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――The phantom of the sweet memories.
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爽やかな目覚めだった。幼い頃によく遊んだ、滝壺を思い出す――高所から飛び込んだあと、キラキラした水面へ向かって水を蹴ったときの何とも言えない気持ちの良い浮遊感に似ていた。
使用人のいない屋敷の朝は薄暗い。誰も窓を開けてくれないからな。鳥の鳴き声に起こされるなんて久々だった。
ベッドの天蓋から下がる布を払いのけ、窓辺へと歩み寄る。ガラスの入っていない古い窓はギシギシと辛気くさい音を立てて抵抗したが、開ければ外は初夏の眩しさに満ちあふれていた。
「……ったく、オレには似合わんぜ」
首を振りながら窓を閉める。振り返れば、ベッドサイドの小卓に銀杯はなく、ようやく捕まえたと思った少年は幻だった。夢だと言われれば信じてしまいそうなほど、ここに他人の痕跡はない。
それでも。
それでも確かに、昨晩、ハリーをここへ連れて来たことを覚えている。
(油断したぜ……魔道具一式外したところを狙われるとは。ハリーがオレに危害を加えるはずがないのはわかってたから外したんだが、まさか眠らせられるたぁな……)
黒術は物事を鎮静、停止させるものであり、特に精神に作用する魔術の一種だ。ハリーはこの分野の術をひと通り使える。オレがぐっすり眠ってしまったのも、睡眠の術をかけられたせいだろう。
さて、あいつはいったい何が気に食わなかったのだろうか。ハリーはオレを嫌いだ何だと邪険にするが、その実、心底までは嫌っていない。そんなの目を見れば分かることだ。
興味のない振りをしていても、話好きのハリーはオレが一方的にまくし立てる長広舌に耳を傾けてくれる。そして時々チクッと刺すようなことを言ってくるわけだ。そのときのキラキラしたイタズラっぽい瞳はオレとの会話を楽しんでいる証拠だ。
それに、世話やきのハリーが発揮する親切心の対象にはちゃんとオレも含まれているんだ。レイヒ師匠との実験で怪我をしたときは、ハリーがすっ飛んできて手当てをしてくれた。生意気なことを言うがオレに対する敬意ってやつを忘れてはいないんだ。
まぁ……実際には逃げられちまったわけだが。
そもそもこれはハリーが始めたゲームだってのに、だ。
キスしてきて、自分の値段を吊り上げた。オレは対価を約束し、ハリーも了承の印に積極的にキスしてきたんじゃないか。寸前でお預けを食わされたオレは忠犬よろしく「待て」をし、まだ受け取ってもいない快楽のためにさらに追加で報酬を渡しもした。文句を言われる理由がない。
押し倒したり、口でさせたのがいけなかったのか? 焦らしてくれただけあって、あれはさすがのテクニックだった。ったく、どこで仕込まれたんだか。オレが色々教えてやりたかったのに、もったいねぇ。十五年は長すぎた……。
それともあれか、浴室に乱入して無理やり押さえつけてイかせたのが悪いのか? だが、ハリーだって気持ち好さそうにしてたじゃねぇか。いきなり二本も呑み込んで、腰を揺らして、涎と涙を流してよがってたくせに。
オレに主導権を握られたのがそんなに悔しかったのか、その日いちにちハリーはオレから距離を取って、自分から近づいてこようとはしなかった。そういう無言の抵抗も、恥ずかしさから来ていると思えば腹も立たない。オレは大人の余裕ってやつで、素知らぬ振りをしてやった。
ところで、ハリーの瞳はいつから灰色にけぶっていたんだろうな。オレの知るハリーの瞳は確かに真っ青なサファイア・ブルーだった。再会してようやく間近でその瞳を覗き込んだとき、そこにあったのは不思議に透き通ったブルーグレイだった。
夜、聖火国から届いた高級ミードを手土産にハリーの部屋を訪ねていくと、不承不承ながらに招き入れてくれた。ハリーは意外と酒もよく嗜むという噂は本当らしい。他にも、珍しい物や高級品を好むとか。そういう俗物なとこも嫌いじゃない。
「……なんか変なモノ入ってないでしょうね?」
「馬っ鹿、んな勿体ないことするか。入れてなくたってどうせすぐ潰れるだろ、ハリーは」
「そんなことあるわけないでしょ!」
と言いつつ三杯目に口を付ける前にダウンしてしまったハリーは、ベッドの端に腰かけているオレの膝にうつ伏せになって寝てしまった。さらさらと流れる黒髪に指を浸して、そのしなやかな感触を楽しむ。いつまでもこうしていたって仕方がないので、ぐっすり眠っているハリーをきちんと横たえ、服を寛げてやった。
何も寝込みを襲おうってわけじゃない。ただちょっと、イタズラしようってだけだ。昨夜、あれだけ期待させておいて逃げやがったんだ、これからじっくり準備して、目を覚ましたところで抱いてやる。お前はいったいどんな顔をするんだろうな、ハリー……好き勝手された怒りか、それとも羞恥と困惑か。もしかしたら手間が省けたと喜んでオレを迎えてくれるかもしれない。
手早く処置しながらも、オレはハリーのなめらかな肌に唇を滑らせた。いつもはひんやりしている頬や肩も、今は酒精のせいでうっすら上気している。薄い胸板、割れる気配もない腹筋。年齢を感じさせないハリのある皮膚。この温もりと心臓の鼓動がなければ、十五年前に時を止めたまま眠り続ける人形なのだと納得したろう。
どこまでもしなやかな、未完成の美……。オレは芸術品を愛でる好事家のように情熱的にハリーを愛撫した。
「んっ……はあっ……」
「ハリー、起きたのか?」
「ダントン……さま……」
オレの頬にハリーの手が伸びてくる。あれだけ過ごした日々の中ではついぞ見られなかった、幸せそうな微笑みを浮かべて。
「ハリー……ハリー!」
他の誰と肌を合わせても得られなかった多幸感が湧き上がってきて、やはりオレはこいつを愛しているんだろうと、一部だけ冷静な頭が肯定する。実際にはそんな落ち着いたもんじゃない、オレはハリーに覆い被さってキスの雨を降らせていた。
「オレはやっぱお前じゃないとダメみたいだ……愛してる、ハリー」
「僕も……。あのときは外だったし、初めてだったし、びっくりしちゃって……でも、ダントン様に選んでもらえたみたいで嬉しかった……」
オレの首に腕を回し、笑みを深くしてハリーはそう言った。
そうか……そんなことを思っていたのか。無理やり引き離され、別れも言えないまま国外に追いやられた。オレのせいでハリーがどんな扱いを受けているかも分からないまま、一通の手紙すら返ってこなかった日々。若かったオレがそのことにどれだけ傷ついたことか。だが、それももう終わりだ。終わりになるんだ。
「ハリー、十五年前の続きをしよう。ここから新しく始めるんだ」
「はい、ダントン様」
煌くサファイア・ブルーにキスで蓋をして、オレはゆっくりとハリーに触れていった。ゆるゆると触れるだけで恥ずかしげに甘い吐息を漏らす様はまるで、初心な少年のようだ。だというのに、キスに応える舌の動きや、男を受け入れるのに易い肢体に、昂ぶりつつも醜い嫉妬がこみ上げる。顔も知らぬ男に怒りを燃やしても詮無いことだと分かっているのに……。無様にがっついてしまって、優しくなんてしてやれなかったというのに、それでもハリーは嬉しそうに啼くのだ。甘い声でオレの名を呼び、口づけを求め、宝玉のような瞳から透明な雫を滴らせて啼くのだった。
お前に触れたすべての男が憎い、と耳許に吹き込めば、「貴方だけですよ」と囁きが返ってきた。そんな嘘を信じられるほど純な男じゃあない。ただ、枕を交わす上での睦言に、異を唱えるほど野暮でもなし。棘のある言葉は飲み込んで、ただただ細い体を抱きしめた。
使用人のいない屋敷の朝は薄暗い。誰も窓を開けてくれないからな。鳥の鳴き声に起こされるなんて久々だった。
ベッドの天蓋から下がる布を払いのけ、窓辺へと歩み寄る。ガラスの入っていない古い窓はギシギシと辛気くさい音を立てて抵抗したが、開ければ外は初夏の眩しさに満ちあふれていた。
「……ったく、オレには似合わんぜ」
首を振りながら窓を閉める。振り返れば、ベッドサイドの小卓に銀杯はなく、ようやく捕まえたと思った少年は幻だった。夢だと言われれば信じてしまいそうなほど、ここに他人の痕跡はない。
それでも。
それでも確かに、昨晩、ハリーをここへ連れて来たことを覚えている。
(油断したぜ……魔道具一式外したところを狙われるとは。ハリーがオレに危害を加えるはずがないのはわかってたから外したんだが、まさか眠らせられるたぁな……)
黒術は物事を鎮静、停止させるものであり、特に精神に作用する魔術の一種だ。ハリーはこの分野の術をひと通り使える。オレがぐっすり眠ってしまったのも、睡眠の術をかけられたせいだろう。
さて、あいつはいったい何が気に食わなかったのだろうか。ハリーはオレを嫌いだ何だと邪険にするが、その実、心底までは嫌っていない。そんなの目を見れば分かることだ。
興味のない振りをしていても、話好きのハリーはオレが一方的にまくし立てる長広舌に耳を傾けてくれる。そして時々チクッと刺すようなことを言ってくるわけだ。そのときのキラキラしたイタズラっぽい瞳はオレとの会話を楽しんでいる証拠だ。
それに、世話やきのハリーが発揮する親切心の対象にはちゃんとオレも含まれているんだ。レイヒ師匠との実験で怪我をしたときは、ハリーがすっ飛んできて手当てをしてくれた。生意気なことを言うがオレに対する敬意ってやつを忘れてはいないんだ。
まぁ……実際には逃げられちまったわけだが。
そもそもこれはハリーが始めたゲームだってのに、だ。
キスしてきて、自分の値段を吊り上げた。オレは対価を約束し、ハリーも了承の印に積極的にキスしてきたんじゃないか。寸前でお預けを食わされたオレは忠犬よろしく「待て」をし、まだ受け取ってもいない快楽のためにさらに追加で報酬を渡しもした。文句を言われる理由がない。
押し倒したり、口でさせたのがいけなかったのか? 焦らしてくれただけあって、あれはさすがのテクニックだった。ったく、どこで仕込まれたんだか。オレが色々教えてやりたかったのに、もったいねぇ。十五年は長すぎた……。
それともあれか、浴室に乱入して無理やり押さえつけてイかせたのが悪いのか? だが、ハリーだって気持ち好さそうにしてたじゃねぇか。いきなり二本も呑み込んで、腰を揺らして、涎と涙を流してよがってたくせに。
オレに主導権を握られたのがそんなに悔しかったのか、その日いちにちハリーはオレから距離を取って、自分から近づいてこようとはしなかった。そういう無言の抵抗も、恥ずかしさから来ていると思えば腹も立たない。オレは大人の余裕ってやつで、素知らぬ振りをしてやった。
ところで、ハリーの瞳はいつから灰色にけぶっていたんだろうな。オレの知るハリーの瞳は確かに真っ青なサファイア・ブルーだった。再会してようやく間近でその瞳を覗き込んだとき、そこにあったのは不思議に透き通ったブルーグレイだった。
夜、聖火国から届いた高級ミードを手土産にハリーの部屋を訪ねていくと、不承不承ながらに招き入れてくれた。ハリーは意外と酒もよく嗜むという噂は本当らしい。他にも、珍しい物や高級品を好むとか。そういう俗物なとこも嫌いじゃない。
「……なんか変なモノ入ってないでしょうね?」
「馬っ鹿、んな勿体ないことするか。入れてなくたってどうせすぐ潰れるだろ、ハリーは」
「そんなことあるわけないでしょ!」
と言いつつ三杯目に口を付ける前にダウンしてしまったハリーは、ベッドの端に腰かけているオレの膝にうつ伏せになって寝てしまった。さらさらと流れる黒髪に指を浸して、そのしなやかな感触を楽しむ。いつまでもこうしていたって仕方がないので、ぐっすり眠っているハリーをきちんと横たえ、服を寛げてやった。
何も寝込みを襲おうってわけじゃない。ただちょっと、イタズラしようってだけだ。昨夜、あれだけ期待させておいて逃げやがったんだ、これからじっくり準備して、目を覚ましたところで抱いてやる。お前はいったいどんな顔をするんだろうな、ハリー……好き勝手された怒りか、それとも羞恥と困惑か。もしかしたら手間が省けたと喜んでオレを迎えてくれるかもしれない。
手早く処置しながらも、オレはハリーのなめらかな肌に唇を滑らせた。いつもはひんやりしている頬や肩も、今は酒精のせいでうっすら上気している。薄い胸板、割れる気配もない腹筋。年齢を感じさせないハリのある皮膚。この温もりと心臓の鼓動がなければ、十五年前に時を止めたまま眠り続ける人形なのだと納得したろう。
どこまでもしなやかな、未完成の美……。オレは芸術品を愛でる好事家のように情熱的にハリーを愛撫した。
「んっ……はあっ……」
「ハリー、起きたのか?」
「ダントン……さま……」
オレの頬にハリーの手が伸びてくる。あれだけ過ごした日々の中ではついぞ見られなかった、幸せそうな微笑みを浮かべて。
「ハリー……ハリー!」
他の誰と肌を合わせても得られなかった多幸感が湧き上がってきて、やはりオレはこいつを愛しているんだろうと、一部だけ冷静な頭が肯定する。実際にはそんな落ち着いたもんじゃない、オレはハリーに覆い被さってキスの雨を降らせていた。
「オレはやっぱお前じゃないとダメみたいだ……愛してる、ハリー」
「僕も……。あのときは外だったし、初めてだったし、びっくりしちゃって……でも、ダントン様に選んでもらえたみたいで嬉しかった……」
オレの首に腕を回し、笑みを深くしてハリーはそう言った。
そうか……そんなことを思っていたのか。無理やり引き離され、別れも言えないまま国外に追いやられた。オレのせいでハリーがどんな扱いを受けているかも分からないまま、一通の手紙すら返ってこなかった日々。若かったオレがそのことにどれだけ傷ついたことか。だが、それももう終わりだ。終わりになるんだ。
「ハリー、十五年前の続きをしよう。ここから新しく始めるんだ」
「はい、ダントン様」
煌くサファイア・ブルーにキスで蓋をして、オレはゆっくりとハリーに触れていった。ゆるゆると触れるだけで恥ずかしげに甘い吐息を漏らす様はまるで、初心な少年のようだ。だというのに、キスに応える舌の動きや、男を受け入れるのに易い肢体に、昂ぶりつつも醜い嫉妬がこみ上げる。顔も知らぬ男に怒りを燃やしても詮無いことだと分かっているのに……。無様にがっついてしまって、優しくなんてしてやれなかったというのに、それでもハリーは嬉しそうに啼くのだ。甘い声でオレの名を呼び、口づけを求め、宝玉のような瞳から透明な雫を滴らせて啼くのだった。
お前に触れたすべての男が憎い、と耳許に吹き込めば、「貴方だけですよ」と囁きが返ってきた。そんな嘘を信じられるほど純な男じゃあない。ただ、枕を交わす上での睦言に、異を唱えるほど野暮でもなし。棘のある言葉は飲み込んで、ただただ細い体を抱きしめた。
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