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うちのハエトリグモはたぶん神の使い。命について考えさせてくれる生き物。(今日は共食いをしていた……)

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 うちにはペットはいないけれど様々な生き物が行き交っていて、賑やかである。
 そんな生き物たち、大抵は迷子なので外に逃がさないと死んでしまう。ヤモリやゲジなどが入ってくるので「今はここにいたいのかな」と思って放っておいたところ、数日後に家の中で死んでいたということが多くあった。可哀想なことをしてしまった。やっぱりこの子たちは家の中では生きられないんだと思い、それからできるだけ外に出すようにしている。

 ただ、ハエトリグモや紙魚やカツオブシムシ、ヒメマルカツオブシムシは出入り自由らしい。そう判断した理由は、それらの虫をたくさん見かける割に家の中で遺体を見たことがほとんどないからだ。

 私は目が悪い。とはいえ、家の中にゴロゴロ前述の虫の遺体が転がっていれば、時々気づくことだろう。他の虫(ユスリカやガガンボ)の遺体は見るのに、ハエトリグモたちの遺体があまり目に止まらないということは、多分、家から出られなくなって死ぬことはないということだ。


 とはいえたまには命を落としている住民も見る。

 紙魚は額縁の中で死んでいたことがあった。絵を食べようとして額縁から出られなくなり圧死したようだ。可哀想だが、紙魚は元々絵を食べるために額縁の中にいる姿を何度か見かけていたから……仕方ないかもしれない。

 カツオブシムシは……私が本の下に潜り込んだカツオブシムシ(ヒメマルカツオブシムシだったかもしれない)の写真を撮ろうとして本を動かしたときに、その衝撃で殺してしまった。小さな生き物にとっては人間の小さな動きも死に繋がるのだ、と反省した。

 ハエトリグモは家の中で死んでいるところはほとんど見ないが、一度亡くなるところを見た。一匹のハエトリグモが床で不自然な動きをしており、たしかひっくり返って起き上がれなくなったりしてもがいていた。
 その後何度か様子を見ていると、ハエトリグモはけっこう長い間その場で生きていた。やがてゆっくりと死へ向かっていき……何日か後には遺体となっていたのだった。

 その後、私がハエトリグモのメスを踏みつぶしてしまったこともあった。それはショックなことだった。


 私は前からハエトリグモに対し好印象を抱いていたが、ハエトリグモの名前、種類、表情については去年まで詳しく知らなかった。ハエトリグモというグループについてもわりと近年知ったところだ。そのため、以前ハエトリグモの死を見たこと、ハエトリグモを踏み潰したことについては、やや記憶が少ない。何年か経ってしまったということもあるが。

 去年からダイソーのスマホ用接写レンズを使ってハエトリグモの写真を撮り始めた私は、ハエトリグモの姿や模様、愛らしい表情の虜になった。今まで一緒に暮らしておきながら、私はハエトリグモの姿をよく知らなかったのだ。そこからハエトリグモの種類についても調べ、少し見分けられるようになった。

 そこからハエトリグモの可愛い動画……マウスポインタを追う姿や、鏡に反応する様子など……を見るようになり、うちのハエトリグモのこともよく観察するようになった。すると写真を見ている分、肉眼でもハエトリグモの姿が分かるようになってきた。一度鳥の写真を撮って調べたりすると「あ、アオサギだ」「ヒヨドリだ」と肉眼で見分けられるようになるのと同じように。

 それまでは蜘蛛は蜘蛛、鳥は鳥としか認識していなかったのに……写真を撮って調べたり観察したりすると覚えられるというのは不思議なことである。

 ハエトリグモと何十秒か見つめ合ったりもするようになった。ハエトリグモは不思議な生き物で、こちらが見つめると顔を上げて見つめ返してくることがある。
 あれは怯えて動けないのだろうか。でもこちらの存在に気づくと逃げてゆく子もいるので、じっと見上げてくる子が怯えているようにはあまり見えない。こちらがじっとしているとすぐ側まで近づいてきてくれることもある。お互い認識しているように思う。


 そんなわけでハエトリグモに対して愛着が沸いていたのだが、先月、ハエトリグモを掃除機でひき殺すという事故を起こしてしまい、ものすごくショックだった。その子はいつも同じ場所(壁)をチョロチョロと歩いていた。可愛い女の子だった。

 その日、ハエトリグモは床に近い場所にいて……私が「あっ」と気づき掃除機を止めたときには遅かった。掃除機をぶつけた衝撃ののち、その子がゆっくりと床に崩れ落ち、体を縮めてピクリとも動かなくなる姿を見た。

 あんなに可愛がっていたのに私はなんて不注意でひどいことをしたのだろう。すごく悲しかった。この子もここなら安全と思っていたんじゃないだろうか。まさか私が殺してしまうなんて。


 これがハエトリグモだから私は罪を問われたりはしていない。しかし不注意で殺してしまった命は戻ってこない。気づこうと気づくまいと、命の重さはどの生き物も同じなのだ。
 わざとじゃなくても、事故を起こしてしまうことがある……。そしてよく考えたら私は、ハエトリグモの死を認識したけれど、今までに食べたフライドチキンの数は認識していなかった。牛や豚の死を感じていなかった。名もなき命をいただいて今日も生きているのだという意識が足りなかった。そんなことも思った。

 軽い気分のときはつい、「ペットを飼いたいなー。可愛いだろうな」などと考えたりするのだが、この事故で改めて自分の不注意さを知った。命と向き合うには覚悟や心構えが必要なのだ。ハエトリグモは命の重さについて考える機会を与えてくれた。


 事故のあとはしばらく落ち込んでいた。その子を殺した日から家の中は静かになり、誰もいない壁を見つつ、私が殺していなければあの子はまだこの壁をチョロチョロと歩いていただろうなと考えると辛かった。他のハエトリグモたちも第六感か何かでここが蜘蛛殺しの家だと気づいただろうか。

 しかしその数日後。別のハエトリグモが二匹、家の中に入ってきた。
 まさかまた入ってきてくれるとは。でもそうだなぁ……。外にはカマキリや鳥といった捕食者がウヨウヨいる。ハエトリグモにとっては屋内の方がまだ安全なのかもしれない。

「虫があれこれ考えたりするか?」と言う人もいるかもしれないが、私は、生き物たちは人間が思う以上に色々なことを認識し、考えていると思う。それはきっと人間の想像の範囲を越えているから、私も生き物の気持ちを捉え間違えているところが多々あるのだろうけれど……。生き物は「魂」で生きているに違いない。
 だからこそ、自分たち人間のシステムも含め、「なぜ弱肉強食なの?」と疑問に思うところもあるのだが……。


 さて、今月になって悲しみも癒えた頃、家のハエトリグモは3~4匹になっていた。秋になって、暖かい室内に惹かれたのだろうか。随分賑やかだ。

 そして、ハエトリグモの定位置の一つ、電気の傘で……今日はハエトリグモ同士がある出来事を起こした。共食いだ。

 一匹がもう一匹に近づき……よくは見えなかったが、気づいたときには一匹のハエトリグモが何かを捕食していた。もう一匹のハエトリグモらしかった。

 私はそれをボーッと見ていた。ハエトリグモは大きな獲物の消化に時間がかかるのだなと思った。前回あの子をひき殺した事故とは状況が違う。ハエトリグモは誰かの所有物ではないから……これは自然の摂理だ。

 そう、所有物ではない……。野生の世界では当たり前のように命を奪われる。自分の命に対する所有権すらなく、自分の命であっても自分の所有物ではないのだろう。


 私はそれまでよく自然の摂理について考えていた。人間にとって迷惑な生き物を狩る捕食者は益虫や益獣と呼ばれ、好かれ、信仰の対象になることなどを。

 人間はあれがいけない、これがいけないという善悪観を持っている。しかしその善悪観の中の命の重みは平等ではない。理屈が通っているわけでもない。

 愛情とは贔屓である……かもしれない。狩る生き物にも狩られる生き物にも人生があるのだ。真剣勝負だ。それを思うと私にはハエトリグモの共食いを止める権利はないかもしれない。

 私が食べているフライドチキン、楽しみに持って帰ろうとしていたフライドチキンを誰かに取り上げられたら怒るだろう。そして有無を言わせずそんなことをしてくる人など滅多にいない。買ったフライドチキンは私のものだ。ニワトリの命や体は人間のもの。人間にとっては当たり前の理屈だ。

 でも野生生物は違う世界で生きている。毎日命懸けだ。私はお金を出してご馳走を買おうと思えばできるが、ハエトリグモはお金を出せばいつでも美味しいものを食べられるというものではない。一歩間違えば自分が傷つくかもしれない大きな相手に飛びかかり、勝利したときにやっとご馳走を手に入れられるのだ。

 食に対する覚悟と重みが違うのだろう。明日自分が生きるか死ぬか分からない世界で、命を懸けてでもご馳走を食べたいのだ。私は食べ物をいつ、何個食べたか忘れるような薄い感覚の中で生きている。羽をばたつかせてもがくニワトリの姿も、断末魔をあげる牛や豚の姿も知らない。昨日何を食べたかすら忘れてゆく。

 ハエトリグモが一回一回の食事を覚えているかどうかは知らない。ただ、私とは根本的に違うのだ。


 以前ハエトリグモが蚊を食べる様子を見た。蜘蛛は消化液を獲物の体内に注入して液体にして飲み込む「体外消化」を行うらしい。たしか、ハエトリグモは生きたままの蚊をくわえ続け……しばらくしてポトッと落とされた蚊はまだ生きて動いていた。残酷なやり方をするなぁと思った。

 命ってなんなのだろう。一匹一匹が生きていて。弱肉強食で。

 以前、猫に食べられかけた鳥を助けた人間が、鳥に恩返しされたという話があった。鳥は命の恩人が分かるんだ。
 猫は野良猫だったんだろうか。肉食獣は獲物が捕れなかったらまた狩りをする……といっても狩りもすごく大変なことなんだろう。一回一回、相当なエネルギーを使うものだろう。エネルギーを使って次の一食を手に入れる……それまでに力尽きれば死んでゆくのだろうか。


 私はハエトリグモの共食いを防ぐこともできる。室内のハエトリグモが増えてきたら何匹か逃がして、一匹にすればいい。逃がしてもハエトリグモはまた入ってくるだろうが、入ってくる度に逃がす方法もある。
 ただ、逃がしたって私の目の届かない所へ行くだけだ。外で共食いをしたり、他の生き物に捕食されたりといったことは起こるだろう。

 そして私の言い分は何か。どうしたいのか。「ハエトリグモを食べずに別の生き物を食べてください」ということか。
 何を食べていいか、何を食べるのが良くないかなんて、そんなこと、誰に決める権利があるんだろう。食べる側は命懸けであり、食べられる側にも命があるのだ。

「ペンギンは可愛いし貴重だから食べちゃダメ。ニワトリならいい」
 そんな理屈、自然界にはない。滅ぶときは滅ぶ。
 そしてハエトリグモにはハエトリグモの理屈があるのかもしれない。


 私は、一匹一匹覚えて名前を付けるほどハエトリグモを見分けられるわけではない。しかし今回食べられたハエトリグモのことを「可愛いな」と思いながら眺めた時間はきっとあった。

 その子を見殺しにしたのはなんだか裏切った感がある。可愛いと思っていたのに助けなかった。
 しかし、それを言うなら捕食する側のハエトリグモからエサを奪うのも裏切り行為だろう。野生生物と人間ではきっと、「一食食べ損ねた」重みも違うから。食は命に直結しているから。もうすぐ冬が来るのだから。

 そして、ハエトリグモの共食いは阻止し、ハエトリグモが他の虫を食べているのは「良かったね」と喜んで放っておくのも他の虫に対する裏切りといえる。


 私は差別のない世界を目指したい。しかし差別とは、エゴとは何だろう。平等に愛するとはどういう状態だろう。
 他の誰よりも、ある一匹だけを愛することはそもそも差別でありエゴであり、差別やエゴをなくせば愛も消えるのではないか。

 ハエトリグモは私にそんなことも考えさせてくれた。


 仲間のハエトリグモの肉を、ハエトリグモはゆっくりゆっくり食べていた。一生に一度かもしれないご馳走を味わっているようだった。

 この間は、自分の体の2~3倍はあろうかという大きな蛾をくわえていたハエトリグモも見かけた。

 ハエトリグモは強い。そして捕食者だ。
 生きている……すべての生き物は何かを食べて生きる。


 うちのハエトリグモはペットではなく半住民だ。自由に出たり入ったりし、獲物を捕らえている。

 ハエトリグモは実に様々な仕草を見せてくれる。ピョンピョンと跳ね、観葉植物や壁や天井を走り回り、たまに糸を使って天井からツーッと降りてくる。ジャンプをしたり糸を使って降りてきたりしたあと、着地に失敗し足を滑らせている姿も見たことがある。とても可愛らしく微笑ましい。

 他のハエトリグモに追われたハエトリグモが全力で走ったあと、天井から床へと決死のダイブをしたこともあった。実にパワフルだ。小さいけれど真の捕食者であり、捕食される側でもある。


 私は命と向き合うようなことはあまりしてこなかったけれど、ハエトリグモは私と同じ空間にいながら野生の世界で生きている。違う世界で生きる命の姿を見せてくれる。私がハエトリグモを潰してしまって命の重みにおののいても、また自分から入ってくる。そして今度は自分たちが命のやり取りをしていたりする。私はどこへ行っても地球上にいるのだ。

 軽いような、重いような、なぜか毎日いただいていることすら忘れる、無数の命。私の目の前に生きたまま現れ、近づいてくる命。見つめ合うことのできる命。


 今はまだ、それが何なのか捉えきれない。
 でももしかしたらこの虫たちは、神の使いかもしれない。


















































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