自由なのは心だけ?

月澄狸

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囲いの中の自由

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 仕事へ向かう途中で思いました。自由って何でしょう。私は今自由でしょうか。

 道が向こうまで伸びています。このまま仕事に行かず、向こうに行ってしまいたい。
 その自由は、あるといえばあるし、ないといえばないです。私程度でも、勝手に仕事を休んだら迷惑がかかると分かっています。だから歩いてはいきません。

 すべてそんな感じ。
 この世界はもっと果てしなく広い。アクティブに動き回る、その方法を知っている人もいますが、私は分かりません。だから同じ道を歩いて、同じことを繰り返します。別の道を歩いてゆくことも、一応「可能」だとは知っているけれど。

 別の道を歩くには。仕事をやめればいいのです。
 やめたらどうしましょう。次の仕事を探せばいいのです。
 って面倒だなぁ。やっと今の仕事に慣れたのに、特に理由もなく仕事をやめて、別の仕事を探さなきゃいけないなんて。……だから毎日同じように働きます。

 不自由ではありません。戦争に強制参加とか。ひどく過酷な環境だとか。毎日疲労困憊とか。そういう不自由はありません。
 ならば自由なのでしょうか。不自由よりは自由です。一応。

 ゲーム関連で、「いえろ~ぜぶら」さんという方(グループ?)の、「桜風」という歌があるのですが、なんだか共感します。「何のために生きているんだろう」みたいな。
「何のために生きているんだろう」といったテーマはよく語られますね。「アンパンマンのマーチ」も良いですね。ちょっと違うかもしれませんが、REBECCAの「Maybe Tomorrow」も良いですね。原曲聴いたことないですが。

 なんだか毎日囲いの中に入っているようです。食べなきゃ生きていけなくて、働かなきゃいけなくて。ゆったりと、自由という檻で、囲われている。
 本当の自由が分からないのは、私の視野が狭いせいでしょうか。生き方が分からないせいでしょうか。無責任なせいでしょうか。

 今日も、職場のはるか向こうまで、ずーっと伸びている道を眺めます。
 歩きましょう。休日に。

 いつか未来が……もっと自由になることを夢見て。


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