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「この世に善も悪もない」と言いたいところだけど悪しかないんじゃない?
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「命とは何か?」と問われて、「踏みつぶすもの」「壊すためのもの」と答える人はいないだろう。「かけがえのないもの」「一つしかない大事なもの」「温かいもの」などが優秀な答えだろうか。
ただ、私という一匹の人間が生きるためには、一生、毎日、命をいただき続けなくてはならない。一つの命を生かすために、数え切れないほどの命を死なせているのだ。
意外とそのことについては日常生活の中で忘れているというか、棚に上げているというか、「命に感謝していただいているから(それでいいでしょ)」と納得し、結論づけてしまうものだ。物事の善悪だとか、他の人の迷惑行為だとか、政治のこととかには偉そうに口を出すんだけど……というのは私のことである。
私は中学生の頃、一時毎日のように動物の死骸を見たことがあった。なぜだか分からないけどかなりの頻度で通学路の脇に横たわっており、目に付くのだ。まず最初にウサギやネコの死骸を見てショックを受け、その後もツバメやトンビやヘビやカメなど色々目にした。もうだいぶ記憶が薄れてしまったのだけれど、ネコの死骸は少なくとも3回は見たはずだ。
毎日命をいただいているくせに私はそのときショックを受けた……。それは一体何のショックなのだろう。毎日お皿に乗った遺体を見ているくせに、しかもお皿に乗った遺体は私のせいで命を奪われているというのに、道路で生き物の死骸を見たときだけ「かわいそう」と思うなんて。日々命をいただいている自覚がなさすぎる。
それまで私は絵本の中の、お花畑の世界に生きていた。何かがその時はがれ落ちそうになった。動物の死骸を頻繁に見た後から、私は取り憑かれたように動物の屠殺や犬の殺処分の動画、こげんたちゃん事件の画像などを見まくった。そしてやっと、平和な世界の幻想から目覚めた。
「命をいただく」と曖昧で儀式的な言葉を使っているが、屠殺はそんな優しいものではない。喜んで命を差し出す生き物なんかいない。そりゃそうだ、私も包丁を持った殺人鬼や巨大なクマに追いかけられたら逃げるだろう。最後の最後までもがき抵抗するはずだ。
それでも私はなんとなく自分の行いだけ棚に上げ続けた。二度ほどはベジタリアンを目指そうとしたけれど、すぐ挫折した。今もフライドチキンが食べたくてしょうがない。ずっと肉を食べているのに……我慢しているわけでもないのに。おなかが減ると肉が食べたくてしょうがない。私は悪人だということを認めざるを得ない。
しかしベジタリアンになれば聖人のように振る舞えるかというと、それも微妙な気がしてきた。だって野菜というのは、害虫や害獣と戦いながら誰かが作ってくださっているのだ。自分だけ別の場所にいるような感覚で「命をいただく」のは肉であれ野菜であれ変わらない。
虫や獣に「野菜を食べないでください」と言ったって通じないだろう。だって私も、豚や牛があんなに泣き叫んで「私を食べないでください」と訴えているような動画を見たあとでも、平気で肉を食べられるんだから。
農業や漁業に被害を及ぼす動物は駆除される。どう生きようと、この世に「食事をする」行為がある限り、私は悪人なのではないか。
しかしそんなときにハエトリグモの共食いを3度も見て、なんだかスッとした。彼らの差別のないストレートな生き方に感動した。オオカミやチーターなど……野生の狩人は美しい。私は変に逆らったり、包み隠そうとしているから見苦しいのだ。
以前ネットで、動物の命に対して思いを発信している人に「この偽善者が」といったコメントが付いていたり、動画サイトのコメント欄でまともなコメントの方が叩かれたりしているのを見て、「どうして命について真剣に考えてる人の方がそんなひどいことを言われるんだ!」と悲しく思っていたが、もしかしたら私も叩く側の人間の心理に近づきつつあるかもしれない。叩いてはいないと思いたいけど。
この間犬や猫の殺処分をなくす署名に参加をしたが、そのときも、「私は『犬や猫だけを殺さないでください』と言えるほど偉い人間なのか?」と思った。
私はこの間も不注意で虫を殺してしまった。ボーッと虫を殺すような人間に、命の尊さを語る権利があるのか? 大体私は犬や猫と触れ合ったこともほとんどなく、何も知らないのに。
それに犬や猫以外も殺されているのだ。牛や豚やニワトリや競走馬も、野生化したアライグマも、増えすぎた在来種のカワウも、外来魚のブルーギルやブラックバスも、かつて人の手で盛んに植えられたというオオキンケイギクも、農業に被害を及ぼすシカも、人を襲うクマも。
アライグマやブルーギルやブラックバス、オオキンケイギクが野生化したのは人間のせいだ。カワウやシカやクマは日々、過酷な野生の世界で一生懸命生きている。それでも殺される。人間が核兵器を作ろうと建物と道路で地面を覆おうと大気や海を汚染しようと、人間のことは駆除せずもっと増やそうとするけれど、生き物はどんどん殺す。それで世界は大丈夫なのか? 世界は人類のものなのか?
そう思うと、人間になつく、人間にとって可愛い生き物だけを大事にするというのも正しいんだかなんだか……。頭の悪い私には分からなくなってくる。ペットは売れるし、飼いたい人も多いから、人為的に個体数を増やしている。一部の動物を意図的に増やしまくることに問題はないのか? 一生懸命生きている他の生き物たちの駆除は止められないのか?
ただ、「人間になつく人間にとって可愛い生き物」さえ大事にできないような世界は終わっているだろう。愛情というものが欠片もない私でさえそう思う。
犬や猫は人の手で増やされたのだから幸せになってほしいというのなら、アライグマもブルーギルやブラックバスやオオキンケイギクも大切にしたい。でも命って何? 被害って何? 駆除って誰のため? 何もかもが分からなくなってくる。
そして私にも差別心がある。アライグマやカワウなどの哺乳類や鳥類はかわいそうだけれどブルーギルやブラックバスなどの魚類は心を持つ「動物」じゃないから良いだろうと。
哺乳類や鳥類が崇高で魚類には心がないなんて誰が決めた? 差別心があるのは私だ。私は以前「魚 なつく」で動画検索して魚の賢さを知った。ならば「魚には心がない」「魚は愛情を注ぐべき動物というより食べ物」という考えは間違っている。
やはり私には大事なことが何も分からない。弱肉強食、食事という行為が世界からなくなるしかない。食事のあるこの世界に神がいるとしたら、神は誰に味方し何と言うのだろう。善悪とは何だろう。神は人間の味方なのか。弱肉強食を止められないのか。大体弱肉強食は神が作った掟なのか?
動物虐待の残酷さを説く人はよく「同じ苦しみを加害者に味わわせてほしい」と言う。けどその理屈で言ったら、毎日生き物を食べ続けた私は死後に、殺され食べられる苦しみを何百万回と味わうことになるだろう。
「食べることだけは特別に許される?」殺される側からしたら殺される理由なんてどうであれ関係ないだろう。
殺人は罪だの動物の命の重みだの善と悪だの、そんな言葉を聞く度私の心はカオスになる。ニワトリを殺して生き続ける私は一体何様だろう。ニワトリと私の違いって何だろうと。
正しい人間とか良い人なんているのか? 人間って進化して心を持っている特別な生き物なのか? 生きているだけで生物は等しく罪を負い、善の生物も悪の生物も、特別に大事な生物も、駆除されたり食べられたりしていい生物もいないんじゃないか? 悪人に悪人を裁く権利はあるのか? 「この生き物は駆除すべき、この生き物は食べていい、この生き物を殺すやつは残酷で極悪非道だ」などと言える権利があるのか? 当たり前のように生き物を「なつくかなつかないか」「可愛いか可愛くないか」「知能が高いか低いか」「清潔か不潔か」「利益があるか損害があるか」などと差別し、贔屓していて良いのか?
私の世界は性悪説だ。
どっかの国の「犬を食べる文化」をなくそうと活動している人たちがいたり、犬食が批判されたりしているらしいけど、犬を食べずに牛や豚を食べるのが良いことなんだろうか? もし犬を食べる文化がなくなったら代わりに他の生き物が食べられるんだろう。それで「ああ良かった、犬が食べられなくなった。めでたしめでたし」なのか?
私は犬が嫌いなわけじゃない。あんまり触れ合ったことはないけれど、以前公園に行ったらコーギーのような犬がこちらへ歩いてきて私の目の前にちょこんと座り、こちらを見上げてくれた。ものすごく可愛かった。あと、テレビや動画サイトで見る犬の動画もすごく可愛い。オオカミやキツネやタヌキなどのイヌ科の動物も好きで画像や動画を見ているし、この間テレビで見たコヨーテもカッコ良かった。犬が出ているコミックエッセイも読んでいる。犬は好きだ。
でも何だろうな……「豚」とか「牛」とか「トリ頭」とか、食われるものは食われた上に馬鹿にされ低く見られ、悪口に使われている。踏んだり蹴ったりだ。いつの間にか食べられて当然の存在になっているし。
他の生き物が食べられたりいじめられていたら誰かが「やめて」「残酷だ」と言うのに。豚や牛やニワトリは食べるための生き物だなんて誰が決めたんだろう?
私はブッダでもキリストでもさとり世代でもないから何も悟れない。ポンコツな差別主義者で偽善者だ。私は生き物が好きだったけれど、段々嫌いになりつつあるのかもしれない。世界が嫌いだ。命の尊さを感じる心が鈍ってゆく。
私の夢を語るなら、誰も死なない世界になってほしい。すべてが平等に愛される世界になってほしい。その為には美味しい食べ物とサヨナラしなくてはいけない。実現可能かどうかはともかく、もし食事を一切しない方法があるとして、私にできるのだろうか。食欲を絶つことなど。
天国のような世界では生き物たちはオリに入らず繋がれもせず自由に歩き回り、人間ももっと自由に旅して各地の動物と触れ合っていることだろう。動物を人間の世界に閉じこめるのではなく、自らが歩いて動物の世界に会いに行くのだ。誰かのミスが誰かの命を奪うこともなく。虫や草や微生物を踏み殺すこともなく。
けれど私は今フライドチキンを食べたいのだ。あと何回食べれば満足するか分からない。だから私は理想と行動がかけ離れている。こんなことを言っている自分に自信がないし、誰かのことを責められるような偉い人間ではない。その割にすごいトゲのある言葉で批判しまくってるけど。
私は極悪非道の殺人鬼や動物虐待犯に近い生き物だ。ベジタリアンにもなれない。伝説に出てくるような聖人にもなれない。虫と草と微生物を踏み殺しながら、50円の収益にもならないであろうくだらない文章をネットに撒き散らし、誰かの有益な情報や心の叫びを私の投稿で流していく。
でもどうせ悪人なのだ。どうせ生産より消費の方が多いのだ。私というたった一匹の命を生かすために数多の生物を犠牲にしつつ生きてゆく。私の好物の合鴨ロースの「アイガモ」が何かさえも、この間まで知らなかったようなどうしようもない生き物だ。
これからも私は、当たり前のように自分を「善なる存在」と信じているかのような主張を見ては冷めた目で「ふーん……」と言うことだろう。その人の心の中にどんなに清らかで尊いものがあるかも知らないままに、揚げ足ばかり取って。目に見える表面ばかりを突っついて。そのうち「表面だけでは分からない大事な何か」からどんどん遠ざかり、愛が消えた残りカスみたいな世界に取り残されるのだろう。
私は悪人でいく。人から悪人って言われたらムカついて千倍返しにするけど、悪人でしかない。それだけだ。
ただ、私という一匹の人間が生きるためには、一生、毎日、命をいただき続けなくてはならない。一つの命を生かすために、数え切れないほどの命を死なせているのだ。
意外とそのことについては日常生活の中で忘れているというか、棚に上げているというか、「命に感謝していただいているから(それでいいでしょ)」と納得し、結論づけてしまうものだ。物事の善悪だとか、他の人の迷惑行為だとか、政治のこととかには偉そうに口を出すんだけど……というのは私のことである。
私は中学生の頃、一時毎日のように動物の死骸を見たことがあった。なぜだか分からないけどかなりの頻度で通学路の脇に横たわっており、目に付くのだ。まず最初にウサギやネコの死骸を見てショックを受け、その後もツバメやトンビやヘビやカメなど色々目にした。もうだいぶ記憶が薄れてしまったのだけれど、ネコの死骸は少なくとも3回は見たはずだ。
毎日命をいただいているくせに私はそのときショックを受けた……。それは一体何のショックなのだろう。毎日お皿に乗った遺体を見ているくせに、しかもお皿に乗った遺体は私のせいで命を奪われているというのに、道路で生き物の死骸を見たときだけ「かわいそう」と思うなんて。日々命をいただいている自覚がなさすぎる。
それまで私は絵本の中の、お花畑の世界に生きていた。何かがその時はがれ落ちそうになった。動物の死骸を頻繁に見た後から、私は取り憑かれたように動物の屠殺や犬の殺処分の動画、こげんたちゃん事件の画像などを見まくった。そしてやっと、平和な世界の幻想から目覚めた。
「命をいただく」と曖昧で儀式的な言葉を使っているが、屠殺はそんな優しいものではない。喜んで命を差し出す生き物なんかいない。そりゃそうだ、私も包丁を持った殺人鬼や巨大なクマに追いかけられたら逃げるだろう。最後の最後までもがき抵抗するはずだ。
それでも私はなんとなく自分の行いだけ棚に上げ続けた。二度ほどはベジタリアンを目指そうとしたけれど、すぐ挫折した。今もフライドチキンが食べたくてしょうがない。ずっと肉を食べているのに……我慢しているわけでもないのに。おなかが減ると肉が食べたくてしょうがない。私は悪人だということを認めざるを得ない。
しかしベジタリアンになれば聖人のように振る舞えるかというと、それも微妙な気がしてきた。だって野菜というのは、害虫や害獣と戦いながら誰かが作ってくださっているのだ。自分だけ別の場所にいるような感覚で「命をいただく」のは肉であれ野菜であれ変わらない。
虫や獣に「野菜を食べないでください」と言ったって通じないだろう。だって私も、豚や牛があんなに泣き叫んで「私を食べないでください」と訴えているような動画を見たあとでも、平気で肉を食べられるんだから。
農業や漁業に被害を及ぼす動物は駆除される。どう生きようと、この世に「食事をする」行為がある限り、私は悪人なのではないか。
しかしそんなときにハエトリグモの共食いを3度も見て、なんだかスッとした。彼らの差別のないストレートな生き方に感動した。オオカミやチーターなど……野生の狩人は美しい。私は変に逆らったり、包み隠そうとしているから見苦しいのだ。
以前ネットで、動物の命に対して思いを発信している人に「この偽善者が」といったコメントが付いていたり、動画サイトのコメント欄でまともなコメントの方が叩かれたりしているのを見て、「どうして命について真剣に考えてる人の方がそんなひどいことを言われるんだ!」と悲しく思っていたが、もしかしたら私も叩く側の人間の心理に近づきつつあるかもしれない。叩いてはいないと思いたいけど。
この間犬や猫の殺処分をなくす署名に参加をしたが、そのときも、「私は『犬や猫だけを殺さないでください』と言えるほど偉い人間なのか?」と思った。
私はこの間も不注意で虫を殺してしまった。ボーッと虫を殺すような人間に、命の尊さを語る権利があるのか? 大体私は犬や猫と触れ合ったこともほとんどなく、何も知らないのに。
それに犬や猫以外も殺されているのだ。牛や豚やニワトリや競走馬も、野生化したアライグマも、増えすぎた在来種のカワウも、外来魚のブルーギルやブラックバスも、かつて人の手で盛んに植えられたというオオキンケイギクも、農業に被害を及ぼすシカも、人を襲うクマも。
アライグマやブルーギルやブラックバス、オオキンケイギクが野生化したのは人間のせいだ。カワウやシカやクマは日々、過酷な野生の世界で一生懸命生きている。それでも殺される。人間が核兵器を作ろうと建物と道路で地面を覆おうと大気や海を汚染しようと、人間のことは駆除せずもっと増やそうとするけれど、生き物はどんどん殺す。それで世界は大丈夫なのか? 世界は人類のものなのか?
そう思うと、人間になつく、人間にとって可愛い生き物だけを大事にするというのも正しいんだかなんだか……。頭の悪い私には分からなくなってくる。ペットは売れるし、飼いたい人も多いから、人為的に個体数を増やしている。一部の動物を意図的に増やしまくることに問題はないのか? 一生懸命生きている他の生き物たちの駆除は止められないのか?
ただ、「人間になつく人間にとって可愛い生き物」さえ大事にできないような世界は終わっているだろう。愛情というものが欠片もない私でさえそう思う。
犬や猫は人の手で増やされたのだから幸せになってほしいというのなら、アライグマもブルーギルやブラックバスやオオキンケイギクも大切にしたい。でも命って何? 被害って何? 駆除って誰のため? 何もかもが分からなくなってくる。
そして私にも差別心がある。アライグマやカワウなどの哺乳類や鳥類はかわいそうだけれどブルーギルやブラックバスなどの魚類は心を持つ「動物」じゃないから良いだろうと。
哺乳類や鳥類が崇高で魚類には心がないなんて誰が決めた? 差別心があるのは私だ。私は以前「魚 なつく」で動画検索して魚の賢さを知った。ならば「魚には心がない」「魚は愛情を注ぐべき動物というより食べ物」という考えは間違っている。
やはり私には大事なことが何も分からない。弱肉強食、食事という行為が世界からなくなるしかない。食事のあるこの世界に神がいるとしたら、神は誰に味方し何と言うのだろう。善悪とは何だろう。神は人間の味方なのか。弱肉強食を止められないのか。大体弱肉強食は神が作った掟なのか?
動物虐待の残酷さを説く人はよく「同じ苦しみを加害者に味わわせてほしい」と言う。けどその理屈で言ったら、毎日生き物を食べ続けた私は死後に、殺され食べられる苦しみを何百万回と味わうことになるだろう。
「食べることだけは特別に許される?」殺される側からしたら殺される理由なんてどうであれ関係ないだろう。
殺人は罪だの動物の命の重みだの善と悪だの、そんな言葉を聞く度私の心はカオスになる。ニワトリを殺して生き続ける私は一体何様だろう。ニワトリと私の違いって何だろうと。
正しい人間とか良い人なんているのか? 人間って進化して心を持っている特別な生き物なのか? 生きているだけで生物は等しく罪を負い、善の生物も悪の生物も、特別に大事な生物も、駆除されたり食べられたりしていい生物もいないんじゃないか? 悪人に悪人を裁く権利はあるのか? 「この生き物は駆除すべき、この生き物は食べていい、この生き物を殺すやつは残酷で極悪非道だ」などと言える権利があるのか? 当たり前のように生き物を「なつくかなつかないか」「可愛いか可愛くないか」「知能が高いか低いか」「清潔か不潔か」「利益があるか損害があるか」などと差別し、贔屓していて良いのか?
私の世界は性悪説だ。
どっかの国の「犬を食べる文化」をなくそうと活動している人たちがいたり、犬食が批判されたりしているらしいけど、犬を食べずに牛や豚を食べるのが良いことなんだろうか? もし犬を食べる文化がなくなったら代わりに他の生き物が食べられるんだろう。それで「ああ良かった、犬が食べられなくなった。めでたしめでたし」なのか?
私は犬が嫌いなわけじゃない。あんまり触れ合ったことはないけれど、以前公園に行ったらコーギーのような犬がこちらへ歩いてきて私の目の前にちょこんと座り、こちらを見上げてくれた。ものすごく可愛かった。あと、テレビや動画サイトで見る犬の動画もすごく可愛い。オオカミやキツネやタヌキなどのイヌ科の動物も好きで画像や動画を見ているし、この間テレビで見たコヨーテもカッコ良かった。犬が出ているコミックエッセイも読んでいる。犬は好きだ。
でも何だろうな……「豚」とか「牛」とか「トリ頭」とか、食われるものは食われた上に馬鹿にされ低く見られ、悪口に使われている。踏んだり蹴ったりだ。いつの間にか食べられて当然の存在になっているし。
他の生き物が食べられたりいじめられていたら誰かが「やめて」「残酷だ」と言うのに。豚や牛やニワトリは食べるための生き物だなんて誰が決めたんだろう?
私はブッダでもキリストでもさとり世代でもないから何も悟れない。ポンコツな差別主義者で偽善者だ。私は生き物が好きだったけれど、段々嫌いになりつつあるのかもしれない。世界が嫌いだ。命の尊さを感じる心が鈍ってゆく。
私の夢を語るなら、誰も死なない世界になってほしい。すべてが平等に愛される世界になってほしい。その為には美味しい食べ物とサヨナラしなくてはいけない。実現可能かどうかはともかく、もし食事を一切しない方法があるとして、私にできるのだろうか。食欲を絶つことなど。
天国のような世界では生き物たちはオリに入らず繋がれもせず自由に歩き回り、人間ももっと自由に旅して各地の動物と触れ合っていることだろう。動物を人間の世界に閉じこめるのではなく、自らが歩いて動物の世界に会いに行くのだ。誰かのミスが誰かの命を奪うこともなく。虫や草や微生物を踏み殺すこともなく。
けれど私は今フライドチキンを食べたいのだ。あと何回食べれば満足するか分からない。だから私は理想と行動がかけ離れている。こんなことを言っている自分に自信がないし、誰かのことを責められるような偉い人間ではない。その割にすごいトゲのある言葉で批判しまくってるけど。
私は極悪非道の殺人鬼や動物虐待犯に近い生き物だ。ベジタリアンにもなれない。伝説に出てくるような聖人にもなれない。虫と草と微生物を踏み殺しながら、50円の収益にもならないであろうくだらない文章をネットに撒き散らし、誰かの有益な情報や心の叫びを私の投稿で流していく。
でもどうせ悪人なのだ。どうせ生産より消費の方が多いのだ。私というたった一匹の命を生かすために数多の生物を犠牲にしつつ生きてゆく。私の好物の合鴨ロースの「アイガモ」が何かさえも、この間まで知らなかったようなどうしようもない生き物だ。
これからも私は、当たり前のように自分を「善なる存在」と信じているかのような主張を見ては冷めた目で「ふーん……」と言うことだろう。その人の心の中にどんなに清らかで尊いものがあるかも知らないままに、揚げ足ばかり取って。目に見える表面ばかりを突っついて。そのうち「表面だけでは分からない大事な何か」からどんどん遠ざかり、愛が消えた残りカスみたいな世界に取り残されるのだろう。
私は悪人でいく。人から悪人って言われたらムカついて千倍返しにするけど、悪人でしかない。それだけだ。
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