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世の中色々な人がいる、ということに時々疲れる。
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「なんで世の中恋の話ばっかりなんだろう?」
そう言うと、多くの人を傷つけたり敵に回したりするんじゃないだろうか。
だってみんな恋の話をしているし、恋が好きみたいだから。テレビからも恋の歌が流れてくるから。恋が嫌いだなんて言う人実際に見たことがないから。物語でそういうキャラがいるとしたらたぶん、「恋が嫌いだった人が恋に目覚める話」が展開されるのだろう。
実際に恋が苦手だなんて言ったら人類の根源的な何かを否定することになり、多くの人の人生を否定するに等しいんじゃないだろうか。
私は人の気持ちが分からない。たとえば多くの人は虫が苦手だと言うが、なぜ苦手だと思うのか、なぜ苦手だとアピールするのかはよく分からない。たぶん「苦手だから近づけたり見せたりしないでね、ヨロシク」ということなんだと思うけど。
深入りするとこちらが傷つくから、なぜ苦手なんですかと聞いたりはしない。虫が苦手な理由を延々と聞きたくはないし、延々でなくてもグサッとくる。特に虫の命は軽視されがちだから。
今はまだそういう時代である。それもきっと未来では変わるのだろう。時代というのは変なものだなぁ。一般論まで180°変わってしまうのだから。
以前の私は、意見を言うだけで誰かを傷つけたり、不快に思われたりする可能性があるということを考えなかった。だって意見は意見であるだけだから。
でも虫好きの私が虫嫌いの人から「いかに虫が嫌いか」を語られたらイラッとするだろう。
「で、なんでそれをわざわざ私に言うの?」「その意図は?」「私は好きですけどね」などと反発したくなる。
つまり他の人もそうなのだろう。私個人の意見ごときが時に誰かにグサッと突き刺さる。あるいはこの人と関わりたくないなと思わせる。……そういうことなのだろう。
私の器が小さいからかもしれないけれど、人は脆いと思う。
できればああしないでください、これをしないでください、そういうの苦手なのでとアピールしあっている。
SNSで人のプロフィールを見ていて、あれが苦手とかこれはやめてとかみんなが書いているのを見て、正直疲れると思った。
誰か一人の意見に対してじゃない。「世の中には色々な考え方をする人間がいる」という事実に、時々どうしようもなく疲れるのだ。
あの人はああで、この人はこうで……。考え方が変わることもある。そんなの覚えきれるわけがない。
そして世界に虫が苦手な人が多いからって、私の表現を躊躇していたら、私が歩きたいように歩けないのだ。
私が好きに表現していいのと同時に人も自由に表現していい。そんなの私が許可することでも何でもないけれど。「こうだから、こう」と勝手に理屈付けている。
私が「恋の話は苦手だ」とアピールしたところで、誰かが「この人は恋の話が苦手だから」と遠慮してしまうのは変だろう。
しかし優しい人ならそうするかもしれない。遠慮しているかもしれない。知らないうちに。
私が虫が好きだと言ったことで、誰かが私に対しては虫嫌いな話題を隠すようになったかもしれない。
私は遠慮したくない。人に遠慮させるのも変だ。みんなそれぞれ自分の意見を出していいはずだ。でも自分自身まだ多くの意見の受け止め方が分からない。違う意見の人に出会ったらなんて言えば良いんだろう。
多くの人が当てはまることを「私は違うんだよね」って言うのは面倒だ。というか言う必要ないとは思うんだけど。
私は以前自分のことを変人、変わり者だと思っていた。でも「変人だと言う人は大抵普通」だか「自分が変人だと思いたいだけ」だか「普通の人なんてものは存在しないし、変人なんてものもない」だか、そんな意見の数々を見て「そうだなぁ」と納得し、自分を変人だと思うのをやめた。
私は「変人である私」に酔っていた。色んな人がいることが普通なのであって、変わった人をサーチしようとする心がそもそも人を型にはめようとする心理なのだ。
でもなぁ……と、今になってふと疑問がわく。
「根っから同じ意見の人に出会ったことがないかもしれない」
私は恋や結婚の話が苦手だ。以前は家族愛、母性愛は好きだったが、その概念が重荷に感じ始めてからはそちらもちょっと苦手だ。
別に「やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなくていい」ならいい。
そう思っている人もいてくれるだろうし、自分自身もそれを信じればいい。そういう世界に生きるのだと。
私は恋をしたことがないし、結婚しない予定だ。
ただそれでどうやって最期まで生きるのだろうとは思うけど……。システムなんてコロコロ変わるのだし、お金や将来のために我慢して結婚というのは違う気がする。一人でも生きられる道を探していれば、そういう未来も開かれるんじゃないか。
トラウマになるような出来事があった。それを言い訳に、私は恋や結婚の話を避けてきた。もっとひどいことを乗り越えてきた人もいるだろうに、私は乗り越えるのが面倒で言い訳を振りかざした。いや、最初から恋や結婚の概念が苦手で、それを避けられる正当な理屈を探し続けていたのかもしれない。
漫画やアニメなんかで、ファンタジーとか、好きな要素がある中での「恋」は理解しようと努めることができる。心理を丁寧に描いた作品なども。ああいうことがあったから、優しさに触れたから、あの人のことが好きなんだなとか、登場人物の心境を察しようとする。
また、恋の歌だとは知らないまま子どもの頃から慣れ親しんできた歌などは今でも好きだ。ディズニーとかも。ファンタジーな世界観や、動物いっぱいのところが好きなのだ。
けど最近意味もなく憂鬱というか、「普通」が重荷になってきた。恋、結婚、家族、親戚……世界中そんな話で溢れている。きっと。
私の心安らぐ場所はどこだろう。何を目指せばいいんだろう。
みんなやる気満々だなぁ。なんで、上も下も重力もない精神世界で、自由にできる創作でさえ人間らしい人間を描くんだろう。なんで恋の話でキュンとくるんだろう。恋の何がいいんだろう。私はなんだか疲れた。
生き物も生き物だ。あんなに過酷な中で、生まれてもすぐ死んでしまったり誰かに食べられたりするような中で、なんで子どもを生むんだろう。なんであんなにやる気なんだろう。
みんななぜなんだろう。なんで生きているんだろう。
でも殺すのはひどいと思う。なぜ被害が出るからと、生き物を駆除するんだろう。駆除する以外にやり方はないんだろうか。猫や犬とか鹿とか川鵜とかオオキンケイギクとかブルーギルやブラックバスとか。他にもいっぱいいて、今後も私は駆除された生き物たちを知ることになるんだろう。
なんで生き物が国を行き来するのは良くなくて、人間だけ行き来して良いのか。
なんで「使えない人間はポイ」みたいなことが延々と続けられるんだろう。誰かがポイするというより、誰にも目を向けられず救われず手を差し伸べられない人が結果的にポイッとされるんだろうけど。
なんで貧しい人が多いんだろう。失礼な言い方だけれど、正直ネットを見ていてもみんな裕福には見えないし、工夫して生きていると思う。それでなぜみんな「日本は安全で平和ですごい国」と納得しているんだろう。
私は小学校でいじめられた時から、この国が平和だなんて思ったことがない。まだ生まれてきて良かったとも思えない。様々な生き物たちが駆除されていることを知った今、その思いはますます強くなる。一部の生き物たちが可愛がられている裏で、大量の生き物が殺されている。
また、奇跡的に人が無傷で助かった動画がたくさん撮れているということは、人が死んだ動画がその百倍撮れているんじゃないだろうか。見たことないだけで。
問題は多い。毎日耳にする。それは世界を変えようとする心の表れ……かもしれないけれど、誰かが声を上げたから話題として取り上げられたのであって、見えないところではもっとたくさん犠牲が出ているんだろう。毎日生き物は駆除されているんだろう。
なんで野良犬や野良猫は、殺処分されるのに増えようとするんだろう。なんで人間は、他の生き物を駆除して住んでおいて楽しそうに恋の話をするんだろう。なんで、人を殺すようなストーリー、死ぬようなストーリーがウケるんだろう。ものすごい能力を使って人を殺せるなら、すべての命を救うこともできるだろうに。
みんな同じ命じゃないのか? 矛盾している。大事にされる命とされない命があるなんて。大事な命だけ表面上大事にされていれば、あとはどうなっても良いのだろうか? 汚い部分、未解決の部分は表に出さないようにすれば良いのか?
まるで人間以外存在しないかのように。それも、ちゃんと枠にはまれて手続きができて発信できて、理不尽を理不尽と訴えられる人間ばかり人間扱いされて。
強くならなきゃいけないってことか。
最大の矛盾は自分の中にある。私はバトルのゲームが好きだし、バトルの漫画も読む。
恋が苦手とか言いながら、自然が減ったと嘆く。自然の植物や虫や動物に増えてもらいたい……それはつまり生き物たちが自由に恋することを望んでいるんじゃないのか。
この間ハエトリグモを掃除機でひき殺してしまった。ずっと家に住み着いていた可愛い女の子だ。
そのあとで私はなんでこんな偉そうな文章が書けるんだろう。虫を殺してしまうことだって多いのに。
ハエトリグモを潰してから、可愛いと思う気持ちより踏んでしまう怖さが勝っている。それも喉元過ぎれば熱さを忘れるのだろうけれど。
私はハエトリグモのことをすごく可愛いと思っていた。殺してしまってショックだった。でもよく考えたら私は私の食べた生き物にいちいち思いを馳せていなかった。
名前を付けられず、愛されることもなく、死んでいったのかもしれない。どんな最期を迎えたんだろう。
そう思うと生き物がなんだか可愛く見えない。可愛いとか以前に生きているのだ。生きているから食べ物や水がないと死ぬし、暑すぎたり寒すぎたりしても、ショックを与えられても死ぬ。死ぬだけでなく傷つきもするし病気にもなる。その事実が今はなんだか重い。命の重みってそういうことか。
テレビに可愛い動物の動画が出る。動物はみんな可愛いのだ。その可愛い動物たちが今もどこかで食い、食われ、処分される。可愛い動物を愛でる一方で可愛い動物を食べている。
誰かが生きれば誰かが死ぬのだ。でも生き物は恋をし、子孫を残す。
それはなぜか。生き物はいつか死ぬし、過酷な野生の世界ではいつかというよりいつ死ぬか分からない。毎日死の隣にいるのだろう。だから命を残さなくてはならない。
何のために? 世界を続けるために。
学校で「誰かと二人組になってください」と言われたときにはみ出る子。私はそれだった。今も世界からはみ出る子、一人ぼっちの子はいるのだろう。
誰かを特別な存在にしてしまえば、それ以外の人は特別でなくなる。それは差別的なこととは違うのだろうか? 学校の先生は誰か一人を贔屓してはいけないというけれど、贔屓はなぜいけないのか? 可愛い動物は贔屓され、優秀な人間は贔屓され、素敵な人を個人的に贔屓する。贔屓も弱肉強食も優秀な遺伝子を残すための本能じゃないか。
恋とかって「心」というより本能なのだろう。恋をすることで世界が保たれる。動物的なシステムだ。誰も死ななくて良いなら恋は必要なかった。すべての命を同じように、みんな平等に愛し、親も子もなく、性別もなく、弱肉強食もなく、種族も関係なく、すべてが「友達」で良いはずだ。誰かを「特別な存在」にしなくて良いはずだ。
そうなりたい。誰も死なない世界ですべてがお友達。絵本の中みたいな、そんな世界に。
一匹の蜘蛛を助けたカンダタと、一匹の蜘蛛を殺してしまった私。蜘蛛の命の存在を見落とした私にこんな偉そうなことを言う資格はあるだろうか。いや、ないだろう。
それでも言う。平和な世界があるとしたら、そこではもうバトルも繁殖も必要ないはずだと。
そう言うと、多くの人を傷つけたり敵に回したりするんじゃないだろうか。
だってみんな恋の話をしているし、恋が好きみたいだから。テレビからも恋の歌が流れてくるから。恋が嫌いだなんて言う人実際に見たことがないから。物語でそういうキャラがいるとしたらたぶん、「恋が嫌いだった人が恋に目覚める話」が展開されるのだろう。
実際に恋が苦手だなんて言ったら人類の根源的な何かを否定することになり、多くの人の人生を否定するに等しいんじゃないだろうか。
私は人の気持ちが分からない。たとえば多くの人は虫が苦手だと言うが、なぜ苦手だと思うのか、なぜ苦手だとアピールするのかはよく分からない。たぶん「苦手だから近づけたり見せたりしないでね、ヨロシク」ということなんだと思うけど。
深入りするとこちらが傷つくから、なぜ苦手なんですかと聞いたりはしない。虫が苦手な理由を延々と聞きたくはないし、延々でなくてもグサッとくる。特に虫の命は軽視されがちだから。
今はまだそういう時代である。それもきっと未来では変わるのだろう。時代というのは変なものだなぁ。一般論まで180°変わってしまうのだから。
以前の私は、意見を言うだけで誰かを傷つけたり、不快に思われたりする可能性があるということを考えなかった。だって意見は意見であるだけだから。
でも虫好きの私が虫嫌いの人から「いかに虫が嫌いか」を語られたらイラッとするだろう。
「で、なんでそれをわざわざ私に言うの?」「その意図は?」「私は好きですけどね」などと反発したくなる。
つまり他の人もそうなのだろう。私個人の意見ごときが時に誰かにグサッと突き刺さる。あるいはこの人と関わりたくないなと思わせる。……そういうことなのだろう。
私の器が小さいからかもしれないけれど、人は脆いと思う。
できればああしないでください、これをしないでください、そういうの苦手なのでとアピールしあっている。
SNSで人のプロフィールを見ていて、あれが苦手とかこれはやめてとかみんなが書いているのを見て、正直疲れると思った。
誰か一人の意見に対してじゃない。「世の中には色々な考え方をする人間がいる」という事実に、時々どうしようもなく疲れるのだ。
あの人はああで、この人はこうで……。考え方が変わることもある。そんなの覚えきれるわけがない。
そして世界に虫が苦手な人が多いからって、私の表現を躊躇していたら、私が歩きたいように歩けないのだ。
私が好きに表現していいのと同時に人も自由に表現していい。そんなの私が許可することでも何でもないけれど。「こうだから、こう」と勝手に理屈付けている。
私が「恋の話は苦手だ」とアピールしたところで、誰かが「この人は恋の話が苦手だから」と遠慮してしまうのは変だろう。
しかし優しい人ならそうするかもしれない。遠慮しているかもしれない。知らないうちに。
私が虫が好きだと言ったことで、誰かが私に対しては虫嫌いな話題を隠すようになったかもしれない。
私は遠慮したくない。人に遠慮させるのも変だ。みんなそれぞれ自分の意見を出していいはずだ。でも自分自身まだ多くの意見の受け止め方が分からない。違う意見の人に出会ったらなんて言えば良いんだろう。
多くの人が当てはまることを「私は違うんだよね」って言うのは面倒だ。というか言う必要ないとは思うんだけど。
私は以前自分のことを変人、変わり者だと思っていた。でも「変人だと言う人は大抵普通」だか「自分が変人だと思いたいだけ」だか「普通の人なんてものは存在しないし、変人なんてものもない」だか、そんな意見の数々を見て「そうだなぁ」と納得し、自分を変人だと思うのをやめた。
私は「変人である私」に酔っていた。色んな人がいることが普通なのであって、変わった人をサーチしようとする心がそもそも人を型にはめようとする心理なのだ。
でもなぁ……と、今になってふと疑問がわく。
「根っから同じ意見の人に出会ったことがないかもしれない」
私は恋や結婚の話が苦手だ。以前は家族愛、母性愛は好きだったが、その概念が重荷に感じ始めてからはそちらもちょっと苦手だ。
別に「やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなくていい」ならいい。
そう思っている人もいてくれるだろうし、自分自身もそれを信じればいい。そういう世界に生きるのだと。
私は恋をしたことがないし、結婚しない予定だ。
ただそれでどうやって最期まで生きるのだろうとは思うけど……。システムなんてコロコロ変わるのだし、お金や将来のために我慢して結婚というのは違う気がする。一人でも生きられる道を探していれば、そういう未来も開かれるんじゃないか。
トラウマになるような出来事があった。それを言い訳に、私は恋や結婚の話を避けてきた。もっとひどいことを乗り越えてきた人もいるだろうに、私は乗り越えるのが面倒で言い訳を振りかざした。いや、最初から恋や結婚の概念が苦手で、それを避けられる正当な理屈を探し続けていたのかもしれない。
漫画やアニメなんかで、ファンタジーとか、好きな要素がある中での「恋」は理解しようと努めることができる。心理を丁寧に描いた作品なども。ああいうことがあったから、優しさに触れたから、あの人のことが好きなんだなとか、登場人物の心境を察しようとする。
また、恋の歌だとは知らないまま子どもの頃から慣れ親しんできた歌などは今でも好きだ。ディズニーとかも。ファンタジーな世界観や、動物いっぱいのところが好きなのだ。
けど最近意味もなく憂鬱というか、「普通」が重荷になってきた。恋、結婚、家族、親戚……世界中そんな話で溢れている。きっと。
私の心安らぐ場所はどこだろう。何を目指せばいいんだろう。
みんなやる気満々だなぁ。なんで、上も下も重力もない精神世界で、自由にできる創作でさえ人間らしい人間を描くんだろう。なんで恋の話でキュンとくるんだろう。恋の何がいいんだろう。私はなんだか疲れた。
生き物も生き物だ。あんなに過酷な中で、生まれてもすぐ死んでしまったり誰かに食べられたりするような中で、なんで子どもを生むんだろう。なんであんなにやる気なんだろう。
みんななぜなんだろう。なんで生きているんだろう。
でも殺すのはひどいと思う。なぜ被害が出るからと、生き物を駆除するんだろう。駆除する以外にやり方はないんだろうか。猫や犬とか鹿とか川鵜とかオオキンケイギクとかブルーギルやブラックバスとか。他にもいっぱいいて、今後も私は駆除された生き物たちを知ることになるんだろう。
なんで生き物が国を行き来するのは良くなくて、人間だけ行き来して良いのか。
なんで「使えない人間はポイ」みたいなことが延々と続けられるんだろう。誰かがポイするというより、誰にも目を向けられず救われず手を差し伸べられない人が結果的にポイッとされるんだろうけど。
なんで貧しい人が多いんだろう。失礼な言い方だけれど、正直ネットを見ていてもみんな裕福には見えないし、工夫して生きていると思う。それでなぜみんな「日本は安全で平和ですごい国」と納得しているんだろう。
私は小学校でいじめられた時から、この国が平和だなんて思ったことがない。まだ生まれてきて良かったとも思えない。様々な生き物たちが駆除されていることを知った今、その思いはますます強くなる。一部の生き物たちが可愛がられている裏で、大量の生き物が殺されている。
また、奇跡的に人が無傷で助かった動画がたくさん撮れているということは、人が死んだ動画がその百倍撮れているんじゃないだろうか。見たことないだけで。
問題は多い。毎日耳にする。それは世界を変えようとする心の表れ……かもしれないけれど、誰かが声を上げたから話題として取り上げられたのであって、見えないところではもっとたくさん犠牲が出ているんだろう。毎日生き物は駆除されているんだろう。
なんで野良犬や野良猫は、殺処分されるのに増えようとするんだろう。なんで人間は、他の生き物を駆除して住んでおいて楽しそうに恋の話をするんだろう。なんで、人を殺すようなストーリー、死ぬようなストーリーがウケるんだろう。ものすごい能力を使って人を殺せるなら、すべての命を救うこともできるだろうに。
みんな同じ命じゃないのか? 矛盾している。大事にされる命とされない命があるなんて。大事な命だけ表面上大事にされていれば、あとはどうなっても良いのだろうか? 汚い部分、未解決の部分は表に出さないようにすれば良いのか?
まるで人間以外存在しないかのように。それも、ちゃんと枠にはまれて手続きができて発信できて、理不尽を理不尽と訴えられる人間ばかり人間扱いされて。
強くならなきゃいけないってことか。
最大の矛盾は自分の中にある。私はバトルのゲームが好きだし、バトルの漫画も読む。
恋が苦手とか言いながら、自然が減ったと嘆く。自然の植物や虫や動物に増えてもらいたい……それはつまり生き物たちが自由に恋することを望んでいるんじゃないのか。
この間ハエトリグモを掃除機でひき殺してしまった。ずっと家に住み着いていた可愛い女の子だ。
そのあとで私はなんでこんな偉そうな文章が書けるんだろう。虫を殺してしまうことだって多いのに。
ハエトリグモを潰してから、可愛いと思う気持ちより踏んでしまう怖さが勝っている。それも喉元過ぎれば熱さを忘れるのだろうけれど。
私はハエトリグモのことをすごく可愛いと思っていた。殺してしまってショックだった。でもよく考えたら私は私の食べた生き物にいちいち思いを馳せていなかった。
名前を付けられず、愛されることもなく、死んでいったのかもしれない。どんな最期を迎えたんだろう。
そう思うと生き物がなんだか可愛く見えない。可愛いとか以前に生きているのだ。生きているから食べ物や水がないと死ぬし、暑すぎたり寒すぎたりしても、ショックを与えられても死ぬ。死ぬだけでなく傷つきもするし病気にもなる。その事実が今はなんだか重い。命の重みってそういうことか。
テレビに可愛い動物の動画が出る。動物はみんな可愛いのだ。その可愛い動物たちが今もどこかで食い、食われ、処分される。可愛い動物を愛でる一方で可愛い動物を食べている。
誰かが生きれば誰かが死ぬのだ。でも生き物は恋をし、子孫を残す。
それはなぜか。生き物はいつか死ぬし、過酷な野生の世界ではいつかというよりいつ死ぬか分からない。毎日死の隣にいるのだろう。だから命を残さなくてはならない。
何のために? 世界を続けるために。
学校で「誰かと二人組になってください」と言われたときにはみ出る子。私はそれだった。今も世界からはみ出る子、一人ぼっちの子はいるのだろう。
誰かを特別な存在にしてしまえば、それ以外の人は特別でなくなる。それは差別的なこととは違うのだろうか? 学校の先生は誰か一人を贔屓してはいけないというけれど、贔屓はなぜいけないのか? 可愛い動物は贔屓され、優秀な人間は贔屓され、素敵な人を個人的に贔屓する。贔屓も弱肉強食も優秀な遺伝子を残すための本能じゃないか。
恋とかって「心」というより本能なのだろう。恋をすることで世界が保たれる。動物的なシステムだ。誰も死ななくて良いなら恋は必要なかった。すべての命を同じように、みんな平等に愛し、親も子もなく、性別もなく、弱肉強食もなく、種族も関係なく、すべてが「友達」で良いはずだ。誰かを「特別な存在」にしなくて良いはずだ。
そうなりたい。誰も死なない世界ですべてがお友達。絵本の中みたいな、そんな世界に。
一匹の蜘蛛を助けたカンダタと、一匹の蜘蛛を殺してしまった私。蜘蛛の命の存在を見落とした私にこんな偉そうなことを言う資格はあるだろうか。いや、ないだろう。
それでも言う。平和な世界があるとしたら、そこではもうバトルも繁殖も必要ないはずだと。
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