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第10章「水の調べのエルガンヴァーナ」

記憶の森で

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 ――そこまでにしておけ。

 声の主はサレプスに間違いないが、いつもの低い調べとはどこか違う。やや悲痛が感じ取れる。後ろ姿しか見えず、しゃがみ込み、俯いている。
 少女はぴくりと肩を動かすと、何事もなかったかのようにセンテバから離れ、サレプスに歩み寄った。
 青白い腕が労るように少女の頭を撫でる。虚ろな瞳に妖しげな光が射し、細長く瞳孔が詰まった。魔王と同じ眼差し――少女は僅かに口を開き、彼の耳元で何かを囁いた。

 ――だめだ……。

 センテバの叫びは空しく、くうに消える。
 少女が手袋を外すと、指先に尖った爪が生えているのが見えた。そのまま彼の両頬に触れ、確かめるように指を這わせて首筋をなぞる。

 ――イグエンさん。

 確かにそう聞こえた。魔王に向かって、そう呼んだ。内にいる彼に向かってではなく。
 指先から触れた部分にミミズ腫れのようなものが浮き出てきて、みるみる首を一周した。拍動に合わせて盛り上がったかと思うと、肩甲骨が内側から黒く浮き上がった。皮膚を突き破り、体液を纏って黒翼が生えた。

 ――よく、やった……。

 呼吸は荒い。消耗が激しく、前のめりになって、肩を大きく上げ下げしている。半裸のまま、左腕を伸ばし、虚空を掴もうとした。

 ――いけないわ。

 魔王が掴んだのは、少女が遮った拳だった。少女はゆっくりと腕を下ろすと、主の顔を見つめた。

 ――まだ封印は残っている。お願い、力を使わないで。あとは、私がやるから。

 背中に手を伸ばすと、剣を引き抜いた。
 神の剣。否、赤黒い無数の触手が剣身に纏わり付き、脈打っている。瞳と同じ禍々しい色を放つ剣は生きているようだ。
 少女は過去にいる私に向かって、ずっと視線を向けている。眼下に仰け反るセンテバを見下ろすと、薄ら笑いを浮かべ――

「違う……私じゃない」

 もう見たくない。未知は目を伏せ、両手で顔を覆った。

「灰色の少女はあなたなのです」

 違う。センテバもヴァーヌも人違いをしている。そもそも、あの少年は本当にセンテバだったのだろうか。

「どこに証拠が……こんな映像を見せられただけじゃ信じられない」
「あなたの未来は明日起こるかもしれないし、ずっと先かもしれません。まだ起こると決まったわけではありません」

 指の隙間から光が入り込む。部屋は再び白み、光が戻っていた。

「回避する方法は、一刻も早く残りの聖獣の加護を受けることです。四聖獣の加護を受けたあなたなら、封印を打ち破れます。ここに魔王サレプスを束縛している限り、力の増大を食い止められるのです」
「それなら、どうしてすぐにこの映像を見せてくれなかったんですか? どうして部屋に閉じ込めたんですか?」
「三日前のあなたなら堪えられなかったでしょう」
「どうしてそう言えるんですか」
「あの状態で旅を続けられると思いましたか」
「……」

 耳の奥に、馬車の音がけたたましく蘇る。
 早くメルフ火山から離れたかった。遠ざかる火山の眺望には目もくれず、ずっと俯いていた。

「あなたは一人になりたかったのではないですか?」

 虚をついて、体の奥に重く沈み込む。

「ずっと一人になりたかったのでは? 話が合わず、息苦しかった。迷惑を掛けていると思った」

 再度言う。なぜこうも痛いくらいに突いてくるのだろう。

「殊に、あの黄色い髪の少年には手を焼いていたのではありませんか? 別れたとはいえ、仲間だった者です。彼が虐げられる様を見せられたら――あなたには、空白の時間が必要でした」

 こう考えたらいかがでしょうと、畳みかける。

「もしここに彼らと一緒に来ていたら、あなたの手で傷つけてしまったことでしょう。あなたと別れて、少年は救われたのです」

 私の選択は正しかったのだろうか。

「しかし、一人で出立するのは心細いでしょう。あなたには従者が必要です」

 あなたが三日かけて心の準備をしたように、我々も然るべき時を待っていた。
 最初は木が立っているのかと思った。よく見れば、教皇でも、ティーサラでもない人たちがここにいた。
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