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僕が澄と名付けた白い蛇の化身は、とても楽しげに彼の棲み家を案内してくれた。水の流れに晒されない、薄暗くて穏やかな寝床や、差し込む光が踊るせせらぎの庭を。
そこは確かに美しくはあったけれど、小魚と水草と光以外に動くもののない、静かな、完成されすぎた場所だった。こんな所に長く独りでいたら、僕なら言葉すら錆びついて忘れてしまいそうだ。
『ここが私の棲み家で、今日からの君の拠り所だよ』
そう言って澄は僕を背中から抱きしめた。水中の温度にはかなり慣れてきたけれど、彼の冷たさにはまだ少し、びっくりする。僕は彼の腕に手をやり、彼の気持ちに寄り添った。
『この辺り一帯は危険もないから、ジュンは好きなときに好きな場所へ行っていいよ。ただし、絶対に私のところへ戻ってくること』
「わかった」
『それと、ここから先へは、もう立ち入らないでほしい』
澄は真剣な表情で、僕にそう言った。
そこは、僕がついさっき降りてきた場所でもあった。どうしてここへ来てはいけないのかと僕が尋ねると、澄はつらそうに眉根を寄せた。
『ここは、私のとても大切な場所なんだ……。お願いだ、ジュン。ここへだけは、決して入らないでおくれ』
「……わか、った……」
……頷きながらも僕の胸には、ぽっかりと穴が開いたようだった。
あそこからは健一の声が聞こえたのだ。また僕を探して、僕に呼びかけてくれるかもしれないと淡い期待を抱いていた。ここへ来れば、会えるかもしれないと。澄はそんな僕の期待を見透かして、僕に立ち入らないようにと言ったのだろうか?
どうして?
ほんのひと欠片くらい、健一への想いを残しておくくらい、許してくれてもいいだろうにと、ほのかな反発心が胸を叩いた。
彼の腕に抱かれて眠りながら、僕は健一への未練を捨てられずにいた。どうせ側にいても、僕じゃ健一の横にはいられないのに。健一は僕のものにならないし、僕を愛してはくれないのに……。
心が……痛い……。
この傷が癒えることなんて、本当にあるんだろうか。
ふと目をやった僕の手の甲は白蝋のように真っ白で、そこにはもう生命は宿っていないように見えた。じっと観察すると、肌の肌理の代わりに薄い薄い鱗模様がある。
知らぬ間に、この身体は作り変えられていっているみたいだ。彼と、澄と同じモノに。
僕のすべてが変わったら、この想いも断ち切れるの……?
「健一……」
それからしばらくは、あの場所の上の方は騒がしかった。警察や消防が来て、湖の底をさらっていたから。僕は澄との約束を守って、少し離れた位置からそれを見ていた。
湖と物理的に繋がっていないというのは本当で、向こうがどんなに波乱れようともこちら側は静寂を保ったままだ。僕は澄に誘われて彼と過ごす以外の時間のすべてを、澄の大切な禁足の地を眺めることに費やした。
それが健一への思慕なのか、それとも現世への執着なのか、だんだんと曖昧になっていく。自分の気持ちがわからない。それでも僕は、あちら側を覗くことを辞められずにいた。
『ジュン……愛しているよ、ジュン』
「澄……僕も、愛してる……」
触れてくる指先は優しく僕を絡め取る。
踊る光とそよぐ水流、わずかに巻き上がる白砂の煌めき。美しい水底で抱きすくめられてその愛に溺れながら僕は、水面へと逃げていく泡を目で追いかけてしまう。
そんな僕を見て澄が悲しそうな目をするのが、いたたまれなかった。
澄といるのは、楽しい。美しい彼の顔も声も、僕を幸せにしてくれるし、彼と話すと心が弾む。僕たちの考え方は似ているようで、打てば響くような答えが返ってくるのは実に気持ちのいいことだった。
僕は彼に惹かれ始めていた。
同時になんの取り柄もない僕のような人間が、彼に報いることなどあるはずもないと気分が沈んだ。
彼が僕に微笑みかけてくれるたび、愛の言葉を囁くたび、僕の内側には罪悪感が澱のように溜まっていく。
――本当に、僕でいいの?
優しすぎる澄との穏やかな日々はゆっくりと過ぎていった。僕が膝を抱えてあの場所をじっと眺めていることに、澄は何も言わずにいてくれる。
いつかはきっと僕も、忘れられる。
きっと。でも、今は……。
僕がいつものように、あの場所の近くに腰を下ろしていたときのことだった。流れにそよぐ水草を、ぼんやりと見やっていた僕は、砂に埋もれている真っ白な物に気がついた。
あんな物は昨日はなかった。
その前の日も、その前の日も。
流れにさらわれて顔を覗かせたのだろう。石か、それとも……? それなりの大きさに見える丸いそれ。あれはきっと澄の大切な物に違いない。このままでは砂がすべて流れて露わになってしまうだろう。
僕は自分では手を出さず、澄を呼びに行くことにした。
だというのに、そのとき、僕の耳にあの懐かしい声が、僕の名を呼ぶ声がしたのだ。
「純! 本当は、ここにいるんだろう……? 誰が何と言おうと、純、俺は……、俺は!」
「健一……」
「純!?」
思わず足が動いてた。
健一の名前を呼びながら僕は、入ってはいけないあの場所の砂を蹴散らし、光差す湖を見上げた。窓ガラス越しに見るように、健一の顔が少し遠く見えた。
「健……!」
カクンと、つま先に何かが引っかかった。僕はバランスを崩して砂を巻き上げながら、水の中を無様に回転した。
「純!」
『ジュン!』
視界の端に、澄の真白い蛇の身体が見えた。
そして、砂地に埋まっていた物の正体も。
澄が隠していた物は、人間の、しゃれこうべだった。
僕は、それを拾ってまじまじと見つめた。穴の空いた眼窩、並んだ歯。水に漂白された人の骨はまるで作り物のようで、現実味が感じられない。それでも、その歪んだ奇妙な整わなさが、贋物でないことの証明であると思えた。
『ジュン……聞いてくれ、ジュン。その、骨は……』
「本物、でしょう?」
僕がそう尋ねると、澄はガクリと首を垂れ、肩を落とした。それが答えだった。
「純、こっちに……!」
健一が僕へと手を伸ばす。水の面を突き抜けて、健一の力強い腕がこちら側へともたらされる。
……ああ、僕がもう帰れないというのは、嘘だったんだ。
本当は心のどこかでずっと、疑っていた。それでも問いただすことができなかった。答えを出すのが、怖かったんだ。
でも、今、目隠しは解けてしまった……。
そこは確かに美しくはあったけれど、小魚と水草と光以外に動くもののない、静かな、完成されすぎた場所だった。こんな所に長く独りでいたら、僕なら言葉すら錆びついて忘れてしまいそうだ。
『ここが私の棲み家で、今日からの君の拠り所だよ』
そう言って澄は僕を背中から抱きしめた。水中の温度にはかなり慣れてきたけれど、彼の冷たさにはまだ少し、びっくりする。僕は彼の腕に手をやり、彼の気持ちに寄り添った。
『この辺り一帯は危険もないから、ジュンは好きなときに好きな場所へ行っていいよ。ただし、絶対に私のところへ戻ってくること』
「わかった」
『それと、ここから先へは、もう立ち入らないでほしい』
澄は真剣な表情で、僕にそう言った。
そこは、僕がついさっき降りてきた場所でもあった。どうしてここへ来てはいけないのかと僕が尋ねると、澄はつらそうに眉根を寄せた。
『ここは、私のとても大切な場所なんだ……。お願いだ、ジュン。ここへだけは、決して入らないでおくれ』
「……わか、った……」
……頷きながらも僕の胸には、ぽっかりと穴が開いたようだった。
あそこからは健一の声が聞こえたのだ。また僕を探して、僕に呼びかけてくれるかもしれないと淡い期待を抱いていた。ここへ来れば、会えるかもしれないと。澄はそんな僕の期待を見透かして、僕に立ち入らないようにと言ったのだろうか?
どうして?
ほんのひと欠片くらい、健一への想いを残しておくくらい、許してくれてもいいだろうにと、ほのかな反発心が胸を叩いた。
彼の腕に抱かれて眠りながら、僕は健一への未練を捨てられずにいた。どうせ側にいても、僕じゃ健一の横にはいられないのに。健一は僕のものにならないし、僕を愛してはくれないのに……。
心が……痛い……。
この傷が癒えることなんて、本当にあるんだろうか。
ふと目をやった僕の手の甲は白蝋のように真っ白で、そこにはもう生命は宿っていないように見えた。じっと観察すると、肌の肌理の代わりに薄い薄い鱗模様がある。
知らぬ間に、この身体は作り変えられていっているみたいだ。彼と、澄と同じモノに。
僕のすべてが変わったら、この想いも断ち切れるの……?
「健一……」
それからしばらくは、あの場所の上の方は騒がしかった。警察や消防が来て、湖の底をさらっていたから。僕は澄との約束を守って、少し離れた位置からそれを見ていた。
湖と物理的に繋がっていないというのは本当で、向こうがどんなに波乱れようともこちら側は静寂を保ったままだ。僕は澄に誘われて彼と過ごす以外の時間のすべてを、澄の大切な禁足の地を眺めることに費やした。
それが健一への思慕なのか、それとも現世への執着なのか、だんだんと曖昧になっていく。自分の気持ちがわからない。それでも僕は、あちら側を覗くことを辞められずにいた。
『ジュン……愛しているよ、ジュン』
「澄……僕も、愛してる……」
触れてくる指先は優しく僕を絡め取る。
踊る光とそよぐ水流、わずかに巻き上がる白砂の煌めき。美しい水底で抱きすくめられてその愛に溺れながら僕は、水面へと逃げていく泡を目で追いかけてしまう。
そんな僕を見て澄が悲しそうな目をするのが、いたたまれなかった。
澄といるのは、楽しい。美しい彼の顔も声も、僕を幸せにしてくれるし、彼と話すと心が弾む。僕たちの考え方は似ているようで、打てば響くような答えが返ってくるのは実に気持ちのいいことだった。
僕は彼に惹かれ始めていた。
同時になんの取り柄もない僕のような人間が、彼に報いることなどあるはずもないと気分が沈んだ。
彼が僕に微笑みかけてくれるたび、愛の言葉を囁くたび、僕の内側には罪悪感が澱のように溜まっていく。
――本当に、僕でいいの?
優しすぎる澄との穏やかな日々はゆっくりと過ぎていった。僕が膝を抱えてあの場所をじっと眺めていることに、澄は何も言わずにいてくれる。
いつかはきっと僕も、忘れられる。
きっと。でも、今は……。
僕がいつものように、あの場所の近くに腰を下ろしていたときのことだった。流れにそよぐ水草を、ぼんやりと見やっていた僕は、砂に埋もれている真っ白な物に気がついた。
あんな物は昨日はなかった。
その前の日も、その前の日も。
流れにさらわれて顔を覗かせたのだろう。石か、それとも……? それなりの大きさに見える丸いそれ。あれはきっと澄の大切な物に違いない。このままでは砂がすべて流れて露わになってしまうだろう。
僕は自分では手を出さず、澄を呼びに行くことにした。
だというのに、そのとき、僕の耳にあの懐かしい声が、僕の名を呼ぶ声がしたのだ。
「純! 本当は、ここにいるんだろう……? 誰が何と言おうと、純、俺は……、俺は!」
「健一……」
「純!?」
思わず足が動いてた。
健一の名前を呼びながら僕は、入ってはいけないあの場所の砂を蹴散らし、光差す湖を見上げた。窓ガラス越しに見るように、健一の顔が少し遠く見えた。
「健……!」
カクンと、つま先に何かが引っかかった。僕はバランスを崩して砂を巻き上げながら、水の中を無様に回転した。
「純!」
『ジュン!』
視界の端に、澄の真白い蛇の身体が見えた。
そして、砂地に埋まっていた物の正体も。
澄が隠していた物は、人間の、しゃれこうべだった。
僕は、それを拾ってまじまじと見つめた。穴の空いた眼窩、並んだ歯。水に漂白された人の骨はまるで作り物のようで、現実味が感じられない。それでも、その歪んだ奇妙な整わなさが、贋物でないことの証明であると思えた。
『ジュン……聞いてくれ、ジュン。その、骨は……』
「本物、でしょう?」
僕がそう尋ねると、澄はガクリと首を垂れ、肩を落とした。それが答えだった。
「純、こっちに……!」
健一が僕へと手を伸ばす。水の面を突き抜けて、健一の力強い腕がこちら側へともたらされる。
……ああ、僕がもう帰れないというのは、嘘だったんだ。
本当は心のどこかでずっと、疑っていた。それでも問いただすことができなかった。答えを出すのが、怖かったんだ。
でも、今、目隠しは解けてしまった……。
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