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死にたくないけど生きるのも辛い、愛することもできないって悪いこと?
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「仲間や友達と力を合わせればどんなことも乗り越えられる」
そんな言葉を聞いたとき、子どもだった私はうっすら「友達のいない私には居場所がないんだな」と悟りました。
私の目指す世界は「全員が、理由もなく、ここにいていい」というものです。
誰が邪魔者か。誰が不要か。誰が迷惑か。誰が去るべきか。
そんな裁きが必要ない世界。
私は生まれてきて良かったと思えません。
「あなたは生きていていい」と示してくれる甘い世界ではないから。
一言そう言ってもらえたとしても、別にその言葉は私を生かしてはくれません。優しくされようと厳しくされようと、結局は私が居場所を求めて頑張るしかないのです。
「私はいらないんじゃないか?」
そう思っても死ぬのも怖いし、でもなぜ生まれたか、なぜ生きなければいけないか、なぜみんな死んでゆくのかきっと永遠に理解できない。
そんな状態のままに怖くなったことが、最近もう一つ。
哲学的な話で、「愛する人のために命を差し出せるか?」みたいなテーマを時々見かけます。
それは物語でも、人の文章でも。人間の愛の形、その大きな一つのテーマなのかもしれません。
自然界には、自分の身を削ってまで我が子を育てる生き物たちがいるそうです。タコや蜘蛛など。そして人間にもそういう本能が眠っていて、そういった心理になるのかもしれません。
最初私は、物語で「大事な人のためなら自分の命でも差し出せる」というテーマを見てものすごく感動しました。究極の愛だと。
でも最近そのような話が怖くなりました。どのくらい怖いかというと、「社会にとって役立たずな人間は死ねばいい」と言われるくらいの怖さです。
別に誰かが「愛する人のために命を差し出せる」と言ったところで、現代社会においてそのような状況になることはほぼないでしょう。物語内でも、命懸けで大切な人を救うというテーマであっても、私の見たお話の範囲では命を懸けた人が死ぬことはありません。みんな助かってハッピーエンドです。
けどそれには、「たまたま火事にならなかったから良かったものの、危ないところだった」みたいなゾッとするものを感じてしまいます……。
もし「愛する人のためなら命だって差し出せる」が冗談だとしても(そんな冗談ないでしょうが)、実際には怖くてできなかったということになるとしても、いずれにせよなんだかその概念が苦手です。
「私の命より大切なものがある」という結論を聞くと悲しい、しんどい、辛い、ショックなのです。私は誰にも何かのために死んでもらいたくないし、悪い人は死刑になればいい、みたいな感覚も苦手です。
愛のために命を懸けるのが美しいことだとしたら、そう思えない私はやはり欠陥人間なのでしょう。愛する者のために命を差し出さなければならないなら、私は自分以外誰も愛したくありません。
愛されるのも怖いですね。永遠に受け取る側ではいられませんから。
それに、命と引き換えに命を繋ぐというのはこの世の現時点での基礎システムであり、やはりそれしかないのかと悲しくなるのです。
豚や牛や鶏の命と引き換えに我々が生きるように。
なぜ世界は弱肉強食なのか。なぜ日々野菜や動物は死に、それをいただいた私たちは生きるのか。
それも私にはサッパリ分からないのに、その世界で命を懸けるとか懸けないとか言われるとさらに怖いです。
命を懸けたら命を救えるかもしれませんが、それでも世界は毎日続き、肉になる生き物は殺され、自然界でも弱肉強食で、人間も寿命や病気や事故で死んでいきます。
死のサイクルは続く……。そして誰かの死を、伸ばしたり少し遠ざけたりするために、喜んで自分の命を差し出したいと思えないといけないのでしょうか。たとえ誰かを押しのけてでも自分が生きたいと思ってしまう人間はダメなのでしょうか。
そして、自分の命が尊いものだとして、それよりさらに尊いのが愛する人だとすれば、簡単に消されてしまう命の立場は一体何なのでしょうか?
人間が命を懸けてペットを救ったことはあるかもしれません。命を懸けて我が子を救った人もいたでしょう。けど牛や豚や鶏や野菜は毎日殺されますし、牛や豚や鶏や野菜のために自分の命を差し出した人は多分いません(生涯をかけてその存在を育てるということではなく、相手を死なせないために命を差し出すということ)。
牛も豚も鶏も、ペットのように愛されて育てばきっと、素晴らしい愛を見せてくれたでしょう。名前を付け、お世話をして、絆を深め、死ぬまで一緒にいれば、誰かにとって命を懸けたいほどの存在になったかもしれません。ただ主に殺される一生しか与えられないだけで。
私が子どもを生まなければ、私の子どもに食べられるはずだった多くの命が救われます。けど私が今この瞬間命を絶てば、さらに多くの死ぬ予定だった生き物が救われます。私が生まなくても誰かが子どもを生み、私が死んでも他の誰かが生きるでしょうが。
犠牲を出し続ける世界で生き、さらに子どもを生み育て、そして愛する人のためにすべてを捧げたいと思えるのが人として正しい姿なのでしょうか。
数時間ごとにいただいている命に支えられ続けているこの自分……。それが誰かを愛する……。
それってどういうことでしょうか。愚かな私には愛とエゴの違いが分かりません。
なんだか命が堂々巡りしているように思えるのです。
牛や鶏や豚は「命を懸けたい存在」と思われず、命を取られるのが当たり前の存在になってしまった。そして私はそんな命たちをいただきながら、自分の肉体や精神よりさらに大事にすべき命を見つけなければならない。それに人生を懸けなければならない。それが愛?
つまり命の価値は「豚・牛・鶏 < 自分 < 愛する人」でしょうか。
だとすれば私はやっぱり自分しか愛せません。もしも私が食われるものだったら、その方が納得できそうな気がします。
もし私が食べられ、そして私を殺した者が誰か大切な人に命を譲ったら。
命を譲られるのでなく奪われた私は忘れ去られ、誰かから命を懸けられるほどの愛を受けることもなかった……その名もなき一生は一体何だろうと思うのです。
ならば貪欲に生きてほしい。生きたくて生きたくて殺したのなら許せるけれど、そうでないならやりきれない。
でも私はバカで愛のない考え方しかできないです。ごめんなさい。
牛や豚や鶏だって、愛する我が子のためなら命を懸けるかもしれません。動物はみんなそう思うかもしれません。ならそれが自然であり、死んだ側もきっと納得できます。
私はただとにかく今、死にたくないだけなのです。
命をむさぼってでも生きています。誰かに命をあげる予定もありません。誰のことも愛したくありません。それが本音です。
最近私は自由な悪が好きです。自分の信念のために命を投げ出す悪役キャラもいますが、大抵反対で、理不尽な理由で多くの人の命を奪おうとしたりします。
人の命を奪うことにまでは憧れませんが、なんというか、「自分が生きていて当然。相手が消えるべき」という悪役の図々しい態度に惹かれます。人を踏みにじっても自分の存在を疑いもなく信じて行動できるなんて、むしろ清々しいなと思うのです。
でも悪は大抵やられるし、散り際はわりと潔かったりあっけなかったりしますけどね。
つまりこの世は愛そうと憎もうと死ぬのが真理であって、それが一種の美しさでもあるってことですかね。
日々命をいただいているのに死に抗い、絶対死にたくないと言っているようでは見苦しいのでしょう。
けどそんな世界に一体何のために生まれたのか。
私は苦しみたくない、傷つきたくない、終わりに縛られたくない。
欠陥人間な私は、やっぱりこの世界を愛せません。
私が行きたいのは誰一人死ななくていい世界。命を奪うことも、命の席を譲ることもしなくていい世界。そしてそこまでたどり着けないなら、裁かれない程度の悪人でいたいです。そこそこうまくやる方法を見つけながら。
世界に居場所が欲しい……。「あなたには生きていてもらいたい」と思ってくれる人がいてほしいから、そうなるために書き続けています。私が私の存在価値を認めるためにも。
叶わないとしても、「自分の世界」に浸っていられるって幸せなことですね。
人は一人一人違うから、未熟な私では、心のすべてをさらけ出せば喧嘩になる。
心を許せる相手はやっぱり自分の世界、自分の意見なのです。
そんな言葉を聞いたとき、子どもだった私はうっすら「友達のいない私には居場所がないんだな」と悟りました。
私の目指す世界は「全員が、理由もなく、ここにいていい」というものです。
誰が邪魔者か。誰が不要か。誰が迷惑か。誰が去るべきか。
そんな裁きが必要ない世界。
私は生まれてきて良かったと思えません。
「あなたは生きていていい」と示してくれる甘い世界ではないから。
一言そう言ってもらえたとしても、別にその言葉は私を生かしてはくれません。優しくされようと厳しくされようと、結局は私が居場所を求めて頑張るしかないのです。
「私はいらないんじゃないか?」
そう思っても死ぬのも怖いし、でもなぜ生まれたか、なぜ生きなければいけないか、なぜみんな死んでゆくのかきっと永遠に理解できない。
そんな状態のままに怖くなったことが、最近もう一つ。
哲学的な話で、「愛する人のために命を差し出せるか?」みたいなテーマを時々見かけます。
それは物語でも、人の文章でも。人間の愛の形、その大きな一つのテーマなのかもしれません。
自然界には、自分の身を削ってまで我が子を育てる生き物たちがいるそうです。タコや蜘蛛など。そして人間にもそういう本能が眠っていて、そういった心理になるのかもしれません。
最初私は、物語で「大事な人のためなら自分の命でも差し出せる」というテーマを見てものすごく感動しました。究極の愛だと。
でも最近そのような話が怖くなりました。どのくらい怖いかというと、「社会にとって役立たずな人間は死ねばいい」と言われるくらいの怖さです。
別に誰かが「愛する人のために命を差し出せる」と言ったところで、現代社会においてそのような状況になることはほぼないでしょう。物語内でも、命懸けで大切な人を救うというテーマであっても、私の見たお話の範囲では命を懸けた人が死ぬことはありません。みんな助かってハッピーエンドです。
けどそれには、「たまたま火事にならなかったから良かったものの、危ないところだった」みたいなゾッとするものを感じてしまいます……。
もし「愛する人のためなら命だって差し出せる」が冗談だとしても(そんな冗談ないでしょうが)、実際には怖くてできなかったということになるとしても、いずれにせよなんだかその概念が苦手です。
「私の命より大切なものがある」という結論を聞くと悲しい、しんどい、辛い、ショックなのです。私は誰にも何かのために死んでもらいたくないし、悪い人は死刑になればいい、みたいな感覚も苦手です。
愛のために命を懸けるのが美しいことだとしたら、そう思えない私はやはり欠陥人間なのでしょう。愛する者のために命を差し出さなければならないなら、私は自分以外誰も愛したくありません。
愛されるのも怖いですね。永遠に受け取る側ではいられませんから。
それに、命と引き換えに命を繋ぐというのはこの世の現時点での基礎システムであり、やはりそれしかないのかと悲しくなるのです。
豚や牛や鶏の命と引き換えに我々が生きるように。
なぜ世界は弱肉強食なのか。なぜ日々野菜や動物は死に、それをいただいた私たちは生きるのか。
それも私にはサッパリ分からないのに、その世界で命を懸けるとか懸けないとか言われるとさらに怖いです。
命を懸けたら命を救えるかもしれませんが、それでも世界は毎日続き、肉になる生き物は殺され、自然界でも弱肉強食で、人間も寿命や病気や事故で死んでいきます。
死のサイクルは続く……。そして誰かの死を、伸ばしたり少し遠ざけたりするために、喜んで自分の命を差し出したいと思えないといけないのでしょうか。たとえ誰かを押しのけてでも自分が生きたいと思ってしまう人間はダメなのでしょうか。
そして、自分の命が尊いものだとして、それよりさらに尊いのが愛する人だとすれば、簡単に消されてしまう命の立場は一体何なのでしょうか?
人間が命を懸けてペットを救ったことはあるかもしれません。命を懸けて我が子を救った人もいたでしょう。けど牛や豚や鶏や野菜は毎日殺されますし、牛や豚や鶏や野菜のために自分の命を差し出した人は多分いません(生涯をかけてその存在を育てるということではなく、相手を死なせないために命を差し出すということ)。
牛も豚も鶏も、ペットのように愛されて育てばきっと、素晴らしい愛を見せてくれたでしょう。名前を付け、お世話をして、絆を深め、死ぬまで一緒にいれば、誰かにとって命を懸けたいほどの存在になったかもしれません。ただ主に殺される一生しか与えられないだけで。
私が子どもを生まなければ、私の子どもに食べられるはずだった多くの命が救われます。けど私が今この瞬間命を絶てば、さらに多くの死ぬ予定だった生き物が救われます。私が生まなくても誰かが子どもを生み、私が死んでも他の誰かが生きるでしょうが。
犠牲を出し続ける世界で生き、さらに子どもを生み育て、そして愛する人のためにすべてを捧げたいと思えるのが人として正しい姿なのでしょうか。
数時間ごとにいただいている命に支えられ続けているこの自分……。それが誰かを愛する……。
それってどういうことでしょうか。愚かな私には愛とエゴの違いが分かりません。
なんだか命が堂々巡りしているように思えるのです。
牛や鶏や豚は「命を懸けたい存在」と思われず、命を取られるのが当たり前の存在になってしまった。そして私はそんな命たちをいただきながら、自分の肉体や精神よりさらに大事にすべき命を見つけなければならない。それに人生を懸けなければならない。それが愛?
つまり命の価値は「豚・牛・鶏 < 自分 < 愛する人」でしょうか。
だとすれば私はやっぱり自分しか愛せません。もしも私が食われるものだったら、その方が納得できそうな気がします。
もし私が食べられ、そして私を殺した者が誰か大切な人に命を譲ったら。
命を譲られるのでなく奪われた私は忘れ去られ、誰かから命を懸けられるほどの愛を受けることもなかった……その名もなき一生は一体何だろうと思うのです。
ならば貪欲に生きてほしい。生きたくて生きたくて殺したのなら許せるけれど、そうでないならやりきれない。
でも私はバカで愛のない考え方しかできないです。ごめんなさい。
牛や豚や鶏だって、愛する我が子のためなら命を懸けるかもしれません。動物はみんなそう思うかもしれません。ならそれが自然であり、死んだ側もきっと納得できます。
私はただとにかく今、死にたくないだけなのです。
命をむさぼってでも生きています。誰かに命をあげる予定もありません。誰のことも愛したくありません。それが本音です。
最近私は自由な悪が好きです。自分の信念のために命を投げ出す悪役キャラもいますが、大抵反対で、理不尽な理由で多くの人の命を奪おうとしたりします。
人の命を奪うことにまでは憧れませんが、なんというか、「自分が生きていて当然。相手が消えるべき」という悪役の図々しい態度に惹かれます。人を踏みにじっても自分の存在を疑いもなく信じて行動できるなんて、むしろ清々しいなと思うのです。
でも悪は大抵やられるし、散り際はわりと潔かったりあっけなかったりしますけどね。
つまりこの世は愛そうと憎もうと死ぬのが真理であって、それが一種の美しさでもあるってことですかね。
日々命をいただいているのに死に抗い、絶対死にたくないと言っているようでは見苦しいのでしょう。
けどそんな世界に一体何のために生まれたのか。
私は苦しみたくない、傷つきたくない、終わりに縛られたくない。
欠陥人間な私は、やっぱりこの世界を愛せません。
私が行きたいのは誰一人死ななくていい世界。命を奪うことも、命の席を譲ることもしなくていい世界。そしてそこまでたどり着けないなら、裁かれない程度の悪人でいたいです。そこそこうまくやる方法を見つけながら。
世界に居場所が欲しい……。「あなたには生きていてもらいたい」と思ってくれる人がいてほしいから、そうなるために書き続けています。私が私の存在価値を認めるためにも。
叶わないとしても、「自分の世界」に浸っていられるって幸せなことですね。
人は一人一人違うから、未熟な私では、心のすべてをさらけ出せば喧嘩になる。
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