敬語キャラには萌えるけど、現実の敬語はめんどくさい

月澄狸

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敬語には萌えるけど、(現実の)上下関係は好きじゃない

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 キャラとしての敬語は「ほどほど敬語」ではないだろうか。ですます調を基準に、なんとなくそれっぽい喋り方をする。そこまで本格的なビジネス敬語とかではないだろう。いや、中には本格的な敬語や主従関係の作品もあるかもしれないけど。

 私は「ほどほど敬語」の雰囲気は好きだ。方言も好きだ。喋り方の個性が好きなのだ。そこまで深く言葉の意味や成り立ちを勉強し尽くす意欲はないけど。


 私はネットで人と話すときは敬語を心がけている。
 というかほとんどの人はそうだろう。私はまだ丁寧さが欠けているくらいだ。SNSや小説投稿サイトでは敬称に「様」を付ける人が多いというのに、私は今「さん」を使っているから。以前は「様」も使っていたのだけれど、どこかで忘れたかな……。


 基本的に「上下関係なんてなくていい。人間に年齢は関係ない」という考え方を目指してはいる。
 ただ他の方がどう考えているかは分からない。「心も大事だけれど礼儀も同じくらい大事」とか「まず一番に礼儀」とか「言葉の形式が合っているかどうかというより丁寧に言おうとする気持ちが大事」とか、色々な意見があるかもしれない。

 だから一応失礼のないように敬語を使いたいと思っている。そこでコメントで使おうとした言葉を検索してみて、目上の方に対して言ってもいい言葉かどうか調べることがあった。

 すると、なんということだろう。使おうとした言葉が「目上の方に言うと失礼な言葉」であると書かれていることが多い。
「さすが 参考になります えらいですね すごいですね 脱帽です 頭が下がります お疲れ様です 尊敬します」などはたしか全部ダメだった。


 目上の方に対して「褒める」のは上から目線であり無礼なのでNGらしいのだ。だから子どもに使うような褒め言葉はダメ。

「参考になります」というのは何がいけないのか調べても正確な意味を把握できなかったが、「ふーん、それも良いかも。考えておくね」的な軽いニュアンスであるらしいので、目上の方に言うには「勉強になります」の方が良いようだ。

「脱帽です」「頭が下がります」「尊敬します」はたしか、目上の方には常に脱帽・頭が下がっている・尊敬している状態が正しいのだから、その時だけ脱帽したり頭が下がったり尊敬したりというのは失礼だ、という話だっただろうか。

「お疲れ様です」は「ご苦労様」じゃないんだから良いような気もするが、元々お疲れ様も「ご苦労様」と同じで目上の人が目下の人にかける言葉だったらしい。今では目上の方に「お疲れ様です」は正しいという解説もあったが、人によって解釈が分かれるようだ。


 ……敬語に限ったことではないけれど、こういうのを聞くと言葉ってめんどくさいなと思ってしまう。逆に面白いと思えればコツも飲み込みやすく上達も早いのだろうけど……。

 大事なのは言葉や言い回しなんだろうか? 気持ちやニュアンスが伝わればいいんじゃないのか?
 でもそのニュアンスも世代や個人の価値観によって変わるなら、正しい言い回しを学ぶべきというのも仕方ないか。


 こういうことを知って最初はショックを受け、気をつけないといけないと思っていたが、今ではネットで年上の方と話すときに上のNGワードを普通に使ったりしている。理由は「自分が言われたら(たぶん)嬉しいから」だ。

 参考にします・すごいですね・尊敬しますなどはネット上でわりと頻繁に見かける表現だと思う。「すごい」はどうか忘れたが、「参考にします」と「尊敬します」は特に多い印象である。そしてこれらの言葉に失礼なイメージはなかった。
 その他、上のNGワードについても私の中では素敵なイメージしかないのだ。なので、上の言葉を言われたら相手の方も喜ぶのではないだろうかと思ってしまう。

 ということでNGワードを連発している私に対してまわりの方が「悪気はないんだろうなぁ。許してやるか」「ちょっと腹立つけど指摘するのもめんどくさい」「学がないのが丸見えだな」「これが時代というものか」などと思っておられたとしても、私は残念ながら気づかない。普通に会話を終わらせていただいた場合、相手の方も楽しんでいたであろうという思い込みを持ったまま終了するのだ。


 身も蓋もない言い方だが、私には人から褒められたい願望がある。もちろん言い方や内容やタイミングにもよるし、褒め言葉ならなんでもいいという訳ではないかもしれない。が、どうしても褒められることに憧れてしまうのだ。落ちこぼれでネガティブで、あんまり褒められる部分がないから。

 それが年齢が上がれば上がるほど褒められなくなるとしたら寂しい。
 と、現時点では私はそう思う。みんなもっと褒め合う世界になればいいのに、NGワードにせずに誰にでも褒め言葉を使えばいいのにと。

 ただそれは私の今の感覚であって未来では違うのだろうか?
「年下の人にそういうこと言われたくないな」とか「生意気だな」とか思うのだろうか?


 あるいは今と言葉の概念が変わって戸惑う……そういうことならあるかもしれない。
「全然OK」とかはもう馴染んでしまったけれど、未来の世界で年下の人が年上の人に向かって「貴様」と呼びかけるような世界になったら……それは違和感大、適応できないかもしれない。私の感覚では失礼ですよと言いたくなるかもしれない。

 けど言葉の意味やニュアンスってじわじわ変わるんだよなぁ……。
 貴様も元々敬語だったようだし……。


 さて、唐突だが私は生まれ変わりを信じている。
 その生まれ変わりを肌で感じられたとしたら、それは壮大なことだろうか、滑稽なことだろうか。言葉の正しさはきっとコロコロ変わり、人の年齢も立場もコロコロ変わる。その中で上下関係とは何だろうと俯瞰するだろう。


 残念ながら今は前世の記憶もないし、よく考えたら昨日の記憶すら薄い。
 そしてこの世のありとあらゆることに馴染めないけど逆らえない。

 私としては年齢の違う方とも「友達」でありたいのだが、学生時代と似た気持ちになる。「私は友達だと思っているけどあの子は友達とは思っていなかったりして……」と。

 友達だなんて厚かましい、図々しい、礼儀知らずな態度かもしれない。人と人は対等であるべきということと、上下関係とはまた違うかもしれない。

 第一私は人の気持ちを汲んだり細やかな気遣いをしたりできないから、上下関係以外に問題が多くて同年代とも友達になれない。
 幼くてももっとしっかりしていて思いやりがあれば他の年代の方とも友達になれるかもしれない。


 とりあえず、私はあまり人から怒られたくはないが、今後私のこの態度のせいで嫌われたり、距離を置かれたり、叱られたりする可能性はある。

「あのときはみんな喜んでいるように見えたのに、あとで聞いたら嫌だったらしい」なんてことも昔よくあったので、私は本当に空気が読めなくて、人の気持ちが分かっていないと思う。あの頃からちっとも改善していない。目の前の人の怒りゲージが段々溜まって、やがて頂点に達したとしても、しばらくは気づかないかもしれないのだ。


 動物の世界を見ても群れで暮らす哺乳類にはボスとか序列とかナワバリとかあって面倒そうだ。
 生きるだけでも弱肉強食で面倒だというのに、個体同士の付き合いによるよく分からない概念が天まで積み重なってゆく。

 相手の方が本当はどう感じているのか。心が通い合ったのか。それさえ確信が持てない自分が悲しい。







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☆ ★ ☆ ★

こちらは以前投稿した短編小説です。宜しければ覗いていってください。


↓人とロボットが共に暮らす世界を舞台にしたSF風ファンタジー
からくりの鼻唄

↓生き物たちが登場する童話風ファンタジー
月色の夏

↓夢の中をイメージした幻想系作品
ドッペルゲンガー




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