ただΩというだけで。

アクアリウム

2.

「律、ほら、見てごらん。魚いっぱいいるぞ」

  津田がそう促しても、律は横っ面を彼の胸につけたまま、振り返らない。津田は律の背中を優しくトントンしながら、口の形だけで乾に、「眠くなった」と伝えてきた。声に出すと、眠気に抵抗しようとする律の自我を刺激して手こずることになるらしい。

  乾は黙ってうなずくと、水槽の青い光に照らされた彼の横顔を眺めた。
  津田は少し顎を上げて、巨大な水槽を悠々と泳ぐサメを目で追っている。空調の風に前髪がさらりと揺れて、その額のまだ生々しい傷跡と縫い目が見えた。

  津田の失踪は会社では公にせず、定例の発情休暇中に家の近所で交通事故に遭った、ということになっていた。
  土曜日に退院した津田は翌週の月曜日から出勤したがったが、打ち込み作業の多い契約社員は、手指をほとんど使えない状態では仕事にならない。通常の家事にも時間がかかるはずなので、乾は上司として、津田に一週間の自宅療養を言い渡した。

  生活費の心配があるのは分かっている。それでも乾は、両手をけがしたうえに頭も打っている津田に、律を抱いて満員電車に乗るようなことをさせたくなかったのだ。ＣＴの結果異常がなかったとはいえ、頭部への打撃は後々影響が出てくることもある。
  その分の給料は、損害賠償で補ってください。そう言うと、津田はしぶしぶ引き下がった。

  河野は、津田が退院した翌日の日曜日に、都内のホテルで捕まったらしい。
  一応は刑事事件として扱われるが、おそらく不起訴になるだろう、というのが佐伯の見解だ。河野は津田を拉致監禁したが、津田のけがは自傷行為によるもので、傷害罪には問えない。αへの優遇措置は、社会に根深く存在する。だからそこを争うよりも、民事で損害賠償をできるだけ搾り取ろうというのが、佐伯の作戦なのだそうだ。