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第1章「はじまり」

魔王降臨

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 ぽつんぽつんと、雨が噴水の水面に染みを作る。
 雨足は先程より弱まったが、広場には人っ子一人見当たらない。点々と置かれた街灯が辺りを照らし、幾何学模様の石畳を浮かび上がらせる。
 そこへずぶ濡れになったジーネイルが息を切らせてやって来た。待ちわびたぞと言わんばかりに、街灯は彼の体を照らしだす。

「イグエン、どこにいる! 父さんはここにいるぞ。こんな所にいると風邪引くぞ!」

 くしゅん、と一回くしゃみの音が聞こえた。

「誰だ?」

 ジーネイルは噴水に歩み寄りながら、きょろきょろと辺りを見回す。
 噴水の両脇には女性の彫像が配置され――右は穏やかな表情で、左の女性は口をへの字に曲げてジーネイルを睨み付けている――その左側にぼろぼろの身なりをした長身の青年が立っていた。

「――イグエン!!」

 ジーネイルはバチャバチャと水飛沫をあげて駆け寄り、息子に抱きついた。

「無事で良かった。お前、ずぶ濡れではないか……」
「……親父」

 イグエンの声は震えている。体は氷のように冷たく、自慢の髪は雨を吸ってじっとりと重い。

「もういいんだ」
「俺は……」
「父さんが悪かった」

 ジーネイルはイグエンをさらに抱き締め、むせび泣く。

「こんなにぼろぼろで、全身冷えきって、一体どこをほっつき歩いていたんだ……三日前にお前がいなくなって、父さんは心配したんだぞ」
「……ごめんなさい」
「さぁ、家に帰ろう」

 イグエンは一歩も動かなかった。体が冷えきって力が入らないのではなく、どうやらここに踏み止まっているようだった。

「どうした、イグエン?」

 ジーネイルは顔を上げてイグエンの肩に手を乗せる。
 対するイグエンは隣の彫像のように口を結んで何も言わない。父親を見下ろす視線は冷たく、胸に突き刺さる。

「……帰れないのだな。お前は、私とアーサーさんの話を聞いていた。家を飛び出す前、小刀を見たのだな」

 ぴくりと、電気が走ったかのようにイグエンの体が動く。震えが、恐れがジーネイルに伝わってくる。

「残念だが、あの時お前が思ったことは正しい」

 ジーネイルは肩から手を離す。懐から小刀を出そうかと思いきや、両手は空いたままだった。

「ここに戻ってきたのは、私に聞きたいことがあるからだね」

 イグエンは自身の左腕をかばうようにして右手で押さえている。

「――分かった。お前の左腕に刻まれた神に選ばれし者の証について、父さんが知っていることを全て話そう」

 ジーネイルはイグエンから数歩離れ、向かい合う。気を付けの姿勢になり、改めて息子を見つめた。

「お前が生まれた十八年前は」

 イグエンは口を堅く閉ざしたままだ。

「ちょうど今日のように雨が降りしきっていた。違うことといえば、あの日は雷雨だった。

 ――モートンさん、このままでは母子ともに危険な状態です!

 目の前の助産婦は私にそう言った。妻のアーシャはじたばたもがき、顔は青白かった。

 ――助けられるのは、どちらかです。

 ついさっきまで妻の手を握り締め、ヒーヒーフーと一緒に声を出して、産まれてくる我が子を今か今かと待っていた。それが一体妻に何が起きているのか。私は助産婦に妻と子のどちらも助けてほしいと嘆願した。

 ――お二人を救おうとすれば、どちらも失ってしまいます。

 がくがくと、握った妻の手は震えている。開いた眼は白く、瞳の部分が見えなかった。私はさらに強く妻の手を握ってやった。お前も我が子も助けるのだと。

 ――あなた、お腹の子を助けて。

 アーシャは私にそう言った。その時だけ妻は苦しみの底無し沼から這い上がってきて、食い入るように私を見つめたのだ」

 ジーネイルは自分の手の平を見つめる。

「妻は医者から子供が出来ない体だと宣告されていた。来る日も来る日も私達は教会に出向き、神に祈りを捧げた。こうして授かった命――私とアーシャの念願の子だ」
「……それで、親父は」
「妻の言葉に、私は我が子を産むことに決意した。

 ――オギャァ、オギャアァァァッ!!

 部屋の中を元気な産声が満たしたよ。力強く、ここに根付こうと生きようという意志が伝わってくる産声だった。所々に皺が刻まれた柔らかく赤い肌とクシャクシャの灰色の髪の毛、この世に生まれた我が子は妻の生き写しだった。私はアーシャが戻ってきてくれたのだと感じた。
 妻の死は悲しかった。しかし、これから先どんなことがあってもこの子を手塩にかけて育てようと誓った。
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