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He said to me that, "go on."

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 ダントン様は台所でお茶を全部飲んだ。ポットの中身は二杯とちょっと。僕も結局、自分のカップに入っていた分は飲み干した。もしもこれがビクビクしてる僕の姿を見たいだけとかだったら、殴ってやる!

 媚薬入りだなんてそんなベタなことしないとは思うけど……まさか急におしっこしたくなるような薬だったり? 僕って実はそんなに黒術得意じゃないから、魔術使っても薬の効果が抑えられないかもしれないし、お手洗いだけはしっかり行っておこうっと。

 案内された執務室は二階にあった。風通しのよい陽のあたる一室で、狭くもなく広すぎもしない快適な部屋だった。アウグスト様も使っている、ノレッジ家御用達の家具工房から出ている机が置かれている。感じの良い敷物、座り心地の良さそうな椅子――ここに書棚があればお城にある執務室と変わりないくらい。簡素なのに豪華という言葉がピッタリだ。

 さて、僕の仕事ってなんだろう。と思えば、机の上には羊皮紙が山になって置かれている。まさか……?

 いやいや、僕に出来る仕事なんてせいぜいがまとめられた文書の枚数の確認や、所定の場所に署名がされているかの確認くらいなものでしょ? だって僕、部外者なんだもん! 重要機密書類になんて触れるわけがない。だいいち、書類整理のために手伝いが欲しいっていうの、建前じゃなかったの?

「ダントン様、この紙束は何ですか?」
「おお、それが今回、ハリーに頼みたい仕事だぜ。綴じられる前の草案なんだがな、ぶちまけちまった馬鹿がいてなぁ。書いた本人は手一杯なんで、誰かに精読させて順番に並べなおさなきゃいけなかったんだが……この量だろ? いやぁ、いいときに来てもらったぜ~」
「うそぉ……」

 何千枚あるの、これ……。というか、今、草案って言った? 

「何の草案なんです? 僕に何をさせようっていうんです?」
「ん? ああ。二の姫の婚約が本決まりになりそうだからな。ガイエン国に潜ませていた密偵の報告書だよ」
「………………」
「ノレッジは一枚岩じゃねぇ。利益を上げるためならどこにだって付く。だが……オレはアウグストの味方だぜ? 今は、な」

 まずい。
 これ、売られた・ ・ ・ ・後だ、僕。
 僕を差し出す代わりに情報提供と今後の協力体制の約束を取り付けられてるや。

 とはいえ、「絶対に逆らうな」とは命令されてないから、どうしても無理だったら蹴飛ばして逃げろって意味だと思うんだけど……きっとそういう意味だよね? ね? 

「どうすればいいのか、教えてください……」

 決意を込めて口に出した言葉は囁き声にしかならなかった。目の前の男は好色そうな笑みを浮かべて近づいてくる。嬉しそうに僕の名を呼び、顔に触れようと伸ばされる意外なほど無骨な手を僕は叩き落した。

「ただし、僕に与えられた仕事は文官としてのお手伝いだけですから! それ以外のことを求められても、応えられないし、そんなつもりないですから!」
「……なんだよ、つれねぇの。身内黙らせてコレかっぱらってくるのだって大変だったんだぜぇ? それもこれも、オマエのことを愛してるからじゃねぇか」
「またそんなことばっかり言って……! アンタの『愛してる~』は軽いんだってば!」

 男に愛を囁かれても、全然嬉しくない!

「オマエだって……」
「なに?」

 ダントン様は何かを言いかけながらも手のひらで蓋をして黙った。聞き咎めた僕の顔色を伺うように、一瞬そのタレ目を泳がせてから口を開く。

「オマエだって、金額次第では誰にでも抱かれるって……。違うのか? もし金に困ってのことなんだったら、そんなのいくらだって貸してやるぞ、ハリー。ハリ……」
「もう黙って!」

 僕はダントン様の服の胸元を引っ掴んで背伸びをすると、その唇を塞いだ。……あんな冗談を真に受けるだなんて、馬鹿じゃないのかな、このひと! でも、そう思わせておく方が楽かもしれない。一瞬だけの啄むようなバードキス。僕はそっと手を離した。

「僕ってお高いんだから。やめときなよ、アウグスト様くらいにしか払えないよ」
「……言い値で買ってやる」
「えっ、ちょっと……!」

 言うが早いかキスが降ってくる。舌が差し込まれて、ダントン様の噛んでいたソーマの葉の、ねっとりした甘さが絡みついてくる。熱い舌はぬろぬろと僕の口の中を犯し、僕の舌を逃がすまいと捕まえてきて、きつく吸われた。

 角度を変えて何度も、何度も。貪るように激しく、焦れったくなるほど優しく。

 キスは初めてじゃなかった。男に襲われて強引にされそうになったときや、任務で男の気を引かなきゃならなかったときに何度か経験したことがある。気持ち悪くて、吐きそうで、キスなんてちっとも好きじゃなかったのに……どうしてか、このひとのキスだけは心地好くて。いつしか僕も積極的になってしまっていた。

 舌を這わせて甘い唾液を絡めていく。
 体が芯の方からじんわりと熱を持ってきて、足元が浮つく。
 僕の頭を包むように支えてくれているダントン様の右手に甘えていた。

 ふっと、気がつけば必死になって舌を動かしているのは僕だけだった。急に恥ずかしくなって離れようとするのを、ダントン様は腕を掴んで逃がしてくれなかった。

「続けろ」
「でも……」
「いいから。もっとキスしてくれ」
「うわっ」

 ダントン様は僕を腰から抱え上げて応接用の寝椅子に下ろした。かと思うと押し倒される。着ていたシャツが寛げられて、ふわふわした気分のまま、僕はしばらくダントン様の熱い手のひらに撫で回されるがままになっていた。でもそれが下衣の方の、敏感な部分に触れると一気に酔いが醒めた。

「あ……やだっ……!」
「ハリー」
「だめですっ!」

 ベルトを引き抜かれまいと頑張っていると、諦めたのかダントン様は僕の上からどいてくれた。溜め息をついて前髪を掻き上げている様は、苛ついているようではなかった。……どうしてここで僕がホッとしなくちゃならないのか、それが一番不思議だ!

「ハリー。これを……」
「え?」

 渡されたのはダントン様の首から下がっていた細い金の鎖だった。それには飾りとして一本の金の棒がくっついていて、取り外しができるようになっている。

「そりゃあ手付けだ。悪ぃが今は持ち合わせがないんでな、それしかねぇや。続きがしたくなったら、オレのところに来い。そうしたらそんときゃ、死ぬ気で財を掻き集めてやる」
「………………」
「じゃあ、オレはメシまでゆっくりさせてもらうぜ。仕事しろよ!」

 僕の手の中にあるもの。それは、商人が大きな金額の取引を扱うときに使う、大金貨よりも上の通貨だった。

「どうしよう……」

 今更ながら、僕はどうやら、とんでもないことをしでかしてしまったみたいだ。
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