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10.コントロール不可能(6)
しおりを挟むやばい、と思ったときにはもう遅かった。
センター寄りに重心をかけていたところに、コーナーをつかれたサーブを返すために反射的に身体を返したけれど、上半身の勢いに足がついていかなくて、身体が変なふうにねじれた。傾いた身体を右足が支えきれなくて、ボクは体育館の床に倒れた。
硬い床に倒れこんだ衝撃よりも、摩擦による熱痛にボクはうめいた。
「小笠原っ!」
サーブを打った2年生の先輩やら、ボクのうしろでレシーブの順番を待っていた1年生やらの声が聞こえた。
何人かの人影に取り囲まれた。
「え、っとダイジョウブです」
部活中に転んだのが恥ずかしくて、手をついて立ち上がろうとしたのを止めるように、城島先輩に手で肩をつかまれた。さっきまで、ボクの後ろでフォームを見てくれていた2年生の先輩だ。
「急に動かすな。足を捻りながら転んでただろ」
いつも真剣だけど、さらに真剣で厳しい顔をした城島先輩に言われた。自分じゃわからなかったけど、先輩にはそう見えてたみたいだった。
城島先輩の手で、上半身だけ起こすのを手伝ってもらった。
ふうっと、息を吐いたら、緊張がゆるんで、とたんに鋭い痛みが現れた。
右の足首だ。
顔をしかめると、
「痛いか?」
と城島先輩が聞いてきた。
「はい、右がちょっと」
ズキンズキン、と足首が痛み始めてる。
「そうか、とにかく保健室へ行こう」
城島先輩がしゃがんで背を向けた。
「ほら、おぶされ」
「え、ボク、歩けますから」
「つべこべ言ってると、担架に乗せるぞ」
担架とおんぶ、・・・どっちも恥ずかしいけど、とためらっていると、
3年生の太田部長に、
「捻挫してたら、無理して歩かないほうがいいから」
と有無を言わさぬ口調で言われて、太田部長の手を借りながら、「すみません」と言って城島先輩の背中に乗った。ちょっと床に足をついたら、ズキっと痛んだ。
「畑山、小笠原の荷物を部室から持って、保健室に来い」
そう近くに居た1年生に指示して城島先輩が、スックと立ち上がった。
決してボクは軽くはないのに、城島先輩はしっかりとした足取りでボクを背負って体育館の外に向かって歩き出した。
さすが、朝晩、スクワットを100回しているだけはあるなあ、と妙なところで感心した。
保健室のベッドに横になっていると、がらがらっという扉を開く音がした。
ボクが横になっているベッドの周りのカーテンは半分だけ閉じられているから、ここからでは誰が入ってきたかは見えない。足音がまっすぐ、ボクが居るベッドのほうに向かってくる。
保健室の先生は、職員室に用事をしに行ったばかりだったから、さっきまでいた城島先輩たちかなと思って、ベッドの上で身体を起こした。保健室にはボク以外誰もいないし。
足音が近づいてきて、白いカーテンの陰からヒョイ、と現れたのは、
「先輩」
沢垣先輩だった。バスケ部のユニフォームのまんま。
「どうしたの先輩? ケガした?」
「あー、じゃなくて、さっき、陸が城島に背負われてるのが見えて ――― 、保健室に行くってのが聞こえたから」
今、城島たちが体育館に戻ってきたから、来てみたんだと先輩が言った。
「部活、いいの?」
って聞いたら、
「ボールに指をぶつけたから、保健室に行くって言ってきた」
と言った。
ふうん、と思って、ぐっと歯を噛みしめた。でなきゃ、なんか、―――― なんかの感情がこぼれてしまいそうになる。
「転んだんだって?」
誰かに様子を聞いたらしい。
「うん、レシーブんときに転んで、ちょっと、足首をひねっただけ。でも、もう、そんなに痛くなくなった」
城島先輩に連れられて、保健室で先生から診てもらったら、「そんなにヒドクはなさそうね」と言われた。少し、様子を見て、痛みが増してゆくようだったら、病院へ連れて行く、ってことだったけど、湿布を貼ってもらってる足首は、今はもう、そんなには痛まない。
「たいしたことないみたいだけど、今週は、部活休んどけ、って城島先輩が」
今週、っても、もう、明日と明後日しかないけど。ボクを保健室まで運んでくれた城島先輩がそう言ってくれた。帰りも、チャリで駅まで送ろうか、と言ってくれたけど、それは保健室の先生が車で送ってくれることになった。
「そうか、たいしたことなくてよかった」
ホッとしたように先輩が言った。
・・・心配してくれたんだ。
「足首だけ?」
「うん。 ――― あ、ヒザもちょっとすりむいた。お風呂でしみそうなんだよね」
笑って言ったら、硬かった表情の先輩もつられたように笑った。
ああ、やっぱり、笑ってる顔が、いちばん、好きだなあ。
なんか、それだけで、今日の昼休みに、参考書を借りたときのもやもやが、ウソみたいに、もう、どこかへ消えていった。
それから、ふと、気づいた。
先輩を思う気持ちに『好き』という表現をつかっても、もう、ボクは驚かない。
ああ、そうか、・・・そうなんだ、と思って、先輩を見上げたら、
そっと肩をなでられた。
先輩がベッドに腰掛けてきた。先輩の体重で、保健室のパイプベッドがギシリと音を立てた、だけなのに、先輩とふれあうぐらい近いのなんて何回も経験済みなのに、それが何度目でも、やっぱりいつも、
どきり、とする。
上半身を起こしているボクの横に、並ぶように、腰同士がくっつくかくっつかないかの距離をあけて先輩が座った。
保健室の白い空間。消毒薬のニオイ。先輩の赤い、ゼッケン入りのシャツと、先輩の体温。
いつもの夕闇間近の公園じゃなくて、明るい保健室なのに、あそこでの雰囲気と同じだった。ぴりぴりとした緊張感。甘いことが起きる予感に胸がきゅうっとなる。
先輩の大きな手のひらが、ボクの肩から腕をなでる。
「転ぶときに、腕をついたりしてたら、今は痛まなくても、あとから筋肉痛みたいになるときがあるんだ」
「へ、・・へー、先輩、詳しいね」
平静を装って、言った。こわいくらいに心臓がばくばくいいだしてる。
「そりゃ、オレも、何度も転んだしな」
ボクの肩を、腕を、ふれる先輩の手に、
そこになんの意味はないとわかっていても、身体の熱が増してゆく。
「転ぶときに、どっちかの手をついたりしたか?」
「多分、右。でも、全然、なんともないよ」
ボクの右側に座っていた先輩がボクの右腕を取って、筋肉をほぐすようにしていきながら、腕を肩から手首の方へと指で押さえていく。まるで、マッサージみたいだ。
「痛くないか?」
ちょっと、くすぐったいけど ―――― 。
「ううん、先輩の手、気持ちいいよ」
あ。
別に、音が聞こえたとかなんとかじゃないけど、
空気が瞬時に切り替わった。
ボクの手を握ったままの先輩から、
吐息のような声で、りく、と呼ばれた。いつも、公園で、呼ばれる声。キスしてくるときの声。
この声を聴くと、
心臓も身体も呼吸も、これ以上にないってくらい、いつも、苦しくなる。
苦しくなって、でも、好きなんだ、という気持ちがでてきた。ボク、先輩が、好きなんだ、って。
背中を抱かれて、自然と顔が上を向いた。もう、目の前には先輩の顔。
だって、学校で、と思ったのはほんの一瞬で、ボクは、すぐに、目を閉じた。
なんだか、自分がどんどんと変わっていってるような気がする。
くちびるがあわさって、唾液も交じり合って、先輩の舌のやわらかさや温かさやしたたかを知って、
身体の、
細胞なんかが、別の新しいものに交換されていってるみたいな感じがする。
ボクはボクなのに、
新しい知らない部分がどんどん生まれてきていて、
チガウものになってゆくような不安、
と、冬のうんと早い朝の空気のような新しい空気を身体いっぱいに吸い込んだときのような感じ。新鮮な、新しい澄んだものがボクの中に入ってくる。
きっと、先輩とキスするたびに、ボクの身体に先輩の細胞が入り込んできていて、そして、先輩の身体にボクの細胞が入っていってるんだと思う。
でなきゃ、こんなに、先輩の身体が、まるで慣れ親しんだなつかしいもののように思えて、もっとずっとふれていたいとかくっついていたいとか思わないはずだ。
―――― だって、はなれたくない。
先輩の背中に腕をまわした。
汗でしめっているTシャツごしに、熱くほてっている筋肉を感じる。硬くて、しなやかで、・・・熱い。もっと、と思ったら、また、涙がでてくるときみたいな気持ちになった。胸が、ぎゅってなる感情が身体の真ん中からもりあがってくる。
もっと、強く、抱きしめて、ほしい。
そうじゃないと、ボク・・・・・・、
・・・そうじゃないと、―――― なんだろう?
見えるような掴めるようなコタエを探ろうとしたら、
不意に、先輩のくちびるがはなれてった。
「しばらく、会えないな」
やめないで、と思ったら、先輩がそう言った。頬に小さくキスされた。
「なんで?」
急にそんなこと言われて、びっくりして、ココロのどこかが痛くなった。
「ん。陸が部活休むんだったら、一緒に帰れないだろ。すぐに週末になるしな」
今度は、まぶたに湿っていて温かい感触。
そうか、木曜、金曜と部活を休んだら、もう土日は学校が休みだ。
「ボク、待ってるよ」
咄嗟に、言った。背中に回していた手で先輩のシャツをキュっと握りしめた。
先輩が、え、と驚いた声をだした。
「先輩が、部活終わるの待ってる」
図書室で勉強しててもいいし。そう思ってると、
「―――― いや、早く家に帰って、ちゃんと足を休めたほうがいい」
と先輩が言った。
足、そんなに、ひどくはないのに。それに、だって、―――― 淋しい。
顔を少しはなして、先輩がボクの顔をじっと見つめてきた。大きな両手で頬をつつまれた。
その瞳の色に、先輩はもうとっくにボクの気持ちなんかお見通しなんじゃないのか、って思う。
「オレに会えないのはイヤか?」
「うん」
瞳の熱が、高く、さらに高くなっていく。
魅入られたように、その目を見つめ返していると、先輩のくちびるが、また、ボクの名前をかたどって、それからすぐに激しくボクのくちびるを求めてきた。
ガラリ、と保健室の扉が開く音がした。
先輩がぱっと身体をはなした。
ベッドの周りのカーテンが半分だけ引かれていたから、保健室の入り口からはボクたちの姿は見えない。
人に見られてはいけないコトだとはわかっているけど、頭ではちゃんと理解できてるけど、先輩を引き止めたかった。
なんで、やめちゃうんだよ、と思った。
時間の経過がわからなかった。ずっとずっと長い口づけだったような、ほんの一瞬だったような気もした。
ただ、熱が、ボクの身体の芯にともっているのをはっきりと感じた。
ぼぉっと先輩の顔を見上げていると、
先輩がTシャツのスソでボクのくちびるをぬぐった。
アゴも。
「こんなんで、ワリィ」
と小さく言って、先輩自分の口あたりをシャツのソデでふいた。
先輩がベッドから立ち上がったときに、
「小笠原くん、足はどう?」
保健の先生の声がした。
あ、そうか、ここは保健室だった。ゆっくりと現実感が戻ってくる。
「だ、大丈夫です」
なんとか普通の声をつくって、返事をしたら、カーテンの向こうから先生がやってきた。ショートカットで、うちの母さんぐらいの年齢っぽい。
貫禄ある身体つきはすごい頼れる感じで安心感があるけれど、それを口にしてはいけないらしい ―――― でないと、いちばんしみる消毒液で傷口の手当てをされるからな、と痛そうな顔つきをした城島先輩がさっきこっそり耳打ちしてくれた。・・・城島先輩、言っちゃったんだな、とその時思った。
「あら、沢垣クン。どうしたの? また、爪やっちゃった?」
「いや、今日は、ちょっと擦りむいたから消毒だけ。―――― センセ居ないから、どこに行ってるのか聴いてたんだ」
普通の高校生の顔に戻って先輩が言った。
「消毒ぐらい、自分でできるでしょ」
「したけどさ、利用記録簿がドコかわかんなくて」
「ああ、今、統計取ってるから、私が持ってたの。いいわ、書いとくから ―――― 真面目になったのねえ沢垣クン。前は、いちいち書くのメンドクサイってぶつぶつ言ってたのに」
「なんだよ、センセがちゃんと書けって言ったんだろ」
おっかねーし、と小さく言った言葉はでも、保健の先生の耳にしっかり届いていたらしく、ピクリと先生の眉が上がった。
「ほら、消毒終わったんなら、ちゃっちゃと部活に戻んなさい」
へえへえ、と先生向かって言って、
「じゃ、小笠原、アリガトな」
とボクにかるく手を振って、先輩は保健室を出て行った。
先輩の背中を見送って、追っかけて行きたくなった自分を押しとどめながら、ボクは思った。
ボクは、北野が言ってたみたいに、好きって言われたから、暗示をかけられたみたいに沢垣先輩のことを好きになったわけじゃない。
だって、ボクの胸からあふれてくる気持ちは、こんなにもつよく真っ直ぐに先輩へと向かっている。
―――― ボクの気持ちの中に、先輩を好きだっていう気持ちがちゃんとあったから、だから、一緒に居るのが楽しくて、よりそって抱きしめあってキスをして、そうやってくっついてるときのボクと先輩の空気がまざりあってく感じが、・・・・・うれしい。
うれしい、という気持ちで、胸がこんなにもふるえるんだって、知らなかった。先輩が、教えてくれるまで。
それに、
キスが、まだろむような感じの、大きなものにやさしくつつまれるような感じになるものだけじゃないんだと、
今日、初めて知った。
もっと、荒々しくて、身体の芯がふるえて、
キスが終わったあとも、
先輩とはなれてしまったあとも、
ボクの身体のどこにもに、先輩の気配が残ってしまうような、そんな、キスもあるんだ、ということをボクは初めて知った。
( つづく )
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