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フタリの転機
さよならツワブキさん
しおりを挟む教室に帰ってきた智裕はまたもや屍になっていた。
(何でだー何でだー、拓海さーん、何であんな……てか俺も俺だよ!何であのまま引き下がってんだよぉぉぉぉぉぉ!)
「松田、お前俺の授業だからって百面相し過ぎなんだよ。」
バシ、と後頭部を教科書で叩かれた智裕は現実に戻ってきた。
「ほっしゃーん……ひどいよぉ…。」
「酷いのはお前の顔だボケ。とっとと顔洗ってこい。」
星野に首根っこを掴まれたら、そのまま廊下に追い出されてしまった。シーンとした廊下の静寂が今の智裕には怖かった。
言われるがまま、智裕は近くの男子トイレに入って手洗い場で顔を洗った。水を掌で拭って、目の前にあった鏡で自分の顔が目に入る。
(なんか坊主…久しぶりすぎて……やっぱ変、かな。拓海さん、坊主嫌いなのかも……俺、そういうのも全然知らないや。)
智裕は思いっきり頭を振り、頰をパンッと勢いよく叩いて気合を入れ直した。そして心の中で星野に謝る。
トイレを出た智裕は教室とは別の方向に足を向けた。
ガラッと無遠慮に保健室のドアを開くと、机で仕事をしている拓海がいた。拓海はビクッと肩をすくめて、驚いた表情で智裕を見た。
「えっと……松田、くん。」
「今、誰もいない、ですか?」
「いない、けど……。」
智裕は焦る気持ちを少し抑えるために呼吸をする。ドアと鍵を閉めて、ツカツカ歩くと、窓のカーテンも閉めた。
「松田くん?どうしたの?」
「拓海さん。」
「……っ!」
急な智裕の真剣な声と眼差しに、拓海は大きく脈を打った。
一歩、一歩、拓海に近づくと智裕。拓海は緊張して構えてしまう。
「ごめんなさい!」
智裕は慣れたように土下座をした。
「へ?」
「ホントーーーーにごめんなさい!」
「えっと……何か、したっけ?」
呆気にとられ、しかも訳のわからない謝罪を受けた拓海は、困ったように頭を抱える。
「俺この1週間、野球バカ状態になってて拓海さんのことすっかりさっぱり放置してしまって本当にごめん!」
「あ……。」
「この前のことですげー心配かけたのに……俺、自分のことばっかりで拓海さんの気持ちを考えなかったこと、今朝謝ろうと思ったんだけど、拓海さんに何でもないって言われて、俺もカッとなちゃって……本当にごめんなさい!」
「そんなの……あれは俺が…。」
「拓海さんが坊主嫌いかもとか全然考えないで頭剃っちまったしそれも謝んなきゃって思ってて。」
「もう大丈夫だから!」
拓海は少し大きい声を出して智裕を黙らせた。智裕はやっと顔をあげると、ほぼ同じ目線に膝から崩れて泣いている拓海がいた。
「俺…1日でこんなに泣いたこと……ないんだよ?」
「拓海さん…。」
「ごめんね……こんなにいっぱい謝らせて……ごめ…ん…ね……。」
「いや、これはマジで俺が悪いから。」
「俺……怖いんだ……すっごく…。」
「へ?」
「俺ね、世界で1番大好きで大切なのはまーちゃんなんだけど……まーちゃんじゃなきゃ駄目なのに……まーちゃんが、励ましてくれても……俺、ぜんぜん…だめで……。」
拓海はこの1週間のことを思い出していた。
***
智裕の動画流出騒動の3日後、嘘のようにそれはおさまった。
職員朝礼、野球部の顧問である森からの報告だった。
「2年5組の松田智裕の入部届けを受理しました。本人とも面談し、これ以上学校や生徒に迷惑をかけられないという松田の意思を尊重し、私と教頭の立会いの下、本日の部活動中にテレビ局の取材が入ります。」
智裕は生徒を守るために矢面に立ったという事実。その翌日から新聞やウェブニュースに乱立する智裕の記事がそれを物語った。
そして拓海は星野にまた呼び出されて、警告された。
「これから松田は学校の顔になるでしょう。松田と先生の交際に反対するつもりはありませんが、よく考えておいて下さい。」
それは拓海もわかっていたことだった。
見計らったかのように智裕には全く会えない日々が訪れた。会えないどころか姿も、声も、何もかもに触れられなかった。
そしてあのニュース番組の特集。画面の向こうの智裕は、拓海の知る智裕ではなかった。会わない間に坊主にしていて、女子アナに対してハキハキと対話し、礼儀正しい模範的な高校生だった。それが離れてしまった、と拓海は心臓を掴まれたような恐怖に襲われた。
笑顔でいても子供にはその負の感情が伝わった。
娘の茉莉は「はあ」と溜息を吐く拓海に、「よしよし」と頭を撫でたり、無邪気にタックルして、大好きな父親を慰めようとしていた。その度に拓海は心が痛くなる。
茉莉の言動で全く満たされない、自分の愚かさ。その罪悪感でいっぱいいっぱいだった。
***
「智裕、くん……遠くなっちゃった……から……。」
「拓海さん…。」
智裕は自然と、拓海を抱きしめた。拓海に告白されたあの夜のように。
「今、拓海さんの至近距離に…俺、いるけど。」
「うん……。」
「なんなら拓海さんと1つになってもいいよ。」
「駄目……ここ学校だよ。」
「坊主、嫌い?」
「…………嫌いじゃない。」
「その沈黙、ちょっと不安なんだけど。」
拓海は小さく笑った。智裕はギュッと近づいて、拓海のツムジにキスをする。オデコ、瞼、耳、コメカミ、それから唇へ。
「智裕くん、俺たち、終わりにしよう。」
唇へのキスは拓海の言葉に阻まれた。その声は震えているのに、智裕の大好きな拓海の美しい笑顔だった。
***
10分後、智裕は自分の席に戻っていた。真面目に教科書を開いて板書をノートに書き写して、至って普通の授業態度なのに、近くの席にいる裕也にとっては違和感だった。
_トモ、なんか変じゃね?
裕也は高梨にメッセージを送る。それに気がついた高梨はチラリと智裕を見るが、すぐに目線を戻した。そして書かれた返信。
_なんか、殺気立ってる感じする。
江川もチラチラと智裕を確認する。智裕の顔は、生気を失ったようなものだった。
_ツワブキちゃんとなんかあったんじゃね?
_それ一択でしょ
_これなんか二股彼女の時とのデジャヴ
_フラれたかもね、先生に。
_え、まじ?でもさ、ツワブキちゃんの方がトモのこと好きだったじゃん!
_ヘタレが人を振る度胸なんてないでしょ
_もしかしてさっき堪らず襲ったとか
_ありえるわー
画面で会話をしていたらあっという間に授業は終わってた。
「トモ、さっきつまみ出されて何処行ってたんだ?」
若干の緊張を隠しながら裕也は智裕に訊ねる。智裕は、いつものトボけた口調ではなくなっていた。
「別に、便所行ってただけだし。」
「へ、へー……にしては、長くね?」
「大竹にカンケーねーじゃん。」
(やばい、トモ普通じゃねーよ。絶対なんかあったコレ。)
それ以上裕也は声をかけられなくなった。
***
昼休みになると、智裕はどこかに行ってしまう。今までは裕也たちと一緒にご飯を食べてそのまま保健室に直行して帰ってきて揶揄われて、かなりおバカな過ごし方をしていた。
チャイムが鳴って、1組の清田が5組の教室にやってきた。
「あれ?松田は?」
智裕が復帰してから何日かすると、こうして清田が智裕を呼びに来る光景が毎日あった。2人で昼休みも返上して投球練習をするためだった。
「どっか行ったぞー。」
「珍しいな、先に行ったかー。サンキューな。」
廊下側にいた男子が答えると清田はどこかに行ってしまった。そのやりとりを廊下の窓を眺めながら一起は聞いていた。そして一起の視界には、グラウンドで肩の柔軟をする坊主頭の男子生徒がいた。
「…………一起?」
「あー……っと…これは今はやめておいた方がいいかもな。」
裕也が声をかけたが、宮西は一起の殺気に似た雰囲気を察してそれをやめさせた。
「なぁ…お前らはさ、松田が坊主にして復帰して良かったと思うか?」
一起の方から話を切り出した。少々驚き、怯え、裕也は明朗な言葉が出てこない。宮西は臆することなく淡々と応える。
「俺らは競技に打ち込んでる松田の方が見慣れてっからな。」
「そうか……俺は正直あんな目に遭ったことしか知らないからさ、本当にこれでいいのかわからない。」
「別に本人が良ければそれでいいんじゃね?江川は考えすぎ。」
「ちょ、椋丞⁉︎」
「あ?どういうことだ?」
「ほっしゃんも言ってたろ?松田の心配と同じくらい自分のことも考えろって。松田が助けろって言わないんだったら俺たちは何もしなくていいんだよ。」
「俺は松田が友達だから考えちまうんだよ…!」
エキサイトし始めた気配に危機感を抱いた裕也は一起と宮西の間に入る。
「ちょっと、一起、落ち着こうぜ、な?」
「考えちまうならあんなどヘタレの存在を抹消しろよ。」
「お前さ、今日の松田の様子が変だと思わねーのか?」
「あいつが変なのなんて今に始まったことじゃねーんだよ。」
「はぁ⁉︎なんでそんなことわかんだよ!」
「伊達に3歳からの付き合いじゃねーんだよ。お前らとは腐れ縁の年季がちげーんだよ。」
「椋丞も落ち着けよ!なぁ!あんなどヘタレ野郎で喧嘩すんなよ!」
裕也もヒートアップし始めた。宮西はテンションは変わらないが、裕也にはわかる、キレかかっていいることが。
(椋丞がキレたらマジでおっかねーから止めねーと!)
「たまにはほっといてやれよ、松田松田ウゼーんだよ。」
「どヘタレのクセに全部背負おうとしてっから助けたいって思ってるだけなんだよ!」
「友達っていうならあんなクソヘタレでも信じることはできねーのかよ、クソ真面目野郎が。」
「椋丞!一起!やめろよ!それ以上は本当にダメだってば!」
裕也は2人の腕を掴んでどうにか距離を保っていたが、一起に振り払われ、後ろに飛ばされた。
ガン、と鈍い音がして背中を壁に打ち付けた裕也はその場に倒れこんだ。
「ちょっと椋丞!江川くん!」
騒ぎに気付いて教室から出てきた里崎が宮西を後ろから抑える。一起も数人の男子に抑えられた。しかし宮西は里崎の制止を振りほどいて、一起に殴りかかろうとした。
しかし逆に一起が一瞬で腕を振りほどいて、宮西の左頬にストレートパンチを食らわせた。居合わせた女子はあまりの出来事に絶叫した。里崎は起き上がって宮西に駆け寄った。
「江川くん!もうやめなよ!あんな腰抜けバカは放っておいていいんだよ!」
「里崎も変だと思わなかったのか⁉︎」
「思ったわよ!椋丞だって思ってた!だけど私たちだって……タケちゃんも、カッちゃんも、優里も、私も、椋丞だって、あんなトモくんみたの初めてでどうすればいいのかわかんないのよ!」
里崎は思わず昔の呼び方で幼馴染たちの名前を並べた。その叫びで一起は落ち着いた。もう1発と用意していた右の拳を廊下のコンクリート壁にぶつけた。
「大竹⁉︎ねぇ、大竹!」
「高梨さん!あんまり動かさないで…私、石蕗先生呼んでくる!」
裕也はぶつけた衝撃で気絶していた。高梨は何度も呼びかけるが返事がない。この事後の惨事に、やっと担任の星野が駆けつけた。
「今度は何やったんだよお前ら…!大竹は⁉︎」
「返事がなくて…今、女子が石蕗先生呼びに行ってます。」
「おい、宮西は何してんだ。」
「別に、かすり傷っすよ。」
「バカ椋丞!あんたもホッペ腫れてるから保健室!」
星野はグルリと辺りを見渡して、状況を大体把握した。そして混乱を収束させる為に的確に指示を出した。
「高梨は石蕗先生来るまで大竹を見とけ。里崎、お前は保健室行って宮西の手当て頼む。他の奴は教室に戻ってろ!見せもんじゃねーんだからな!」
星野の滅多に出ない強い口調に怯えた野次馬達はそそくさと退散する。
「裕也先輩!」
とんでもない速さで裕也に駆けつけて来る生徒がいた。その後ろから小走りで白衣を着た拓海がやって来る。
「赤松くん⁉︎」
「高梨先輩、裕也先輩どうしたんですか⁉︎」
「気絶しちゃって…てか何で赤松くんは此処に…?」
「2ー5の先輩達が泣きながら『大竹くん』って言ってたのが聞こえてしまっていてもたっても…。」
「そうなんだ……。」
息を整えて膝をつくと、裕也の頭を固定した。
「高梨さん、少し支えていてください。」
「はい。」
高梨が手伝いながらもあっという間に処置が終わると、拓海は次の指示を出した。
「ごめん、保健室から担架を持ってきてください。それと力ある男子生徒は運ぶの手伝ってください。」
「それ俺がやります!」
直倫は当然のように立候補した。あまりの勢いに拓海と高梨は若干引きぎみながら頼むことにした。
「石蕗先生、申し訳ありませんが大竹はお願いします。また後ほどご連絡をお願いします。」
「はい、わかりました。」
星野は裕也のことは拓海に一任すると、一起の腕を掴んだ。
「江川、わかってるな。」
「……はい。」
抵抗することなく、一起は星野について行った。
***
ズバンッ
グラウンドの隅で18m離れた智裕と清田は、ひたすら投球練習をしていた。しかし部活のことを考えて清田はセーブさせる。
「はーい、10球。ちょっとダウンしよう。」
「ういー。」
マスクを外して清田は水を飲む。智裕も汗を拭い、左腕をクールダウンさせる柔軟運動をする。清田は水を飲みながら智裕に近寄る。
「松田、高校でスプリットは無理しすぎな気がするけど…。」
「でも投げられそうなんだよな…うん。」
「………松田、なんかあった?」
清田は球を受けながら智裕の様子がおかしいことに気がついていた。変化球はともかく、得意とするストレートのコントロールが明らかに乱れていたからだった。
「あれじゃ暴投してもおかしくねーぞ。」
「悪いな、もうちょい集中する。」
「……なんかあったら言えよ。一応俺はお前の女房役だし、お前になんかあったら俺まで監督にどやされちまうからな。」
清田は智裕の右肩をポン、と叩くとまた定位置に戻って行く。
「言えるわけねーじゃんかよ……。」
(ボール投げて練習している間は忘れられる。もっと、もっと、練習に打ち込んで、授業も集中すれば、考えなくて済む。もっと、もっと強くなる為にも、忘れないと、な。)
_拓海さん、さようなら。
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