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「それだけ生きたからもう良いでしょ」なんて人から決められてたまるか
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「死ぬのを恐れて生きることができない」
おもひでぽろぽろのエンディング曲の歌詞。映画のストーリーはよく分かっていないが、今、まさしくこれだと思う。自分が抱く感覚のことだ。
死への恐怖はとっくに克服したつもりだった。人はいつかは死ぬのだと。
事故や事件で死ぬことも、恐れすぎていたつもりはない。「きっと安らかに逝けるはずだ」と、信じることが大切かと。
でも最近になって戻った。まるで幼稚園児や小学生の頃みたいに、死の影に怯えている。
「死」そのものが怖いというより、恐れているのは「人の心」、そこからくるルールや基準、常識かもしれない。
寿命とか生死とか、神の領域だったことが、科学や医療の発達によって訳の分からない状態になり、最終的に「これじゃ破綻する。役立たずの穀潰しは皆殺してしまえ」と言われる気がする。
私は落ちこぼれだったから、「役に立たない」から「いらない」と世界から放り出されることを、ずっと恐れてきた。
発信を続けるのは、いつか認められて好きなことで食べていけるようになりたい、という思いのため。お金を持っていれば現状、事件とかでもなければ殺されることはないから。お金があれば意思を通せる、好きにできる、人として認められるだろうから。
「認められない」「居場所がない」、それは危険な状態だと、本能的になんとなく分かる。それで実際どうなるとかは想像もつかないが、とにかくお金が欲しい。この世界にしがみついていられる切符が欲しい。その恐怖や焦りを直視できないときは、「誰かに勝ちたい」だの「認められたい」だのという「承認欲求」という形で、自分の脳内を占めているのだと思う。
少子高齢化。もらえなくなる年金。寿命は延び、でも老いて動けない期間が延び、医療の発達によってなかなか死なない。動けない人が増えていく。
私が子どもの頃は……子どもだったからかもしれないが、「お年寄りを大切に」と聞いていた。
老いというものを理解はできなかった。今でもしていないが、「お年寄りを大切に」は、そりゃそうだと腑に落ちていた。
それが最近、人間が人間を追い詰める発言が増えてきた。それもどこか遠くの誰かが言っているわけではなく、私のフォロワー様だとか、いつも投稿を見に来てくれる人が言っている。今だとLGBTの話だとか、高齢者に対し。何だか恐ろしい空気が渦巻いている。
LGBTの話については、私もおそらく誤解ばかりで、また、「性犯罪に遭ったために異性が怖い」とずっと言っている。私も差別主義なのだろう。正しく理解していないから、「苦しんでいる人がいるのに、ますます追い詰めるような動きが沸き上がっていて、こんなことじゃいけない!」と声を大にして言えない。何が差別で何が理解なのか、ますます分からなくなってくる。自分自身の偏見とも向き合わないといけないが、人間不信がついて回る。
高齢者に関する話はもう、怖いことしか耳にしない。優しい話、温かい話がないような。
映画などのストーリーでも、「高齢者が亡くなる」ということは感動的なシーンとして描かれることが多かったかもしれない。ただそれは死の美化というより、「人はいつかは死ぬ(だから後悔のないように)」という意味合いだと思っていた。
けれど実際は人って、映画のように綺麗にスッと死んでいくわけではないだろう。介護が必要なまま、何年も生きるとか。
ご老人でなくても、私の身近にいる精神障がい(?)のある人が、自分勝手で感情的でこだわりが強い。「俺は若いうちに散々楽しいことをして、あとは死んでやる」と言っているが、自殺するということは彼の性格からしてまずないだろう。
おそらく彼は、ある日安らかに死んでゆく……というようなことを夢見ているのかもしれないが、まだ若くて健康体なので、本人が「好き勝手して死ぬ」と言ったところでそのようには見えない。
映画のご老人の死も、自然で美しく、「色々あったけれど幸せだった」というストーリーが多いだろうけど、人はそんなタイミングよく潔く死ねるものではないだろう。
私は小学生の頃いじめられたとき、たしか「死ね!」などと言われて号泣した。
「死ねと言われて死ぬことなんてないのだから、ちょっとキツいことを言われたくらい言い返してやれ」と大人からは言われた気がする。相手の言動で一喜一憂、ビクビクオドオドするな、と。
しかし「死ね」という言葉は重かった。人から罵られたり怒鳴られたり、それが悪ふざけであったとしても怖かった。
本当に私は……何も克服などしていなかった。恐れてしまった。今でも誰かの婉曲的な「死ね」という意見を恐れ続けているのだ。
昔よりも殺意が重く響いてくるかもしれない。子どものそれはただの凶暴さであっても、大人の「死ね」には理屈が伴うから。
「死ねと言われたら死ぬのか?」「生きなさい」
子どもの頃はそう言ってもらえたけれど、それは未来ある若者だったからで、若くなくなり可能性もなくなれば、誰もその言葉をかけてくれないのではないか。
そう思うと、自分の意思で「死にたくない」と言ってみたところで、一体その意思がどこまで通せるのかと、不安でしょうがない。「働きたくない」と言っても働かねばならないように、「死にたくない」と言っても死に追いやられる時代がくるのではないか、と。
すべての人が死ぬまで健康に、元気で楽しく過ごせて、そして時がきたら自然に安らかに死ねる、それならば何の問題もない。それが「いつになったら死ぬんだ」だの「金がかかるばかりで何もできない高齢者が増えて」だの。そんなことを言われる、または目の前では言わないけれど死ぬまで匂わされるなら、恐ろしすぎる。
死刑議論のときから思っていたけど、世の中おかしい。一体誰が誰のために生きているというのだろう。誰かを殺した上で「ああ清々した、これで邪魔者もいず、快適に暮らせるな」と、笑いながら幸せに生きていけるか? 誰かを殺して得た「安定」など……。
なんて、私は事件から遠く離れているから、殺人犯にも命があるだのと言えるのかもしれないが。
別に犯罪者でもなくても、現代では恨みが飛び交う。
邪魔者を消したとする。で、次、自分が心や体の病気で動けなくなったらどうする? 「今度は私が邪魔者になったから殺してください」って言うのか?
みんなが「家族や次世代のためならそう言える」と言うならば、私はこの世と心底気が合わない。自己犠牲を美とし、強要さえするかのような空気が恐ろしい。
暴力だけが人を殺すのではない。追い詰められて自殺するように。
今の時代、呪いのような気持ちの悪い殺気で溢れていると感じるのは私だけか? 直接手出しができないから、じわじわと絞め殺そうとするような殺気。
医療で寿命が延びた。寿命だけが延びた。
「いつ死ぬか?」選択する。延命するかしないかとか。
みんなが自然に楽に逝けたらいいのに、命の選択や選別が重すぎて、恐ろしい。
虫が部屋に出たら、当然のように殺虫スプレーを浴びせかけて殺す。人間からすればほんの小さいことであろうその行いも、実際は「命を奪う」というのは一体どういうことなのか、誰にも分からないのだ。分かっていたら殺すはずないんじゃないか。魂、幽霊、生まれ変わり……死者に意志があるならば。
今は生者の意思さえ分からない。喋れたって、みんなが思ったことをどれだけ口に出しているか分からない。潜在意識だってある。感情が渦巻いている。
「医療で寿命が延びたら、何もできないけど生きているだけの人が増えて、介護負担が増え、若手は減る一方で人手不足、命が手に負えなくなった」?
「ペットをいっぱい飼ったけど世話しきれなくなった」みたいに、無責任すぎる響きだ。行き当たりばったりというか、命の扱いが軽いというか。
安楽死の議論も。安楽死が選択肢の一つならば、誰かにとっては「あるべき」なのかもしれないけれど……。
死というものが天から与えられるものでなく、人が選んでしまう。それが恐ろしい。
たとえばペットなどを、ボロボロになっても生き長らえさせる術があるならそうするか。苦しまないよう安楽死させてあげるか。なんて、難問すぎて。
重い現実から目を逸らすために、平和そうな人々の話や、創作ストーリーを見るけれど。現実の最期はどうなるのだろうかと、考えただけで恐ろしい。
「少子高齢化社会の今。貴重な労力である若者の手を、介護で煩わせたくない。だから人は、倒れて動けなくなったら、そこから一年間自分のために思いっきり生きて、家族とも楽しい時間を過ごした後、一年後に家族に見守られながら安楽死するのだ」なんてことが、選択肢でなく「みんなこうすべき」みたいな常識になったらどうする?
そんなの怖すぎる、嫌すぎる。けれど何だかそういう狂気じみた空気を社会から感じる。それが狂気でさえなく正論に近いというなら、私はもう本当に、この世界が嫌だ。
未来の悲観のしかたは人それぞれだけれど、こういう空気を感じた末に、死んでしまいたくなるというのは分かる。いつか誰かの手でじわじわと殺されるくらいなら、いっそ一思いに、今のうちに死んでやると。人の手で殺される恐怖より、自分で死ぬ方がマシだと。
分かるけど私は怖いから死なない。
生きたまま棺桶に入れられた夢を見た。
そういうのが嫌なんだ。眠るように安らかに、自然に、ベストタイミングで、美しく優しく。死とはそういうもので良いじゃないか。そうあってほしい。
現実はなぜ違うんだ。生と死の境が曖昧で、いらなくなった命を殺処分とか。まだまだ生きられる子犬や子猫までも。なぜだ。
意味が分からなすぎる。メチャクチャだ。無計画で無責任で行き当たりばったりで、命が軽い。平気で捨てようとする。
「みんな、お国のために役立てなくなったらそのときは安楽死すべきだ。我々の誇りのために」なんて言い出したらもう……。そもそも何のために命を延ばしてきたんだか……。何のために生まれるんだか……。何もかも、訳が分からない。
この世が憎い。地球も人間も生き物も大っ嫌いだと言ってしまいたい。
でもそんなの叫んだところで、だから何だ。何も起こらない。
けど私の言っていること、「共感するよ。なんか気が楽になった」と言ってもらえるどころか、誰かが強烈にショックを受けて死ぬ可能性も0ではない。憂鬱にさせるかも。
私自身、解決策や結論を持っていないものだから、ひたすら暗い話にしかならない。
「そうだよなぁ、やっぱり死ぬしかないよな」と思わせたくない。思わせたくない、けど、とりあえず考えなきゃ……。
どうやって生きる? 「君たちはどう生きるか」どころか「私はどう生きれば」だ。
そうそう、明日は今より良い未来かもしれない。機械たちが介護を手伝ってくれて、老いて力が弱ってもパワースーツで、なんの心配もなく生きていけるようになるかもしれない。気長に考えよう。大丈夫だきっと、大丈夫……。
意思のあるもの、意思を示してくるものは殺しにくいだろう。鍋に入れようとしたエビが「殺さないで!」と叫んだら、鍋に入れられないのではないか。だから無能な私はこうしてキャンキャン吠えまくって、殺されまいと言葉を磨いているのだ。
意思ある限りこの世を呪ってやる。絶対、ハエもゴキブリもカビも微生物も虫たちも、誰も死なない世界にするんだ。なるんだ。
……バシャールの本読もうかな。読むべきかな。本が苦手で近年何も読めないんだけど。
この星は、変わる。変える。絶対に。
誰も恐怖を感じない、苦しまない世界になるまで……。私自身が誰かを苦しめたり怒らせたり疲れさせたり寿命を縮めたりしているかもしれないけど、それでも……。
こんな苦しみはすべてこの世のせいであって、私たちのせいじゃない。
弱肉強食に病、災害、老い。この世界に反逆してやる。絶対に、受け入れない。
おもひでぽろぽろのエンディング曲の歌詞。映画のストーリーはよく分かっていないが、今、まさしくこれだと思う。自分が抱く感覚のことだ。
死への恐怖はとっくに克服したつもりだった。人はいつかは死ぬのだと。
事故や事件で死ぬことも、恐れすぎていたつもりはない。「きっと安らかに逝けるはずだ」と、信じることが大切かと。
でも最近になって戻った。まるで幼稚園児や小学生の頃みたいに、死の影に怯えている。
「死」そのものが怖いというより、恐れているのは「人の心」、そこからくるルールや基準、常識かもしれない。
寿命とか生死とか、神の領域だったことが、科学や医療の発達によって訳の分からない状態になり、最終的に「これじゃ破綻する。役立たずの穀潰しは皆殺してしまえ」と言われる気がする。
私は落ちこぼれだったから、「役に立たない」から「いらない」と世界から放り出されることを、ずっと恐れてきた。
発信を続けるのは、いつか認められて好きなことで食べていけるようになりたい、という思いのため。お金を持っていれば現状、事件とかでもなければ殺されることはないから。お金があれば意思を通せる、好きにできる、人として認められるだろうから。
「認められない」「居場所がない」、それは危険な状態だと、本能的になんとなく分かる。それで実際どうなるとかは想像もつかないが、とにかくお金が欲しい。この世界にしがみついていられる切符が欲しい。その恐怖や焦りを直視できないときは、「誰かに勝ちたい」だの「認められたい」だのという「承認欲求」という形で、自分の脳内を占めているのだと思う。
少子高齢化。もらえなくなる年金。寿命は延び、でも老いて動けない期間が延び、医療の発達によってなかなか死なない。動けない人が増えていく。
私が子どもの頃は……子どもだったからかもしれないが、「お年寄りを大切に」と聞いていた。
老いというものを理解はできなかった。今でもしていないが、「お年寄りを大切に」は、そりゃそうだと腑に落ちていた。
それが最近、人間が人間を追い詰める発言が増えてきた。それもどこか遠くの誰かが言っているわけではなく、私のフォロワー様だとか、いつも投稿を見に来てくれる人が言っている。今だとLGBTの話だとか、高齢者に対し。何だか恐ろしい空気が渦巻いている。
LGBTの話については、私もおそらく誤解ばかりで、また、「性犯罪に遭ったために異性が怖い」とずっと言っている。私も差別主義なのだろう。正しく理解していないから、「苦しんでいる人がいるのに、ますます追い詰めるような動きが沸き上がっていて、こんなことじゃいけない!」と声を大にして言えない。何が差別で何が理解なのか、ますます分からなくなってくる。自分自身の偏見とも向き合わないといけないが、人間不信がついて回る。
高齢者に関する話はもう、怖いことしか耳にしない。優しい話、温かい話がないような。
映画などのストーリーでも、「高齢者が亡くなる」ということは感動的なシーンとして描かれることが多かったかもしれない。ただそれは死の美化というより、「人はいつかは死ぬ(だから後悔のないように)」という意味合いだと思っていた。
けれど実際は人って、映画のように綺麗にスッと死んでいくわけではないだろう。介護が必要なまま、何年も生きるとか。
ご老人でなくても、私の身近にいる精神障がい(?)のある人が、自分勝手で感情的でこだわりが強い。「俺は若いうちに散々楽しいことをして、あとは死んでやる」と言っているが、自殺するということは彼の性格からしてまずないだろう。
おそらく彼は、ある日安らかに死んでゆく……というようなことを夢見ているのかもしれないが、まだ若くて健康体なので、本人が「好き勝手して死ぬ」と言ったところでそのようには見えない。
映画のご老人の死も、自然で美しく、「色々あったけれど幸せだった」というストーリーが多いだろうけど、人はそんなタイミングよく潔く死ねるものではないだろう。
私は小学生の頃いじめられたとき、たしか「死ね!」などと言われて号泣した。
「死ねと言われて死ぬことなんてないのだから、ちょっとキツいことを言われたくらい言い返してやれ」と大人からは言われた気がする。相手の言動で一喜一憂、ビクビクオドオドするな、と。
しかし「死ね」という言葉は重かった。人から罵られたり怒鳴られたり、それが悪ふざけであったとしても怖かった。
本当に私は……何も克服などしていなかった。恐れてしまった。今でも誰かの婉曲的な「死ね」という意見を恐れ続けているのだ。
昔よりも殺意が重く響いてくるかもしれない。子どものそれはただの凶暴さであっても、大人の「死ね」には理屈が伴うから。
「死ねと言われたら死ぬのか?」「生きなさい」
子どもの頃はそう言ってもらえたけれど、それは未来ある若者だったからで、若くなくなり可能性もなくなれば、誰もその言葉をかけてくれないのではないか。
そう思うと、自分の意思で「死にたくない」と言ってみたところで、一体その意思がどこまで通せるのかと、不安でしょうがない。「働きたくない」と言っても働かねばならないように、「死にたくない」と言っても死に追いやられる時代がくるのではないか、と。
すべての人が死ぬまで健康に、元気で楽しく過ごせて、そして時がきたら自然に安らかに死ねる、それならば何の問題もない。それが「いつになったら死ぬんだ」だの「金がかかるばかりで何もできない高齢者が増えて」だの。そんなことを言われる、または目の前では言わないけれど死ぬまで匂わされるなら、恐ろしすぎる。
死刑議論のときから思っていたけど、世の中おかしい。一体誰が誰のために生きているというのだろう。誰かを殺した上で「ああ清々した、これで邪魔者もいず、快適に暮らせるな」と、笑いながら幸せに生きていけるか? 誰かを殺して得た「安定」など……。
なんて、私は事件から遠く離れているから、殺人犯にも命があるだのと言えるのかもしれないが。
別に犯罪者でもなくても、現代では恨みが飛び交う。
邪魔者を消したとする。で、次、自分が心や体の病気で動けなくなったらどうする? 「今度は私が邪魔者になったから殺してください」って言うのか?
みんなが「家族や次世代のためならそう言える」と言うならば、私はこの世と心底気が合わない。自己犠牲を美とし、強要さえするかのような空気が恐ろしい。
暴力だけが人を殺すのではない。追い詰められて自殺するように。
今の時代、呪いのような気持ちの悪い殺気で溢れていると感じるのは私だけか? 直接手出しができないから、じわじわと絞め殺そうとするような殺気。
医療で寿命が延びた。寿命だけが延びた。
「いつ死ぬか?」選択する。延命するかしないかとか。
みんなが自然に楽に逝けたらいいのに、命の選択や選別が重すぎて、恐ろしい。
虫が部屋に出たら、当然のように殺虫スプレーを浴びせかけて殺す。人間からすればほんの小さいことであろうその行いも、実際は「命を奪う」というのは一体どういうことなのか、誰にも分からないのだ。分かっていたら殺すはずないんじゃないか。魂、幽霊、生まれ変わり……死者に意志があるならば。
今は生者の意思さえ分からない。喋れたって、みんなが思ったことをどれだけ口に出しているか分からない。潜在意識だってある。感情が渦巻いている。
「医療で寿命が延びたら、何もできないけど生きているだけの人が増えて、介護負担が増え、若手は減る一方で人手不足、命が手に負えなくなった」?
「ペットをいっぱい飼ったけど世話しきれなくなった」みたいに、無責任すぎる響きだ。行き当たりばったりというか、命の扱いが軽いというか。
安楽死の議論も。安楽死が選択肢の一つならば、誰かにとっては「あるべき」なのかもしれないけれど……。
死というものが天から与えられるものでなく、人が選んでしまう。それが恐ろしい。
たとえばペットなどを、ボロボロになっても生き長らえさせる術があるならそうするか。苦しまないよう安楽死させてあげるか。なんて、難問すぎて。
重い現実から目を逸らすために、平和そうな人々の話や、創作ストーリーを見るけれど。現実の最期はどうなるのだろうかと、考えただけで恐ろしい。
「少子高齢化社会の今。貴重な労力である若者の手を、介護で煩わせたくない。だから人は、倒れて動けなくなったら、そこから一年間自分のために思いっきり生きて、家族とも楽しい時間を過ごした後、一年後に家族に見守られながら安楽死するのだ」なんてことが、選択肢でなく「みんなこうすべき」みたいな常識になったらどうする?
そんなの怖すぎる、嫌すぎる。けれど何だかそういう狂気じみた空気を社会から感じる。それが狂気でさえなく正論に近いというなら、私はもう本当に、この世界が嫌だ。
未来の悲観のしかたは人それぞれだけれど、こういう空気を感じた末に、死んでしまいたくなるというのは分かる。いつか誰かの手でじわじわと殺されるくらいなら、いっそ一思いに、今のうちに死んでやると。人の手で殺される恐怖より、自分で死ぬ方がマシだと。
分かるけど私は怖いから死なない。
生きたまま棺桶に入れられた夢を見た。
そういうのが嫌なんだ。眠るように安らかに、自然に、ベストタイミングで、美しく優しく。死とはそういうもので良いじゃないか。そうあってほしい。
現実はなぜ違うんだ。生と死の境が曖昧で、いらなくなった命を殺処分とか。まだまだ生きられる子犬や子猫までも。なぜだ。
意味が分からなすぎる。メチャクチャだ。無計画で無責任で行き当たりばったりで、命が軽い。平気で捨てようとする。
「みんな、お国のために役立てなくなったらそのときは安楽死すべきだ。我々の誇りのために」なんて言い出したらもう……。そもそも何のために命を延ばしてきたんだか……。何のために生まれるんだか……。何もかも、訳が分からない。
この世が憎い。地球も人間も生き物も大っ嫌いだと言ってしまいたい。
でもそんなの叫んだところで、だから何だ。何も起こらない。
けど私の言っていること、「共感するよ。なんか気が楽になった」と言ってもらえるどころか、誰かが強烈にショックを受けて死ぬ可能性も0ではない。憂鬱にさせるかも。
私自身、解決策や結論を持っていないものだから、ひたすら暗い話にしかならない。
「そうだよなぁ、やっぱり死ぬしかないよな」と思わせたくない。思わせたくない、けど、とりあえず考えなきゃ……。
どうやって生きる? 「君たちはどう生きるか」どころか「私はどう生きれば」だ。
そうそう、明日は今より良い未来かもしれない。機械たちが介護を手伝ってくれて、老いて力が弱ってもパワースーツで、なんの心配もなく生きていけるようになるかもしれない。気長に考えよう。大丈夫だきっと、大丈夫……。
意思のあるもの、意思を示してくるものは殺しにくいだろう。鍋に入れようとしたエビが「殺さないで!」と叫んだら、鍋に入れられないのではないか。だから無能な私はこうしてキャンキャン吠えまくって、殺されまいと言葉を磨いているのだ。
意思ある限りこの世を呪ってやる。絶対、ハエもゴキブリもカビも微生物も虫たちも、誰も死なない世界にするんだ。なるんだ。
……バシャールの本読もうかな。読むべきかな。本が苦手で近年何も読めないんだけど。
この星は、変わる。変える。絶対に。
誰も恐怖を感じない、苦しまない世界になるまで……。私自身が誰かを苦しめたり怒らせたり疲れさせたり寿命を縮めたりしているかもしれないけど、それでも……。
こんな苦しみはすべてこの世のせいであって、私たちのせいじゃない。
弱肉強食に病、災害、老い。この世界に反逆してやる。絶対に、受け入れない。
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こちらは以前投稿したエッセイです。宜しければ覗いていってください。
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