もおかしいとは思いますが、じゃあ、その場合に親が表せる最大の「誠実な態度」とは何でしょう?
また、兄弟の片方と気が合う・合わないとか。好み・好みじゃないとか。そういう場合、どうしましょう。
私は誠実になれないし、愛の正解も分からないので、自分の人間性も出来上がっていないのに子育てはしたくありません。正直自分だけのために生きたいし、他者に愛情を注げないというのもあります。人と一緒に行動するのは楽しいけど、好きには振る舞えないんだよなーって、オトナの人間関係に対してさえ思うから。
自分の今のレベルを自覚するこそが、私の最大限の誠実さです。できないことはしない。見栄を張らない。ゲスであることを、理由もなくわざわざ、さらけ出す必要はないですが、隠しもしない。
まだまだダメ人間でありたい。だって、ちゃんとした立派な人間って大変そうで、楽しくなさそうに見えるもの。
そろそろ嘘から抜け出したい、誹謗中傷でなく実りのある厳しさを得たい、あるいは、この混沌とした世界で、人の本当の心に触れたいと思ったとき。どうやって優しい嘘を見破るのか。人の闇や本性はどこにあるのか。
普段から嘘をつかないまっすぐな人や、空気読めない人を拒否しないでおかないと、やがて綺麗な嘘しか受け付けない人間になっていくかもしれませんね。少しでも外れたものは叩きのめし、見なくて済むようにし、正しいと思うものを信じ、それ以外を存在しないかのように扱う世界。
人殺しを禁じあえば人殺しは減っていくが、人殺しに走るような人類の本性は消えていない……差別用語が禁じられても、差別自体は残っている……そういう隠された心理、人間の生態、本能。攻撃性を見せない人はなるべくそれらを見せようとしないが、逆に躊躇なく批判する人、SNSでKYなコメントをする人、価値観が古い人などから、人間の本性の片鱗が読み取れるかもしれません。いじめや戦争や差別はダメっていうのに何故やってしまうのか、そもそも何故ダメなのか。理性VS本能かな。
荒ぶる本性を上手く隠し、少しでも温かくあろうとすれば、社交辞令をいただく機会もできる。褒めてもらえることもある。けれど評価が伸びていかない、関わりのない人はちらっとこちらを覗いて去ってゆく。多分面倒だから。一般人の素人には不味かったとも言わず去る、それが現在の自分への、本当の評価。
嘘じゃない評価が欲しい、つまらないならつまらないと、素晴らしいなら素晴らしいと。
甘さじゃなく、本当の意味で認められたい。なら、実力で勝ち取るのみ。
けれどじゃあそもそも、「勝負」は「正しい」の?
横並びの一等賞を批判する人もいますが、そもそも人は体格も能力も違うのに、競わせることが不毛な気がします。ただの能力差……まぁ努力で伸びたり、変えられたりすることはあるでしょうが。変えるのが難しいこともありますよね。
好きでスポーツやゲームの対戦とかはまだ良いですが、学校とかで強制的に優越感や劣等感を植え付けて、一体何になるのでしょう。重い障害を持っていて動きにくい方は、駆けっこで勝ちにくいですよね。で、運動できる体に生まれた人は偉いの? それじゃあ、人種や性別の優劣みたいな、生まれによって人を判断することと大差ないのでは。
鳥や虫が飛べる、魚が泳げる、それぞれ得意分野はあり、すごいとは思うけれど、それは評価されたり、「偉い」と言われることなのでしょうか?
勝負なんて、決着なんて、もっと言えばこの世の学力だの大手企業だの、全部おかしく見えます。「受験頑張れ~」もおかしい、自殺者毎年2万人いることが、あまり話題に上らないのもおかしい。
けれどコンテストで勝つとかすれば一気にアクセスを集められ、チャンスを得、それで食っていけるようになる可能性があるならば。正しいとは思わないこと、合点のいかないことでも、勝ち取りたい。精子が卵子を勝ち取るように。大人になれるウミガメが1000匹に一匹と言われるように。嬉々として勝負に乗ります、やる気が出れば。
現に今も私は、アルファポリスやツギクルで、私の掲載作品のランキング順位をチェックしています。誘導面でランキングは重要そうですからね。
ついでに、今は行っていませんが、カラオケのランキングバトルも好きです。音程バーに合わせれば音程正確率アップ、サビで大声出せば数点アップ、テキトーにビブラートかければ加点されます。こっちは田舎で古い方のDAMの機種なんで、新しい機種のシステムは知りませんが。カラオケはマニュアルに合わせるシューティングゲームだと思っています。
吹奏楽部のときは譜面と指揮者とメトロノームとチューナーに従いました。個性など抑えて、隠し味のごとく溶け込みます。まぁ、メゾフォルテと書かれているところを、お気に入りだからフォルテッシモで吹いたりと、ささやかな反抗はしましたが。気づかれもしなかった。
今は甲子園がアツいですね。やはりバトルには燃えます。
綺麗事を言ってうずくまっても、見向きもされないのでしょう。
そもそも自分の掲げる理想と理性に、自分自身がついて行けていない。じっとうずくまって自分を律していられない。ウズウズする。綺麗事以外のボロが出る、化けの皮が剥がれる。肉を食ってバトルがしたくて、ドロドロ血液が騒ぐのです、これ捨てロール。
創作において面白いもの、素晴らしいものが評価されるってことは、それ以外のものが落ちるという競争。良い人が採用されれば他の人が落ちる、運によっての左右もある。
勝ちたい。率直に言って勝ちたい。カネと居場所と永遠の安泰が欲しい。
あんまり目立ちすぎず、嫉妬・追撃されないくらいのポジションがいい。ゴキブリランキングジャパン6位、くらいの。誰も欲しくねーよそんなポジション、みたいな。
私は責任は嫌いです。そう思うと私の場合、できる限り遊びに近いことで勝ちたいです。命に関わるようなことからは、できるだけ遠く離れたい。
乗り物関係は怖い、食べ物も怖い、生き物に関わる仕事をして命の格差や現状を見せつけられるのも嫌、あと接客も嫌。どうミスっても何者をも殺さないやつがいい。
どうミスってもって言ったって、うっかり仲間を階段の一番上から突き飛ばすとかしたら、業種に関わらず最悪のミスになりますが。あとプライベートで何かやらかしても人生終わりますが。
残念ながら現在は仕事で虫を殺めています。何度潰しても沸くもんだから。
私が潰そうとするまでは、みんなゆったりまったり歩いていたのに、潰し始めたら、分かるんですね、小さな体で一生懸命逃げ惑います。
可哀想ですね。小さくたって、姿が違ったって、虫を殺す光景は、戦争と一緒だと思います。恐怖の感情が見える、必死に逃れようとする生き物に、知能がないとは思えない。人間と一緒です。
お客様が、虫が沸いていることを気にしないでくれる保証があるなら、私は放っておきたい。けれどそうもいかないでしょう。
雇われるとはそういうこと。学校に通うのもそんな感じ。大体すべて、人間様の答えは決まりきっている。
私はどう足掻いても不本意にしか生きられない。私が歩けば命が潰れる、さらに私の存続には唐揚げが必要なのです。大好物だから。
またも責任転嫁な発想で、全員滅んでしまえばいいのにと時々思うんですが、それを言うと人が怒る。
繁殖と存続は生物の性。殺し合うもまた性。非効率な。
闘争心、排他的、愛と許容がない、そして私はそんな社会と自分の強欲に跪く。ウンコですね。
「すべての人がゴキブリをも愛せる社会を目指している、そのときこそ世界の差別も戦争もすべてなくなるだろう」というコンセプトの人は滅多にいません。そのような演説をする人を見たら一票入れるかもしれませんが、選挙に言ったこともありません。人に甘いことなんて、実現する気があろうとなかろうと言えるでしょうし、甘いこと言えば人はついて来るでしょう。逆に、人類になんのメリットもない「ゴキブリファースト」とか言われたら、「おおっ!?」となるかもなのです。
人の多くは、生き物が苦手。だけど目指すくらいは頷いてくれたって良いじゃない、害虫も何も殺さない究極の世界に。すべての生き物が平等に愛され、「可愛いね」と褒められる世界に。
でも頷くって覚悟いりますからね、分かります。私もまだ頷けません。スズメバチに追われる夢ばっか見るし。「うちにシロアリが来てくれて嬉しいわ」とは言えない。
そして農家じゃないから農業害虫と戦っていない。昔から人類が自然と向き合い開拓してきた、苦労を分かりもしないのに綺麗事なんて。
また、「あなたが本当に素晴らしい世界を望むなら、毎日ボランティアしてください」と言われて、それこそが真理だと思ったとしても、私は頷きません。カネが欲しいし、マンガ読みたいし、ゲームしたいし、グダグダ寝たいのです。短冊には毎年世界平和と書いていましたが、それについてのアクションが創作というのは、実際どうなのだろうと思ってきました。思いますが私の場合創作は、「勉強していないのに勉強しているように見せかける」みたいな見せかけ工作かもしれません。なんなら私が「夢を叶えたいけど叶わない」現状を生み出していることも、何かを怠けているのかもしれません。世界を変える意思表示なら、必死に働いて全額募金箱に入れた方が良いかもですからね。
けどそれで人類が進歩しているのかどうかも疑問です。争いを繰り返す、平和の願いが届かない。私の代、私の命なんて短いもので、それ以上にずーっと世界は弱肉強食であり、恐竜も食らい合っていた。人間界においては貧富の差があった。生き物も、体が大きく立派な方が、細く弱々しい方を追い払っています。ならばと私は、滅びのニオイに惹かれます。創作は地球へのストライキかも。物質界においては生産性も影響力もない、だから良い。不参加を目指したい。
まだ私は自身を表現できていない、創作コンセプトが伝わらない……というより定まっていないんでしょう。
覚悟が足りないのはこっちの方。なんたって自分もベジタリアンになれていなかったり、至らないから、創作の面でも手を緩めてしまう。創作に理屈や目的などいらない、やりたいからやるんだ、読んでくださいと食らいつく。
せめて創作でもっともっと振り切って、ギョッとするようなのをやりたい。根底から感覚的に揺さぶられる、理屈じゃない、そんなやつ。
どうせ動いても動かなくても人生は夢幻ならば。疑似体験で感情を掻き乱す、迫真の演技を。世界をもう一つ構築するくらいの化かし。どうやったら書けるかな。意味などない、知らん。
特に、この世のシステムとは違う世界とか惹かれます。それに理屈を通すにはどうしたら良いのか、とかも。
理不尽な世界で生きる人々でなく、究極の理想を描くやつ。でも私にはナントカ主義だのといった社会の仕組みや、これまでの歴史の知識もないし、科学的アイデアもありません。どのようなシステムなら成立するかとか分からない。だから「からくりの鼻唄」とかでは、あらすじで世界観を語るだけになってしまいました。落ちこぼれにも優しい世界、あるいは落ちこぼれの存在しない世界が欲しいならば、何がどう機能すべきか考えないと……。
でもまぁ、脳は10%も使っていないという説もあったし(近年変わったのかな?)、書けなくてもしょうがないや。と、甘く思っています。
だって怖いんだもの、批判されるのが。そして、100%ぶつけても誰にも伝わらないどころか、読まれさえもしないことが。それ以前に、結局グダグダ言って書けないみたいだし。ならもう良いんじゃない、嘘でも褒めてくれる人を探し歩けば。居場所は見つけられる。
綺麗事の海で心を休めて、偽物の愛にすがり付く虚しさ。
かといって本物の悪意に殴られるのも嫌。本気で訴えて、本気の無理解が返ってくるのも嫌。
知っています、「虫には心があり、虫と通じる感覚をひしひしと感じます。虫は我々人間を認識しているし、我々以上に大きな感覚を持っています」と言えば、「あり得ません。構造的に虫には我々の脳に該当するものがない、認知能力も云々かんぬん」と返す人がいること。UFOがありますと言っても、幽霊がいますとか死後の世界がありますと言っても、「あるかないか」議論を始める。なぜか、ないことにしたがる。それが人類です。今まで通り「ないない」言ってたら埒明かないから、あると仮定して先へ進みましょうよ。
虫の脳がどうとか知らんが、怯えたり少しくつろいだりとか、雨の日はダルそうにしてたりとか、虫と人間の行動に大差ねぇだろ、とか張り切って対戦してもしょうがなし。
良いのです、知っています、すべての理屈を越えて頷いてくれる人もきっと一定数いること。その方たちはいずれ、生類憐れみの令DXワールドを実現することでしょう。
私なんかよりよっぽどすごい人いっぱいいる、だからなぁなぁで行こう。私は寝転びます。頷いてくれない人に全力投球してバテるんじゃなく、頷いてくれる人に、頷いてくれる範囲で、こっそり明かすのでヨシ。
「一体この世の中は何なんですか、ケッタイな」、そんな気持ちに挑むのが作品であり、その作品への批判は時として本気ですね。無理解な批判じゃなく、真理への探求。全否定じゃなく、食らいつく反論。人生に、魂に、ぶつかる思い。眠りと目覚めのバトル。
私は……どこかでそんな本気を求めているのかもしれません。負い目も怒りも好みも、人間の汚い部分もタブーも、恐れることなく何もかもさらけ出して、ドン引きされるとかしないとか、嫌われるとか好かれるとか、そんなことはどうでも良く、完全に、思ったことを熱く言い合える世界。
陰口じゃなく、我慢じゃなく、嘘でもなく、綺麗事でもなく、「本当」しかない世界。何も疑う余地のない、覚醒しきった、100パーセントの世界。スパーンと潔い音がしそうな。
けれど今は日常の、化けの皮を剥がさないでほしいのです。
甘い綺麗事の海に浸りたいのです。
嘘でもいいから褒められたい愛されたい、みじめな社交辞令で結構なのです。否定が怖い。
あと5年? 10年? 一万年? 分かりません、気が済むまでです。
癒しが欲しいだけ。だってほら、生活も仕事もあるし、本気のぶつかり合いなんかで疲れたくないもの。熱く語り合えば5億円くれるってなら別ですけど。誰も明日の元気を保証してくれないし、人生崩せば自己責任。化け疲れた狸を飼ってもくれない。
けれどこの地球のすべてがひっくり帰るなら? それは私が思うよりもっともっと、良いことかもしれません。
全力の喧嘩、憎しみ合い、罵り合いが始まるでしょうか? きつく責められ裁かれるのでしょうか?
違うのかも。受け入れ、混ざり、許し合うような。ぶつけなくて済むならば、そっちの方が良いような。
それは「ゴーッ」とか「バキバキ」とか「ギャー!!」とか音のするような天変地異ではなく、花開くように繊細で丁寧で、気遣いの深い天変地異なのかも。
RADWIMPSとセカオワ聴きたいなぁ。
『君の愛も僕の意固地も 明日を越えてゆけるかな 世界最終日その日の午後に残ってる方を 勝者としよう』ってね。
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