ただΩというだけで。

失踪

6.

「久しぶり」

  乾の顔を見ると、妻の香里奈は薄く微笑んだ。弓型にしなった唇には光沢のある口紅が塗られ、きれいに化粧を施した顔で夫を室内へいざなう。
  胸元の大きくあいた服を着ていた。

  乾は三和土たたきで靴を脱ぎながら、上着のポケットの中で特効薬を握りしめていた手を、そっと離した。

「…… カズは？」

  部屋の中は静かだ。リビングには、体調が悪いという子どもの姿がない。寝室で寝ているのだろうか。

「さっきまではひどかったのよ」

  ため息とともに、妻が言う。様子を見に行こうとすると、
「やっと寝たところだから、起こさないで。」
  心底迷惑そうに、そう止められた。

「話があるのよ。座って」

  コーヒーでいいでしょ、そう言って彼女は返事も聞かずにヘッドボードからマグカップを取り出し、電気ケトルのスイッチを入れた。
  ゆっくりコーヒーなど飲んでいる暇はないのだが、子どもの容態が落ち着いたのなら帰るというわけにもいかない。乾は仕方なく、ダイニングの椅子を引いて腰かけた。インスタントコーヒーを用意する妻の後ろ姿を、じっと見つめる。

  肩の下まである髪はきれいに巻かれ、7年前に乾がつけた噛み痕を完全に隠していた。
  背中にも横顔にも、たるんだ脂肪は見られない。子どもの看病をしていたはずなのになぜ、と思うほど、身なりの整ったまだ20代の妻は美しかった。
  久しぶりに会う夫のために、身ぎれいにしたわけではない。彼女は、「美しい自分」が好きなだけだ。

  残念だな、と乾は思った。
  美しい妻を、まったく魅力的だと思えない。
彼女のせいで、Ωというものを嫌悪するようになったのに。
  津田を好きになったからと言って、他のΩまで良いものに思えるわけではないらしい。

  テーブルに戻った妻が、ふと歪んだ笑顔を見せた。