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◇現在 名も無き開拓村、ダルクレイの来訪

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◇ ~現在~ 名も無き開拓村 ダルクレイの来訪



 奴隷のジルの朝は早い。

 だが主人より早く起きるようにと言われたわけでもない。奴隷になる前、実家に居たときの癖で早く起きてしまうのだ。実家では、朝一番で井戸水を汲んで母親の朝餉の支度を手伝うのが常だった。だがここに来てから水汲みをする必要がなくなってしまった。主人の奥様が、魔法で大量の水を出して水瓶を満たしてしまうのだ。それも砂や小石の一切混ざらない、冷たく清らかな水である。

 ジルは魔法使いを見たことはあっても、火の玉を何発か出す程度で魔法使いを名乗っている者ばかりだ。一度狩りに出て猪を狩れば、それで魔力切れになり疲労困憊になることも珍しくない。それさえも十二分に凄いと思っていたのに、主人の奥様のような、まさに湯水の如く水を生み出しても顔色一つ変えない大魔法使いなど完全に理解の外だった。意のままに動く炎の蛇でゴブリンを燃やす光景をこの目で見たはずだが、今思い出してもまったく現実味が無い。だからジルは奥様を恐れていた。

 だが、決して嫌ってはいなかった。主人の奥様は色々と悪癖は多く態度も横柄を装っているが、決して横暴な雇い主でないことをジルは実感していた。魔法で出してくれた水を私が使うことも許してくれる。それ以前に許さないという発想がまず無かった。ジルがおずおずと水を使って良いのかと尋ねると「使うために魔法唱えたに決まってるじゃん? なんでそんなこと聞くの?」と素で尋ね返された。そのため、水汲みはせずにその次の仕事、朝餉の用意にすぐ取りかかることができた。

「ご主人様、奥様、おはようございます」

 と言っても、二人ともぐっすり寝ている。あと一、二時間は起きないだろう。昨晩も、お盛んだったようだ。奥様の細い身体が艶めかしくご主人様の体に絡みついている。こればかりはどうにも慣れない。見るまいとして離れに居ても嬌声が聞こえてくるのだ。

 しかもはじめは奥様のあえぎ声が大きく聞こえていたのに、途中からご主人様の「もう無理」「まって」「干からびる」「たすけて」と言った声が聞こえてくる。生娘のジルにとってはひどく刺激が強かったが、逆に言えばそれを聞く側になっているだけというのは幸運も幸運だったとわかっている。普通、奴隷となったならば悲鳴を聞く側ではなく、悲鳴をあげる側に居るものだ。

 この村には「主人は奴隷を使う代わりに、奴隷を守らねばならない」という規則があった。主人に言い渡された仕事はしなければいけないが、一線は守られている。ご飯も休憩ももらえるし、なによりぶたれたことや飯を抜かれたことなどは一度もなかった。こんなルールが全世界にあれば良いのに、とジルは思った。

 自分の身が幸運であると言っても、当然寂しさはある。親に裏切られたという思いが無いとは言えない。だがそれでも、ゴブリンに捕われたという自分を助けてくれたばかりか、その後の身の上まで守ってくれていることのありがたみを理解している。ジルはまだ14歳と成人しては居ないが、それでも世間のならい、浮世の辛さというものは知っていた。

「あのう、朝ご飯置いておきますので……。今日は粥と漬物、野菜のスープを用意しました」
「ああ……すまん、後で食べる」

 ご主人様は起きていても立ち上がる気力がなかっただけのようで、息も絶え絶えに言葉を返した。
 何故かこの村では麦を作るよりも稲作の方が多く、自然と食事も米になることが多い。主人達はパンよりも粥の方を好んだ。ジルはパンを焼くこともできるが、粥の方が簡単で助かっている。また、味噌という不思議な……正直ジルにとってはあまり見た目の良くない調味料を使うが、保存も効いて味も悪くないため、ジルはすぐに使い方を覚えた。

 朝餉の支度が終わった後のジルは、野良仕事にとりかかる。

 と言っても、これもさほど大変ではない。面積の広い水田の管理は奥様の魔法や主人の物凄い腕力でパッと片付いてしまうので手を出す必要がない。ジルが与えられた仕事は、庭で育てている野菜と小屋で育てている鶏10匹の世話だけたった。それさえも終わってしまえば後は余暇のようなものだ。ジルも流石に奴隷の身でぶらぶら遊ぶのも悪い気がして「仕事はありませんか」と聞こうとしても、主人は困惑したように「いや特に無いなぁ……」と言うだけだった。

 ジルの居た村は貧しい。一年前、隣村――今、ジルの居る開拓村が出来てからは妙に肉や卵が安く手に入るようになって生活は楽になりつつあったが、それでも身についた貧乏性というものは中々抜けないものだった。

 ジルは幼いころ、野良仕事が嫌で怠けていると、「豹の魔人が悪い子を食べてしまうぞ」と親からさんざん脅かされていた。このあたりの山に生息する山豹は、実はゴブリンなどよりもよほど強い。人里におりることなど滅多に無く見ることも稀な動物だが、ジルは一度だけ、遠目に山豹が狩りをしている姿を見たことがある。それは美しくも恐ろしい光景だった。長閑に草を食んでいた鹿の群れを、山豹が襲いかかったのだ。鹿達はすぐにそれに気付いて一斉に逃げ出したが、慎重に気配を殺していた山豹の方が有利だった。

 食われた鹿は、その群れの中でもっとも足が遅い鹿だった。他の鹿達はのろまな鹿を犠牲にして逃げおおせた。逃げた鹿達は、食われゆく鹿を物悲しく見つめていた。その光景はジルに「ああ、そうか、生きるってこういうことなのか」という原体験を刻みつけた。それ以来、ジルは親から言い渡された仕事を怠けることはなくなった。誰もが生きることに必死なんだと気付いた。

 今の自分が恵まれているからこそ、怠けている罰が下ったらどうしようという恐れがジルの心の片隅にあった。単に今の生活に慣れていないだけの話で時間が解決する悩みではあったが、この時点でほのかな罪悪感を消し去ることはできずにいた。

 だから、今日の出来事はまさにジルにとって恐怖そのものだった。

「へい、そこのお嬢さん、ハルト達は居るぅ?」

 ジルが草をむしっていたところ、背後から男が声をかけてきた。
 ジルは、やった、これで仕事ができると思った。お客様が来たとなれば水を出したり荷物を預かったりとお仕事が増える。妙に軽薄そうな声だなとジルは思ったが、もし万が一狼藉者であってもどうせ主人や奥様には敵わないだろう。とにかく主人のお役に立たねば、と思い振り返り、

「あ、はい! ご主人様も奥様も家に……」

 その男の姿を見た。

 筋骨隆々の体はまさに歴戦の戦士といった風体だ。
 だがなによりも、その男の首から上――

「……ん? なんだい、俺の顔に何かついている?」

 豹そのものの頭を見て、大絶叫をあげた。







「ハルトさー、奴隷を買ったなら説明してやれって」
「いやすまんすまん」

 ダルクレイが苦笑いしながら、怯えているジルを一瞥した。

 とりあえずジルが仕事に慣れたあたりで話そう……と思いながら、伸ばし伸ばしにしてしまった。これは俺の失敗だ。俺達がどこからきたのか、この村がどんな経緯で出来上がったのか、最初から詳しく説明するべきだった。

「いやすまないジル。こいつはダルクレイ。顔は怖いが気の良い奴だ」
「怖いは余計だっつの……まあ仲間内からも怖い怖い言われてたけど」
「あ、そうなんだ」

 獣の頭をした奴の中でも相当な凶相だとは感じていたが、獣人種の認識もやはり同じだったか。

「え、えっと、その、ご主人様……」
「なんだ?」
「ええと、その……こちらの人は、魔人、なんですよね?」
「まあそうだな」
「じゃ、じゃあ、人を食べる……んですよね?」
「食わねえってば、俺ってばグルメだから」

 ダルクレイは面倒くさそうに手を横に振る。

「こいつが好きな物はイチゴと桃だ。酒は苦手ですぐに潰れる」
「……果物食べるんですか?」

 ジルがきょとんとした顔で尋ねた。
 まあ見るからに肉食獣の顔ではあるんだが。

「焼き菓子も大好き。でも太るから甘いもの食いすぎるなってギネイに怒られたっけ」
「まあそういうわけでこいつは雑食だ」
「なら、魔人じゃないんですか……?」
「……そもそも魔人って何だと思う?」

 俺が問いかけると、ジルは虚を突かれたような顔をした。
 大体の一般人は「魔人ってなんだ?」という疑問を掘り下げることはあまりしないだろう。

「ええと、闇の住人で人を襲うとしか……」
「いや、違う。魔人ってのはな、西大陸に住んでる連中全般を言うんだよ」
「へ?」
「西大陸は獣人とかダークエルフ、リザードマンあたりが多いが、ただそれだけだ。普通の人間も住んでる。あとは信じてる神様も違うくらいかな?」

 俺達が過去、不倶戴天の敵と思っていた連中は、人間と少し種が違うだけの存在だ。
 戦争をしていた理由も互いに攻撃したり侵略したりを重ね続けた帰結であって、どっちに理があるという話でも無い。国同士の戦争と変わらなかった。戦いを重ねる内に魔人側の事情がわかり、魔人側のダルクレイ達も俺達の事情がわかってきた。

「だから、まあ、魔人が人を食うとかは嘘っぱちだよ。魔物とも関係ない、まったく別種だ」
「はぁ……」

 ジルはわかったような曖昧な顔で頷く。
 だがすぐにまた、わけがわからなくなったような疑問符だらけの表情になった。

「あの、ご主人様、聞いても良いですか……?」
「おう、なんでもいいぞ」
「ご主人様も奥様も……というか、この村って……何なんですか?」
「なるほど」

 本質的な問いかけだ。
 やはり知らなかったようだ。

「隣村は強い人がいるから喧嘩を売るなとか怒らせるなとかは聞いたんですけど、実際、その……なんでそんな腕っ節の強い人がわたしらみたいな農民をやってるのか、全然わからないです」
「一言で言うとな、俺達は……」

 レネスもダルクレイも、俺が何を言うかはわかりきっていたが、それでも静かに俺の言葉を待った。

「脱走兵だ」
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