ただΩというだけで。

失踪

7.

 「そんなに警戒しなくても、私だってもう子どもなんかたくさんだわ」

  彼女の視線を追うと、乾の上着のポケットから、特効薬のカートリッジの端がはみ出していた。

「あの時は、たまたま周りがベビーラッシュだったのよ。だから雰囲気に流されたっていうか、もう一人ほしいなって思っちゃっただけ。ちょうどカズが全然言うこと聞かない時期で、お兄ちゃんになったらちょっとはいい子になるかななんて、幻想抱いちゃったの」

  妻は、ふん、と鼻から息を吐いた。

「一人で子育てするのって、大変なのよ」

  当てつけなのだろうか。一人で育てるから関わるなと言ったのは彼女の方だというのに。
  何と返事をしたらいいかわからない乾は、ただ黙ってコーヒーに口をつけた。

  その時、ギシ、ギシ、という何かのきしむ音と、わずかに人の声が聞こえた。子どもが起きたのかと思って目を上げると、正面に座った妻が、人差し指を立てていた。
  上の階、と言いたいらしい。

「引っ越したいの」

  どこか勝ち誇ったような顔で、妻が言う。

「聞こえたでしょ。毎週火曜日は昼間っからあれなのよ。週末の夜もね。子どもの教育によくないし、もう限界なの。ずっと我慢してたけど、ここは排気ガスもすごいし、駅からも遠いし。だいたいカズはもうすぐ小学生になるんだから、こんな狭いところに、いつまでも住んでいられないじゃない」

  なるほど、上階からの音は断続的に聞こえてくる。別にうるさいというほどではないが、頻繁に聞こえるのなら気になるだろう。

「あのね、この前、幼稚園のお友達が引っ越した、ベイエリアのマンションが素敵だったの。分譲賃貸で、まだ空きがあるらしいのよ。カズと仲良くしてたお友達だから、同じ小学校に通えることになったらすっごく喜ぶだろうし、この家はもうこんなだし、どうせ引っ越すなら入学前の今がいいと思うの」