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自分にとって苦手な言葉を、人には普通に言おうとしていた……
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私は自分の作品が何かの「パクりだ」と言われることを恐れている。小学生の頃、パクりが悪いことだと知らなくてポケモンやディズニー映画を参考にオリジナルの絵を描いたところ、クラスメートから「パクりだ」と言われ怖くなったからだ。
でもそれ以降に書いた自分の過去作品を読み返してみたらけっこうパロディとか、他作品っぽい話を作っていた。あまり多くの人に見せる予定ではなかったからそれはまぁいいかと思っていたのか、きわどいネタを頻繁に使うギャグ漫画に憧れたからか。「小学生のときの出来事によってパクるのが怖くなった」と記憶していたけれどそうでもなかったらしい。今の方がビクビクしている。
とにかく最近は人から「パクりだ」と言われるのが怖く、たぶんその影響で「◯◯と似ている」「◯◯っぽい」という言葉が苦手だ。
似ていることが何の罪にもならないなら別に良かったのだろう。でもパクり(をしてしまうこと)が怖いから、「この作品って◯◯っぽいよね~」という言葉を聞くとつい反論しそうになる。
表現者は誰でもみんな「今流行っている感じのもの」「どこかで見たもの」を作りたいわけじゃないだろう。「◯◯が好きで好きで、それっぽいシーンを作りたかった」という状況なら「似てるね」と言われても本望かもしれないが、一生懸命自分の発想で作ったものを「あれに似ている、これに似ている」と言われると悲しいと思う。似ていると言われた「あれ」や「これ」が知らない作品だった場合はご縁を感じて調べたりするかもしれないが、誰もが知る作品……ジブリとかだった場合、「そうか、私は無意識にジブリのパクりをしていたのかも……」と自信がなくなる。
……と、まだ実際言われてもいないのに、自分が見聞きしたことを元に「もし今後こう言われたらどうしよう……」などと不安になる想像力はある。なのに自分の言葉についてはまったく客観的に見ていなかった。
あるとき映画を見ていて自分が「このシーン◯◯っぽい」と言いかけてやめたことに気づいたのだ。
そういえば私は漫画を読んで感想ブログを書くときなどは、今までに読んだ似た世界観の作品と比較して「この作品は◯◯に比べて××の要素が多く……」などと書いていた気がする。それは漫画家さん本人に送るわけじゃないからなんとも思っていなかったのだけれど、ブログに限らず私は「このシーンあれに似ているな」「この物語を見て◯◯を思い出した」と言っていたように思うのだ。
もちろん悪気はなく、単純に比較しているだけだ。比較しないとその作品の特徴についてあまり言い表せないし、「こういったジャンルの中でこの作品は特に……」と持ち味を語るために他作品を出しているのだ。あとは思ったことを何気なくポロッと言っていたり。
……ってそれ、他の人も同じじゃないのか?
以前私の絵を「◯◯に似ている」と言ってくださった方がいたが、全然悪い気はしなかった。売られているものに例えていただけるなんてありがたい。好印象を持っていただけたのだろうと感じた。
つまり私はただ「悪意ある批判」を恐れているだけなのに「こういう言葉が嫌、言い回しが嫌、風潮が嫌」「何でもかんでも比較されたくない」と話を広げたからややこしかったのだ。
私たちは人間だ。同じ生き物だ。発想が似通ってくるのはしょうがないし、人間の作品を見て育ち、人間の発想に憧れて創作しているのだから似通うのは当たり前なのだ。
それに私は天才じゃないし。誰もがあっと驚くような独創的な作品は作れていない。批判されたくないから出る杭になる勇気もないのだ。飛び抜けた作品を描くと賛否両論あるだろうし、パクりだと言われない代わりに他に色々あるだろう。あまりに独創的だと世間に理解してもらえないかもしれない。あれが怖いこれが怖いと言ってちゃ、どの道創作は難しいのだ。言ってしまうけど。
もう言葉に偏見を持つのはやめよう。別に勝負じゃないんだから「◯◯に似ている」と言っても言われてもいいし、比較したりされたりすれば良いじゃないか。作品をどう感じるは作者じゃなく読者が決めることだ。
そして今後……。あんまり人のことや世間の風潮を悪く言わないようにしよう。自分が苦手だと感じたことは大抵、自分が人に対してやっていることかもしれない。視野の狭い私には見えていないのだ。
……うん、気をつけよう。
でもそれ以降に書いた自分の過去作品を読み返してみたらけっこうパロディとか、他作品っぽい話を作っていた。あまり多くの人に見せる予定ではなかったからそれはまぁいいかと思っていたのか、きわどいネタを頻繁に使うギャグ漫画に憧れたからか。「小学生のときの出来事によってパクるのが怖くなった」と記憶していたけれどそうでもなかったらしい。今の方がビクビクしている。
とにかく最近は人から「パクりだ」と言われるのが怖く、たぶんその影響で「◯◯と似ている」「◯◯っぽい」という言葉が苦手だ。
似ていることが何の罪にもならないなら別に良かったのだろう。でもパクり(をしてしまうこと)が怖いから、「この作品って◯◯っぽいよね~」という言葉を聞くとつい反論しそうになる。
表現者は誰でもみんな「今流行っている感じのもの」「どこかで見たもの」を作りたいわけじゃないだろう。「◯◯が好きで好きで、それっぽいシーンを作りたかった」という状況なら「似てるね」と言われても本望かもしれないが、一生懸命自分の発想で作ったものを「あれに似ている、これに似ている」と言われると悲しいと思う。似ていると言われた「あれ」や「これ」が知らない作品だった場合はご縁を感じて調べたりするかもしれないが、誰もが知る作品……ジブリとかだった場合、「そうか、私は無意識にジブリのパクりをしていたのかも……」と自信がなくなる。
……と、まだ実際言われてもいないのに、自分が見聞きしたことを元に「もし今後こう言われたらどうしよう……」などと不安になる想像力はある。なのに自分の言葉についてはまったく客観的に見ていなかった。
あるとき映画を見ていて自分が「このシーン◯◯っぽい」と言いかけてやめたことに気づいたのだ。
そういえば私は漫画を読んで感想ブログを書くときなどは、今までに読んだ似た世界観の作品と比較して「この作品は◯◯に比べて××の要素が多く……」などと書いていた気がする。それは漫画家さん本人に送るわけじゃないからなんとも思っていなかったのだけれど、ブログに限らず私は「このシーンあれに似ているな」「この物語を見て◯◯を思い出した」と言っていたように思うのだ。
もちろん悪気はなく、単純に比較しているだけだ。比較しないとその作品の特徴についてあまり言い表せないし、「こういったジャンルの中でこの作品は特に……」と持ち味を語るために他作品を出しているのだ。あとは思ったことを何気なくポロッと言っていたり。
……ってそれ、他の人も同じじゃないのか?
以前私の絵を「◯◯に似ている」と言ってくださった方がいたが、全然悪い気はしなかった。売られているものに例えていただけるなんてありがたい。好印象を持っていただけたのだろうと感じた。
つまり私はただ「悪意ある批判」を恐れているだけなのに「こういう言葉が嫌、言い回しが嫌、風潮が嫌」「何でもかんでも比較されたくない」と話を広げたからややこしかったのだ。
私たちは人間だ。同じ生き物だ。発想が似通ってくるのはしょうがないし、人間の作品を見て育ち、人間の発想に憧れて創作しているのだから似通うのは当たり前なのだ。
それに私は天才じゃないし。誰もがあっと驚くような独創的な作品は作れていない。批判されたくないから出る杭になる勇気もないのだ。飛び抜けた作品を描くと賛否両論あるだろうし、パクりだと言われない代わりに他に色々あるだろう。あまりに独創的だと世間に理解してもらえないかもしれない。あれが怖いこれが怖いと言ってちゃ、どの道創作は難しいのだ。言ってしまうけど。
もう言葉に偏見を持つのはやめよう。別に勝負じゃないんだから「◯◯に似ている」と言っても言われてもいいし、比較したりされたりすれば良いじゃないか。作品をどう感じるは作者じゃなく読者が決めることだ。
そして今後……。あんまり人のことや世間の風潮を悪く言わないようにしよう。自分が苦手だと感じたことは大抵、自分が人に対してやっていることかもしれない。視野の狭い私には見えていないのだ。
……うん、気をつけよう。
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