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4巻

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 ただ結局どれもこれも確証がなく、それを確認するすべもない事から、一連の事件は「ベウィック公爵家の悲劇」と呼ばれて現在に至るんだ。

「だけど、今になってどうしてまた、その後の話みたいな噂が出ているんだろう?」

 誰かが意図的に流しているのかな。だとしたらどうしてハーヴィンなのかしら。
『アンデッド』っていうのはつまりは死霊。死んでしまった人間が現れているって事だ。
 彷徨さまよっていると噂されているのは、ベウィック公爵家で消えてしまったと言われている跡継ぎ争いをしていた元伯爵家当主の弟だ。考えるのも嫌だけど、血だけのつながりで言えば僕の大叔父さんになる。
 でももう僕には関係ない人だ。父様はハーヴィンと僕の関係を全て断ち切ってしまう養子縁組の手続きをしている筈だし、ハーヴィン家自体も今は取り潰されて、領地は没収されているから、正確にはハーヴィン領はすでに存在しない。
 今は王国の管轄地になっていて、近隣の領と一緒に、王都から派遣された役人達が整備をしていると聞いた事がある。そのままだと残された領民が困るし、土地が荒れると魔物も増えるっていうしね。
 話を戻して、元ハーヴィン領に現れたアンデッドは、家督を争った元領主の娘夫妻を探していたんだよね。ええっと、僕の実母と再婚相手って事かな。
 もしも本当にその人がアンデッドになって元領主の娘夫婦を探しているのなら、どうして死んでまでそんなに固執こしゅうするんだろう。それほど領主になりたかったのかな。それとも、もう自分自身ではどうする事も出来ないのかな。

「…………っ……」

 背中がゾクリとした。ただ残った念のようなもので動き続けている死霊。本当にそんなものが存在するんだろうか。家督を争った娘夫婦が見つかったら、そのアンデッドはどうするつもりなんだろう。もう領地もないというのに、その人達を殺してしまうのかな。
 大体それは本当に元伯爵の弟なのかな。ベウィック公爵に怪我をさせたのも、元伯爵夫人を殺したのも、行方不明になっていると言われていたその人なのかな。
 アンデッドになっているとしたら、その弟も死んでいる筈だよね。いつ死んだのかな。

「分からない事だらけだけど、やっぱり怖い……」

 僕はポツリとそう呟いた。そういえばずっと前にその人が僕をハーヴィンに取り返そうとしていたって聞いた事がある。もちろん父様が「なんの心配もいらない」って言ってそれきりだったけれど。

「こんな話、思い出して考えるんじゃなかったな」

 見た事もないハーヴィンの元当主の弟。
 大体僕はその元当主の顔も、それどころか僕を産んだという実母の顔も、僕をよく叩いていたらしい実父の顔も覚えていないんだ。
 僕のお祖父じい様はカルロス・グランデス・フィンレーで、僕の父様はデイヴィット・グランデス・フィンレー、母様はパトリシア・ランドール・フィンレーだ。
 なんだか一人でいるのが嫌になって一階に下りた。兄様はまだ戻っていなかった。

「……今日は何時頃戻られるかな……」

 兄様は最近、朝早めにお城へ向かう。帰りはものすごく遅いわけではないけれど、いつもなんとなく疲れていらっしゃる様子に見えた。でも、何か気になる事があるなら必ず話をしてねって言われているんだ。
 帰ってきたら……兄様が疲れた顔をしていなければ……話をしてみようかな。
 そういえばこの前、シェフが美味しい紅茶が手に入りましたよって言っていた。お茶会に使おうかなって思っていたけど、その前に兄様と飲んでみようかな。そうしたらこのグルグル回っているような気持ちも落ち着くかもしれない。
 夕食までには戻られるかな。もし戻られたら……

「食後にお茶はいかがですかって誘ってみようかな」
「誰をお茶に誘うの?」
「…………え?」

 すぐ目の前で兄様の声が聞こえた。

「アル兄様! いつの間に!?」
「たった今だよ。ただいま、エディ。なんだかエディが真剣な顔で考えているからどうしたんだろうって思ったら、お茶に誘うって聞こえたから、誰を誘うんだろうって気になったところだ。それでエディは誰をお茶に誘うの?」

 こちらを覗き込みつつそう言われて、僕は顔を少しだけ赤くしながら「兄様です」と答えた。

「それは嬉しいな。でも何かものすごく考えていたみたいだけど?」
「あ、あの、今日学園で嫌な噂を聞いたので、少しお話をさせてもらいたいなって思いました」

 僕の言葉を聞いて、兄様はなぜかとても嬉しそうに笑って再び口を開いた。

「分かった。じゃあ、食後でいいのかな? それとも今、話してすっきりしてから夕食をとるのでもいいよ。エディの話は最優先で聞くって決めているんだ。色々考えているとおかしな方に進んでいく事があるからね」

 もう一度、にっこりと笑った兄様に、僕は赤い顔をさらに赤くして「今、お願いします」と答えた。


「なるほど、ハーヴィンのね……」

 僕は学園で聞いた噂と、先ほどまで色々と考えていた内容を兄様に話した。
 兄様は頷きながら全部聞いてくれて、そう口にした。

「どうしてそんな話が今になって噂になっているのかなって」
「うん。そうだね。とりあえず、色々話をして喉が渇いたでしょう? まずはお茶を飲もう」
「はい」

 僕は少し冷めてしまった紅茶をコクリと飲んだ。うん、シェフが嬉しそうに報告をしてきただけあって美味しい。

「ああ、これは美味しい紅茶だね」
「はい」

 僕が返事をすると、兄様はなんだか嬉しそうに笑った。

「アル兄様?」
「ふふふ、今回はちゃんと先手が打てたかなって思ってね。さて、ではエディの不安を取り除こう。まず、今の話は大体、王国内で語られている内容と同じだね。ベウィック公爵家の事ははっきりとは分からないけれど、ハーヴィンでアンデッドが徘徊しているという情報は王室も、もちろん父上達も掴んでいて、確認をしているよ」

 さすが父様。

「だけどそれが本当に元当主の弟なのかは分かっていないんだよ。それとは別にエディが聞いていない話もある。聞くかい?」
「…………はい」

 僕は少しだけ考えて頷いた。

「では、話をするね。まずは、家督を争っていた娘の夫はすでに死んでいるんだ。ハーヴィン内に現れた魔物にやられてしまったんだよ。そして娘は今、他領の神殿で暮らしている。どこの領かは言えない。精神をね、病んでしまったらしい。色々起きて耐え切れなかったんだろうね。だから、もしもアンデッドが彼らを探しているならば会う事は叶わないだろうね」
「……そうでしたか」
「エディはこの件については何も思わなくていい。ハーヴィンの事は父上がこれでもかというほど書類を作って、確認をして、間に信頼出来る人も入れてエディを養子に迎えているんだ。もっともすでにハーヴィン家はない。まぁ、それ以前にハーヴィンとエディとの関係は完全に切れている。それに関してはなんの心配もいらないよ」
「はい」
「それから、アンデッドに関しても、学園はあの魔物の事件からさらに強い結界を張って屍霊種にも対応していると確認している。そしてこの屋敷も、使っている馬車も、全て屍霊種が入る事が出来ない魔法陣を組んでいるし、護衛達にも聖神殿の護符を渡している。エディ自身が持ちたいというなら、もちろん渡せるよ。どういった経緯でアンデッドが出ているのかは分からないけれど、浄化する手筈も整えているから安心してほしい」

 兄様の言葉に僕はホッとしてから「ありがとうございます」と頭を下げた。
 いつの間にかそんな風にしっかりと対応をしてくれていたんだなって思うと、安心すると同時に嬉しくなった。元々このタウンハウスは僕が住むためにお祖父じい様が防御陣を強化していた筈なんだ。それがさらに強くなっていたんだね。
 僕がそう感じていたら、兄様が少し考えるような顔をしてからゆっくりと口を開いた。

「それでもどうしても怖いなら、しばらくの間、一緒に寝ようか」
「へ?」

 聞こえてきた言葉が一瞬信じられなくて、僕は思わず変な声を出していた。

「ずっと一緒にいたらきっと怖くないよ? 一人でいるのが怖かったら一緒に寝よう?」
「は、わ、ぅ……だい、大丈夫です! あり、ありがとうございます! それだけやってくださっているなら安心です!」
「そう? 残念。エディと添い寝が出来るかなって思ったのに」
「…………兄様、か、からかっていますね?」

 赤くなってしまっただろう顔のまま尋ねると、兄様はにっこりと笑って「本気だよ」って答えた。

「ううう、怖いより、恥ずかしいです」
「そうかな。じゃあ、また怖くなったら遠慮なく言ってね。エディのお願いだったらいつでも最優先にするよ。ではとりあえず、この話はおしまいだ。次は夕食で会おう」
「はい。ありがとうございました」
「うん。溜め込んだら駄目だよ。何か新しい情報が出てきたら知らせてほしい。私も注意しなければならない事があったら伝えるからね」
「はい」

 階段を上がっていく兄様の背中を見送って、僕は熱くなってしまった顔を両手で押さえた。

「はぁ、びっくりした」

 でもおかげで怖い気持ちは吹き飛んだよ。
 わけの分からないアンデッドはもう父様達がちゃんと手を打っていて、この家や馬車や、護衛達まできちんと守られているなんてすごいな。

「ふふふ、久しぶりにお話が出来て良かった」

 さすがに十五歳にもなって兄様に添い寝をしてもらうのは恥ずかしすぎるけれど、それでもそんな風に言ってもらえる事が嬉しいと思う。
 くすぐったいような、わ~~~っと叫びたいような不思議な気持ちを胸に抱えて、僕は残っていた紅茶を飲み干した。

   ◇◇◇

 第二王子の側近になって何か変わった事があるのか尋ねられたら、「面倒事が増えた」と即座に答えるだろうと、様々な書類の束に囲まれながらアルフレッドは思っていた。
 本来、第二王子の公務というのはそれほどない筈なのだ。だから実質的には第二王子の側近などお飾りに過ぎない。実際、側近候補だった時は無駄なお茶会も多かった。むろん毎日登城する事もなかった。学園に通っていたのだから当然だ。
 だが学園を卒業して成人となり、正式に側近となった途端、状況は大きく変わった。
 元々王国の中には第二王子のシルヴァンの方が王の器であると推す者が一定数いたが、シルヴァンは学園に在籍をしているうちから、第一王子である王太子の臣下になると宣言し、王位継承権を早々に放棄していた。
 王太子が王位を継承した際は臣籍降下をして公爵位を受ける。そんな話が本人の希望としてすでに決まっている規格外の王子。それがシルヴァン・コルベック・ルフェリットという男だった。
 そして、その王子の側近は自分を含めて、現在王国で発言が重要視されている臣下の子息達で固められていた。
 ニールデン公爵家子息のロイスを筆頭に、近衛騎士団の団長を務めるスタンリー侯爵家子息のジェイムズ、王国随一の魔導騎士団を有するレイモンド伯爵家子息のマーティン、賢者となったメイソン子爵の子息ダニエル、そして国王も一目置くと言われているフィンレー侯爵家子息のアルフレッド自身だ。さらに【光の愛し子】という加護を持つ、マーロウ伯爵の養子ルシルが側近候補となっている。
 しかし、くどいようだが、第二王子の王族としてのはっきりとした仕事はほとんどない筈なのだ。けれど忙しい。とにかく忙しいのだ。
 まず、毎日誰かしらが訪ねてくる。陳情ではなく、報告と相談という形で話がくるのだ。それだけでも「違うだろう?」とアルフレッド達は思っていたが、シルヴァンは大事な情報収集だと言ってそれをやめようとしなかった。第二王子としての自分に謁見に来る貴族達ににこやかな笑みを浮かべながら対応し、そこに含まれる意図を探り、必要があればアルフレッド達に「調べてほしい事がある」と声をかけてくるのである。
 自分達は別に隠密調査を生業なりわいとしているわけではない。とはいえ、そこから出てくる情報は確かに重要なものが多いので、とりあえずはそのままにさせている、というのがマーティンの言葉だ。
 それだけでも普通の側近とはかなり異なると思うのだが、シルヴァンは数年前に新たに作られた騎士の養成所というものに関して、窓口を自分のところにしてほしいと申し出た。
 さすがにジェイムズが進言をしたが……

「よく分かっていない中間管理職に任せるより、自分達で作った方が良いものが出来ると思うんだ」

 と、これもまたいつの間にか「やってみなさい」という国王の承認を得てきた。
 これが約二年前、アルフレッド達が側近になったばかりの頃の話で、当初こそあちこちからの要望と実際に出来る事に差があって多少ゴタゴタしたが、二年経つ頃にはきちんとした枠が出来始め、どのようにすれば効率的に回るか徹底的に洗い出されて、仕組みが作られた。
 それに力を発揮したのはダニエルと、意外にもルシルだった。
 そうして養成所が落ち着いてくると、シルヴァンは増えてきている魔物の出現や騎士達の派遣などについてそれぞれの領から出てくる要望を精査し、どのような解決策があるのかをまとめて、王ないし王太子に報告をするという事を始めた。これにはそれぞれの子息の父親達もやりすぎなのではないかと国王に進言をしたのだが、とりあえず、それなりの成果が出ているようなのでもう少し様子を見てみようという結論になった。

「第二王子っていうのは、ある意味王室の小間使いなのか?」

 うんざりとしたようにそう言ったのはダニエルだった。

「ダニー、小間使いは自分で仕事を見つけてはこないよ。言われた仕事をきちんと行うのが小間使いだ。こういう場合はなんて言うんだろう。存在意義をこういった事でしか表せないなら、全てご自分でおやりになればいいのにね」

 口を動かしながらも手は止めず、ばっさりと言い切ったのはマーティンで、困った顔をしているジェイムズの横でアルフレッド自身も口を開いた。

「とにかく、この細かい作業の果てに、魔物退治に行くと言い出したら辞めるから。俺は王都を離れて魔物退治をするつもりはない」

 細かい文字の書類に目を落とし、これは宰相府の役人の仕事なのではないかと思いつつ、きっぱりとそう言うと、マーティンがおかしそうに「アルはブレないね」と笑った。

「そういう契約で側近を引き受けたからね。【愛し子】を連れて魔物退治をするなら、俺は手を引かせてもらう。父にも了承は得ている」
「ああ、まぁ、そうだねぇ、守りたい者は他にいるからね」
「ダニー」
「ああ、怖い、怖い。普段は『俺』なんて言っているんだよって、あの子に教えてあげたいな~」
「マーティ。火に油を注ぐな」
「違うよジム、これは息抜きだよ」
「俺で息抜きをするなよ、マーティ」

 そんなやりとりをしているとシルヴァンがやってきた。

「やぁ、上がってきている報告はもうまとまっているかな。さっそくだけれど、今日からはそれも含めて妙な噂の検証をしたいと思っているんだ」

 そう言ってシルヴァンは椅子に腰を下ろした。すると部屋の端に控えていた侍女達が、即座に紅茶とお菓子を用意する。見た目は優雅なお茶会だが、実際は全く優雅さなどないと五人の側近達は思っていた。だが、そうであったとしても、現状どうする事も出来ないのが宮仕えの辛さだ。

「妙な噂というのは、ハーヴィンの噂の件ですか?」

 ニールデン公爵家のロイスがそう言うと、「ああ、やっぱり聞こえてきているか」とシルヴァンがにっこりと笑った。

「どこまでが本当で、どこからが作り話なのかがはっきりしませんが」

 そう生真面目に答えたのはジェイムズだった。

「うん。でも調べておいて損はないだろう? 大体、死霊が王宮の中に入ってきて好き勝手やられたら大変な事態になる。邪悪なものは入る事が出来ない結界を組んであるとはいえ、数年前の学園での前例があるからね」

 シルヴァンの言葉に側近達五人は少しだけ顔を曇らせた。
 二つ年上のロイスはすでに卒業していたが、アルフレッド達は最終学年である高等部三年の時にそれに巻き込まれた。
 魔法を使う事が出来ない筈の王立学園の空間で、魔素から湧き出した魔物達はなんの制約も受けずに魔法を使って攻撃をしてきたのだ。それが王宮で起きないとどうして言い切れるのかとシルヴァンは指摘しているのである。

「確か厄災級の魔物が初めて現れたのはフィンレーだったな。まぁそれ以前にもランクの低いものがポツポツと出ていたようだけど。あれから九年くらいかな? 私達が住んでいるこの国に一体何が起きているのだろう。誰か調べてくれないかな。ダニエル、君の父上は確か賢者の称号が付いたんだよね? 一度話がしてみたいな」

 そう言われてダニエルは「それは父にお話しいただかないと、私からお約束は出来ません」と言葉を濁した。
 シルヴァンが口にした事はおそらく王国内のほとんどの貴族達が感じている事だった。
 一体何が起きているのか。
 これからどうなっていくのか。
 魔物の件だけではなく、どうにも説明がしがたい事が多すぎるのだ。女性しかかからないと言われている奇病『エターナルレディ』が一息ついたと思ったら、今度はよりによって「アンデッド」だ。
 そう思いながら、アルフレッドは数日前に相談に来たエドワードの事を思い出していた。
 学園で耳にしたハーヴィンの噂に、色々と考えてしまったようだった。学生達の間でも広がっている噂。もちろんそれぞれの父親達も動いているのは聞いていた。エドワードにも伝えた通り、すでに手は打っているが、シルヴァンが言った通りに、嬉しくない前例もある。
 絶対に大丈夫だという保証はどこにもないのだ。
 しかもこのタイミングで、それを調べてみろというシルヴァンの意図はなんなのか。この話は一体どこに繋がっているのだろう。
 用心深く考え始めたアルフレッドの耳に、聞き慣れた声が聞こえてきた。

「遅くなりました」

 学園が終わったらしいルシルがやってきたのを見て、シルヴァンがわずかに微笑む。

「学園の方は順調かい? とりあえず座ってお茶でも飲みなさい」
「ありがとうございます。おかげ様で、なんとか課題もこなせています」
「それは良かった。では今日からの仕事については彼らに説明をしてあるからね。一緒に行ってくれ。急ぎではないが、確認はきちんとしておきたいんだ」
「はい」

 そう言われてルシルは定位置であるダニエルとマーティンの間に座った。それを見てシルヴァンが再び口を開いた。

「ああ、そうそう。これが私の聞いた情報だ。これ以外の話がないか、それはどこからの情報かも確認しておいてほしい。面倒をかけるがよろしく頼むよ。一日で全てやれなんて言わないから安心してほしい」

 ロイヤルシルバーの髪と対照的な金色の目が、真意を隠した鮮やかな笑みを浮かべたのを見て、五人の側近達は、胸の中にため息を落としながら受け取った資料をめくった。

   ◇◇◇

「アル兄様、おかえりなさい。遅かったのですね」
「ただいま、エディ。ちょっと仕事の件で父上にも話をしておいた方がいいものがあってね。夕食は済んだ?」
「あ、えっと、これからです」
「エディ?」

 驚いたような顔をする兄様に僕は苦笑しながら「来週までの課題が多く出てしまって」と言葉を付け足した。

「課題か……」
「はい。明日は学園が終わったらフィンレーの方に戻りたいので、ちょっと頑張ってしまいました」
「そう。それじゃあ仕方がないね。すぐに着替えてくるから一緒に食べようか」
「! はい! お待ちしています」

 最近は朝も早いし、帰りもものすごく遅いわけではないけれど、一緒に夕食をとれる機会が減っていたから嬉しいな。
 僕がダイニングで待っていると、兄様はすぐに戻ってきた。メイド達も手際良く対応をしてくれて久しぶりに兄様との夕食が始まった。

「学園の方はどう? あれ以来嫌な噂は流れていない?」
「ええ、特には。実際にアンデッドを見た人がいないみたいだから、広がりようがないのかもしれないってミッチェル君が言っていました」
「ふふふ、マーティの弟だね」
「はい。あ、話は変わってしまいますが、今日は久しぶりに初等部との合同講義があって、乗馬をしました。でも乗馬は今年も人気がなくて新入生は誰もいなかったんですよ。やっぱり高等部と合同というのは初等部にとっては気後れするのかもしれませんね」
「乗馬か、いいな。今度休みが取れたらフィンレーに行って駆けてこよう」
「え! ご一緒してもいいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます。楽しみです! でもアル兄様、疲れた顔をしています。大丈夫ですか?お仕事はすごく忙しいのでしょうか。時々ルシルも疲れたような顔をしているし」
「ああ、ルシルは学園と両方だからね。やっぱり少し大変そうだね」
「そうですね。早く忙しいのがなくなるといいのですが」
「そうだねぇ、そうなるといいねぇ」

 ああ、これはまだまだ先が見えない感じなのかもしれないなって思ったよ。だってこんな風に遠い目をする兄様なんて今まで見た事がなかったもの。

「あ! そうだ! ちょっと待ってくださいね。少しお行儀が悪いのですが、すぐに戻ります!」
「エディ?」

 驚いたような兄様の声に、頭の中で「すみません」と言いながら、僕は急いで部屋に行き、マジックバッグに入れていたそれを持って、ダイニングに戻った。

「どうしたの?」
「すみませんでした、でも、出来たんです。まずくない……ではなくて、美味しいポーション!」
「美味しいポーション?」
「はい。アル兄様にもずいぶんお手伝いをしていただいていたのですが、この間【緑の手】のレベルが上がったみたいで、お祖父じい様との勉強会の時に他の植物と交配させて、苦みのない薬草が出来たんです。それで、味も調整して柑橘系かんきつけいのさわやかな感じになりました! まずくて苦い薬草や試作品を沢山試していただいて、本当にすみませんでした。僕も鑑定して、念のためにお祖父じい様にも鑑定をしていただきました。体力回復ポーションです。後で飲んでみてくださいね」

 僕はポーション用の小瓶を兄様に手渡した。以前のおどろおどろしい緑色の液体ではなく、透明感のあるミントグリーンの液体が入っているんだ。

「傷を治すものと、魔力を回復させるものはまだ実験中です。後からは無理だって言われている闇属性は取れたけど、光属性は取れないみたいだから、僕はこちらで頑張る事にしました」

 兄様は黙って僕を見つめていた。それからもう一度、僕が渡したポーションを見て口を開く。

「ありがとう、エディ。エディはすごいな。自分の目標を持って、それを何年かかっても諦めずにきちんと達成している。私も頑張らないといけないな」
「に、兄様が試作に付き合ってくださったからです。苦くて、臭くて、ちっとも良くならなくても諦めずに一緒にいてくださったから、だから僕も続ける事が出来ました。ありがとうございました。他のポーションも諦めずに頑張りますね」

 僕がそう言うと兄様は嬉しそうに頷いてから、小瓶の蓋を開けて、中の液体を一気に飲み干してしまった。

「え、アル兄様!」

 お食事中なのに! ああ、ポーションは食べ終わってから出せば良かった。

「すみません。後で持ってくれば良かったです。大丈夫ですか? 改良した方がいい点はありますか? き、気持ち悪くなったりはしていないですか?」

 僕は兄様の顔を覗き込んだ。すると兄様は嬉しそうに笑って言葉を続けた。

「ふふふ、本当にすっきりして飲みやすい。すごく元気が出たよ。ほら!」
「わぁぁぁ!」

 次の瞬間、兄様は椅子から立ち上がって、小さな子供にするように僕の身体を高く持ち上げてしまったんだ。小さい子が喜ぶあれだよ。えっと、高い高い?

「ね? こんなに元気になった」
「ににに兄様、おろ、下ろしてください!」
「ああ、本当に大きくなったね、エディ。昔、父上がこうしてエディを高く掲げているのを見た事があって、いつかやりたいなと思っていたんだ。もう少し小さな頃に出来たら良かったな」
「…………兄様」

 兄様は僕をそっと下ろしてくれた。だけど僕はそのまま背伸びをして、兄様の首にギュッとしがみついてしまった。だって、どうしてだか分からないけれど、このまま離してはいけないって思ったんだ。感じた事を言葉にしなければいけないって。

「エディ!?」

 耳元で慌てたような声がしたけど、僕はしがみついたまま早口で話し始めた。

「いつも兄様は僕に溜め込んだら駄目だって言います。ちゃんと話してほしいって。僕は兄様みたいにきちんと答えられないかもしれないけれど、でも話す事で軽くなる事もあるから、僕で良かったらいつでもお話ししてくださいね。兄様も胸の中に溜め込んでは駄目です」

 しがみついていた僕の背中にゆっくりと兄様の腕が回って、僕達は幼い頃みたいにギュッと抱き合った。ああ、思い出すな。兄様の手を払ってしまって、落ち込んで部屋から出られなくなった僕に、父様は小高い丘の上から美しい緑色の麦畑を見せて、グランディス様の事を教えてくれたんだ。そうして屋敷に戻ってきた時、屋敷の入口で待っていてくれた兄様にごめんなさいって言って、今みたいにギュッと抱き合った。

「…………ありがとう、エディ」

 いつもよりも、少しくぐもったような声が僕の名前を呼ぶ。

「約束ですよ……」
「うん。約束するよ。今日はこのポーションですごく元気になった。でもまた疲れたら、今度は話を聞いてもらうね」
「はい!」

 そうして僕達は、ゆっくりと腕を解いて、顔を見合わせて思わず笑った。

「食事の途中だった。でも今日は許してもらえるかな」
「僕も途中で立ってしまったけど、きっと今日は許してもらえると思います」

 僕達がそう言うと、ダイニングの端に控えていたロジャーが小さく頷いてくれたから、また二人で笑ってしまったよ。
 でもその後に、「お待ちください」って冷めてしまったスープをマリー達が素早く温かいものに替えてくれて、申し訳なかったなって思った。
 今度から食事の途中で物を取りに行くのはやめよう。そう言うと兄様は笑いながら「私も、嬉しくなっても食事の途中でエディを抱き上げるのはやめるね」って言うから、僕は顔が熱くなってしまった。

   ◇◇◇

 三の月が終わる頃、僕達はディンチ伯爵家の嫡男の訃報をエリック君から聞いた。どうやら没落してしまったベウィック公爵家と似ているところがあるらしい。
 エリック君は「おかしな噂が耳に入る前に」って教えてくれたけど、僕はまだこの話題が続いていたのかという気持ちだった。
 ディンチ家の次男とエリック君がお互いのお茶会に出ていたのはずいぶん前で、それでもどこかで顔を合わせると挨拶や近況を話すくらいには繋がっていた。その関わりから今回の情報が入ってきたんだって。
 僕は少し前に、元ハーヴィン領でアンデッドが彷徨さまよっているという噂を聞いて、色々考えて怖くなってしまった事がある。それで兄様とお話をして、この学園の中は魔物が出現した事件以来、アンデッドも入れないように結界を強化している事と、フィンレー家のタウンハウスや馬車には屍霊種系も寄せ付けない魔法陣が組まれている事、それから護衛にも聖神殿の護符を持たせている事を教えてもらって安心したんだ。
 それでも怖かったら……あうぅぅ、それは置いておいて。
 とにかく、噂の真相については父様達が調べているし、対策も取っているから大丈夫だよって言われてホッとしていたのになぁって、ちょっと憂鬱ゆううつになってしまったよ。
 でも似たような事が起きたっていうのは気になるよね。だって、ベウィック公爵家で起きた事件のほとんどが、実際は謎のままなんだ。それなのに似た事ってなんだろう。

「怖いなぁって思っていても、なんか知りたいなとも思うのって人間の心理だよね」

 合同の講義から魔法科の教室に戻って席に着くなり、ミッチェル君が小さな声でそう言った。すかさずスティーブ君が遮音の魔道具を机の上に置く。さすが、スティーブ君。

「た、確かに。でも聞いてから、ああ、やっぱり聞かなければ良かったって思う事も多いんだよね」

 トーマス君がすでにちょっぴり涙目になっている。
 うんうん。そうなんだよ。知らないのも怖いけど、知ってしまうのも怖いんだ。怖いってすごく嫌だよね。

「でも結局はよく分からないんだよね? リックもそれを前提に話していたと思うな」
「先ほどの話だとそんな感じだったね。おかしな噂よりも……という感じだったから」

 ユージーン君が言うとスティーブ君も頷きながら答えた。二人の言葉を聞いて再びミッチェル君が口を開く。

「うん。それは分かるんだ。ただ、ディンチ伯爵自身が神殿送りとなって、嫡男が亡くなってしまったとなると、やはり何があったのか気にはなるよね。だって、ディンチ伯爵家はハーヴィン元伯爵夫人の実家で、夫人が頼った時にそれを断ったんでしょう? その呪いかもっていう話も出ているみたいだしさ」
「やっぱりまたハーヴィンに繋がっちゃうのか……」
「あ、ごめん。その……」
「ううん。大丈夫だよ。ミッチェル。この前も言ったけれど、僕はもうずっと前からハーヴィンとはなんの関係もないからね」
「うん。そうだよね」

 ミッチェル君が笑ってくれたので、僕もふわりと笑い返した。

「とにかく今のところはっきりしない事も多いし、面白がって広めている者もいるから、もう少し明確になるまではむやみに情報を集めるのはやめましょう。リックもそのつもりで話した筈です。今分かっているのはディンチ家の嫡男が亡くなった事と、当主が神殿送りになったという事だけです」

 スティーブ君がそう言って僕達はコクリと頷いた。


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