悪役令息になんかなりません!僕は兄様と幸せになります!

tamura-k

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2巻

2-1

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 寝て、起きて、食べて、寝て……
 そんな事を一週間以上続けていたら、元気になりました! でも体力は落ちました!

「寝ているだけって、すごく体力がなくなっちゃうんだなぁ」

 僕はそう呟いて、窓の外に広がる青い空を眺めた。


 僕の名前はエドワード・フィンレー。六歳。四歳の時に今の父様が引き取ってくれて、フィンレー侯爵家の次男になったんだ。養子になる前はエドワード・ハーヴィンっていう名前だったけど、ハーヴィン家については専属の侍女だったマリーが助けてくれた事以外は、あんまり覚えていない。
 しかも気付いた時には僕の中には僕ではない誰かの『記憶』があって、その『記憶』の中の小説と、この世界がとてもよく似ている事に気が付いた。それだけでもびっくりなのに、その小説の僕は兄様を殺してしまう『悪役令息』だったんだよ!
 だから僕は『悪役令息』にならないように、兄様を殺さないように頑張っているんだ。
 でもね、この世界は確かに『記憶』の中の小説の世界に似ているけれど、違う事も沢山ある。
 だって父様も母様も兄様もとっても優しいし、ウィリアムとハロルドっていう小説の中にはいない二人の弟もいて、僕はすごく幸せなんだ。
 だけど半月くらい前に屋敷の敷地内に恐ろしい魔物が現れて、僕が魔力暴走を起こしたり、兄様が『転生者』に身体を乗っ取られたりして、ものすごく大変だった。
 でも、もう大丈夫! 僕も元気になったし、兄様は『転生者』から身体を奪い返して、僕と同じ『記憶』を持つ『最強の味方』になってくれたんだ。


 コンコンコンっていう小さなノックの音がした。「はい」って返事をするとドアが開いて、フィンレーでも僕の専属メイドになっているマリーが入ってきた。

「エドワード様、昼食のご用意が出来ました」
「ありがとう、マリー」
「ご気分はいかがですか?」
「うん。いい感じだよ。今朝はいつもよりも沢山食べられたしね。早くルーカスやマリーと一緒に追いかけっこがしたいな」
「少しずつですよ。ではテーブルの方に移動しましょう」

 マリーがそう言うと他のメイド達がやってきて、ベッドから部屋の中にあるテーブルセットのところに移動して昼食を取る。朝も大体こんな感じだ。

「お昼はどうしても、食べられる量が少なくなりますね」

 マリーが少しだけ困ったように言った。

「うん。だって、動いていないからお腹が減らないんだもの」

 そうなんだ。まだ歩く練習でお部屋の中をマリーと一緒に行ったり来たりするか、マッサージをしてもらいながら足を曲げたり伸ばしたりするくらいしか身体を動かしていない。それでも息が上がるから困る。

「食休みをしたら少し歩く練習をしてみましょう」
「頑張る!」

 勢いよく返事をした僕にマリーが小さく笑った。

「歩く練習の前に、気分転換で窓を開けてみましょうか」
「うん! 窓を開けて。出来ればもうちょっと窓に近くしてもらえるといいんだけどな」
「……それはもう少し先ですね。では肩掛けを羽織ってくださいね」

 マリーは僕に肩掛けを羽織らせると、窓を少しだけ開けてくれた。閉め切っていた部屋に流れ込んでくる外の風。

「寒くはないですか?」
「大丈夫だよ。気持ちいい」

 窓際で風に当たりながら外を眺める事は許してもらえなかったけど、マリーは椅子を窓の方に向けてくれた。ふふふ、さっきよりはよく見える。外の空気に触れるのはやっぱり嬉しいな。

「そういえば、マークが花壇に何を植えましょうか、と言っていました」
「あ、そうか。イチゴは親株が出来たらおしまいって言っていたものね。ネモフィラはどんどん増えるけど、そろそろ鉢に移して他の種を植えようって言われていたし。う~ん、何にしようかな。マリー、サイドテーブルの上にある図鑑を取ってくれる?」
かしこまりました」

 僕はマリーに取ってもらった植物図鑑をパラパラとめくり始めた。するとコンコンコンと扉をノックする音が聞こえてきた。

「誰かとお約束していたかな」
「いいえ」

 マリーが首を横に振る。まだお勉強もお稽古けいこも再開出来ないでいるので、僕の予定は今のところ何もない。

「エディ? いいかな?」
「……っ! アル兄様! は、はい! どうぞ!」

 僕は慌てて返事をした。それを聞いて扉がゆっくりと開かれる。現れたのは僕の大好きな兄様。アルフレッド・グランデス・フィンレー。この前十二歳になったんだよ。

「休んでいるところ、ごめんね」
「大丈夫です。アル兄様はこれからお勉強ですか?」

 僕はまだこんな状態だけど、兄様はもうお勉強もお稽古けいこも再開しているんだ。お昼が終わって顔を見に寄ってくれたのかなってちょっと嬉しくなった。

「ううん。今日の講義は午前中だけで、あとは少し剣の稽古けいこをするくらいかな。無理をしないで始めていこうって言われているから」
「そうなんですね。でも僕はまだ始められないなぁ」
「エディは食べられなかったり、眠れなかったりした日があったからね。でも最近はちゃんと食べているし、眠れているんだよね?」
「はい。もう大丈夫です」

 にっこり笑うと、兄様もにっこり笑ってくれた。
 僕が今、兄様たちと一緒に食事をしているのは夜だけなんだ。とにかく体力を戻すようにって言われていて、朝と昼はまだお部屋で食べている。それでもベッドでなくテーブルセットの方で食事が出来るようになったし、お部屋の中で歩く練習も始めた、それに時々、母様や双子たちが遊びにきてくれて賑やかになるんだよ。

「もうそろそろ普通になれるといいなぁって思っているんですけど」

 僕の言葉に兄様は「そうだねぇ」と顔を近づけてきて「じゃあ、おやつの時間は一階に下りてみる?」って尋ねてきた。

「いいんですか⁉」
「ふふふ、エディが早く元気になるように、シェフがドーナツっていうお菓子を作るって張り切っているんだって」
「ドーナツ? わわわ! どんなお菓子なんですか?」
「う~ん、私もよく分からないけれど、チョコをかけたり、クリームを入れたり、粉砂糖を絡めたり、なんだか色々言っていたよ」

 兄様がちょっとだけ困ったようにドーナツの説明をしてくれた。ふふふ、魔熊の事件が落ち着いてから兄様は自分の事を『僕』ではなく『私』って言うようになったんだよ。学園に入るから改まった時以外も全て『私』にするんだって。

「食べたいです!」
「分かった。じゃあシェフに用意するように言っておくね。母上がストロベリーティーを持ってきてくださるそうだから、図鑑は後にして少し眠ってからおいでね」
「はい!」

 僕が元気よく返事をすると、兄様は笑いながら「じゃあ、あとで」って部屋を出ていった。

「マリー、ドーナツ楽しみ」
「はい。では図鑑はほどほどにして少しだけ歩く練習をしたら休みましょう」
「うん!」

 こうして僕は図鑑を閉じると、マリーの言った通り少しだけ歩く練習をして、まだ見た事のないドーナツについて考えながらベッドにもぐった。


「パティ母様!」
「エディ、顔色が良くなってきましたね。本当に良かった」

 嬉しそうにそう言って、母様は僕の事をギュッとした。母様は双子たちがまだ皆と一緒に食事が出来ないので、朝だけダイニングで父様達と一緒にお食事をしているんだって。僕は今、夜だけダイニングに行って食事をしているから、会う機会が減ってしまったんだ。
 でもあと少しでウィルとハリーも一歳になるし、僕だって夜だけじゃなくて朝も昼もちゃんと食事がとれるようになる。そうしたらまた皆で食事が出来るよね。

「久しぶりのエディとのお茶会ね。今日は王都で流行はやり始めたドーナツっていうお菓子よ。食べすぎると大変な事になるけれど、今のエディは食べすぎた方がいいくらい。普通の大きさじゃなくて小さめのものを作らせたから色々な味を楽しみましょうね」

 母様はニコニコしてお話ししながら僕の隣に腰かけた。反対側には、やっぱりニコニコしている兄様が座った。
 大きなテーブルではなくて、四つの椅子でいっぱいになる小さめの丸いテーブルは、お顔が近くて、楽しくて、嬉しい。

「こちらが新作のドーナツです」

 シェフがお皿に載った、可愛いお菓子を持ってきてくれた。

「パンとパンケーキの中間みたいな生地を油で揚げて、色々なものをかけたり飾ったりしているんです」
「ふわぁぁぁ! 可愛いです!」

 僕は出されたそれをまじまじと見つめてしまった。まぁるくて真ん中に穴が開いている形のそれはシェフが言ったように粉砂糖が振りかけられていたり、ピンクや白や茶色の小さなチョコレートやナッツが飾られていたり、パリパリのお砂糖でくるまれていたりしていてとにかく可愛い!

「ど、どれから食べたらいいのか分かりません!」

 僕の言葉に母様が噴き出すように笑った。

「エディが元気になってきたからお祝いよ。どれでも好きなのを食べなさい。ちょっとずつかじっても誰も文句を言いませんよ。ほら、イチゴ味のチョコレートの粒々がかかったものはどう? 小さいからエディでも三つくらいは食べられるでしょう?」
「イチゴ味のチョコレート……」

 そう言われて僕はピンク色の粒々がかかっているドーナツをお皿に取った。すると兄様が「冬祭りみたいに半分こしようか」と笑った。

「はい、これは普通のチョコレートのかかったドーナツ」
「わぁ!」

 僕のお皿にチョコレートのドーナツが半分になって載せられた。

「あら、楽しそう。じゃあ、このシトラスのをこうして、はい!」

 母様もパリパリのお砂糖でくるまれたドーナツの半分を僕のお皿に載せる。

「エディ、このストロベリーチョコのドーナツも半分にして、こっちのナッツがかかっているのを半分載せよう」

 そう言うと兄様は僕のお皿をサッと引き寄せて、半分ずつのドーナツを綺麗に並べてくれた。

「わぁぁぁ、なんだかすごいです。アル兄様、ありがとうございます」
「さぁ、エディ、どれから食べようか? だけど食べきれないようだったら無理をしてはいけないよ」

 ニッコリと笑った兄様に、僕はコクリと頷いてもう一度ドーナツのお皿を見た。
 イチゴのチョコレートがかかったピンクのドーナツ。シトラス味のお砂糖がかかった白いドーナツ。普通のチョコレートがかかった茶色のドーナツ。そしてカスタードクリームの上にナッツがかかっているクリーム色のドーナツ。なんだかフィンレーに初めてやってきて色とりどりのマカロンを見たあの時と似ているな。

「ふふふ、迷います」
「そうだね。沢山のマカロンを見て迷っていたエディを思い出すね」

 僕はちょっとびっくりしてしまった。兄様はどうして僕が考えている事が分かっちゃうのかな。不思議だけどなんだか嬉しい気持ちになる。

「じゃあ、ピンクのイチゴチョコレートのドーナツを」

 そう言ってフォークとナイフを取ると母様が笑った。

「エディ。お行儀はあまり良くないけれど、ドーナツは手で持って食べると美味しいんですって」

 母様はそう言って僕と半分こしたドーナツを手で持ってパクリと口に入れた。

「ん~、美味しい」
「ええ……じゃ、じゃあ、僕も……あ、柔らかい! んん、美味しい!」
「ふふふ、気に入ったみたいね。良かったわ。沢山食べなさい」
「はい! アル兄様も召し上がってください! すごく美味しいです」
「じゃあ、ナッツが載ったのを食べようかな……うん。これは確かに美味しいね」
「はい!」

 僕は兄様が綺麗に並べてくれたお皿の上の四つの味のドーナツを全部食べてしまった。小さいとはいえ二つ分のドーナツだ。ふぅと息をついていると楽しそうな兄様の声が聞こえてきた。

「エディ、大変だ。新しいドーナツが来てしまったよ」
「ええ⁉」

 どうやら僕が喜んで食べていると聞いたシェフが新しいドーナツを作ってくれたらしい。

「アル兄様、僕、もう……」
「うん。でも見るだけ見てごらん。ほら、今度のはなんだか面白いよ」
「面白い?」

 そう言われて、運ばれてきたお皿を見た僕は思わず固まってしまった。だって、お皿の上にはウサギとか、ヒヨコとか、お花の形のドーナツが並んでいたんだ。

「か、可愛い! 兄様どうしましょう。すごく可愛いです!」
「エディ、赤いドーナツの中身はイチゴクリーム、白いのはチーズクリーム、ピンクはモモジャム、黄色はレモンクリームだそうよ」

 母様が丁寧に説明をしてくれた。

「全部美味しそうです!」

 でもどうしよう、お腹はもうそろそろいっぱいなんだけどな。

「……ゆ……夕ご飯はドーナツにします」

 僕がそう言ったら兄様が噴き出すようにして笑い出した。

「エディ、そんな悲しそうな顔をしないで。一口ずつ食べてみる?」
「それは、シェフに悪いです」
「大丈夫だよ。ちょっとずつでもエディが食べてくれたらシェフはきっと喜ぶと思うよ。それにあと二つずつくらいなら私と母上で食べてしまえる。ほら、口を開けてごらん」

 兄様は白いウサギのドーナツを一口の大きさに切ると、フォークに刺して僕の前に「あ~ん」と差し出した。ううう、やっと「あ~ん」で食べさせてもらわなくてもよくなったのに。

「エディ、早くしないと中のクリームがこぼれてきちゃうよ」
「わわわ」

 僕は慌てて小さくしてもらった白いドーナツをパクリと食べた。

「! アル兄様! チーズクリーム美味しいです!」
「それは良かったね」

 そんな僕たちを見ていた母様が飲んでいた紅茶のカップをソーサーに戻してゆっくりと口を開いた。

「エディ、一度落ちてしまった食事の量はなかなか元には戻らないと聞きますが、少しずつでいいから頑張って増やしていきましょうね。エディはもう少し太った方がいいわ。それにちゃんと食べないと身長も伸びませんよ。寝て、食べて、遊んでというのが子供の仕事です。魔法も、剣も、お勉強も大事だけど、一番は自分を大事にしてあげる事ですよ。自分を大事に出来ない子は他の人も大事には出来ません。覚えておいて、エディ。父様も、私も、アルも、弟たちも皆エディの事が好きよ。忘れないでね」
「……はい。パティ母様。僕も皆の事が大好きです」

 そう答えると母様はにっこり笑って、僕が美味しいって言ったチーズクリームのドーナツを口にして「本当に美味しいわね」と笑った。
 ちょっとお行儀が悪かったけれど、僕は残りの味のドーナツも味見するみたいに一口ずつ食べた。兄様がチーズクリームの時みたいに小さくして「あ~ん」ってしてくれたんだ。

「もうお腹がいっぱいです」
「ふふふ、ごちそうさま。エディ。気持ち悪くはなっていないね?」
「大丈夫です」

 でも小さなドーナツを三つ分くらい食べていると思うから、僕としてはかなり頑張った。美味しかったし、色々な味があったし、でも何より……

「パティ母様、アル兄様、ありがとうございました。久しぶりのお茶会、すごく楽しかったです」
「また開きましょう、エディ」
「私も久しぶりにエディに『あ~ん』って出来て楽しかったよ」
「…………今度はちゃんと自分で食べます」

 僕がそう言うと兄様は「たまには食べさせてあげたいな」とまた笑った。
 部屋に戻る前にシェフにもありがとうって伝えてほしいって頼んだら、兄様は僕の頭を撫でるようにポンポンってした。それがなぜか、すごく嬉しかった。


   ◇◇◇


 話はまだエドワードの意識が戻っていなかった頃――東の森にフレイム・グレート・グリズリーという想定外の魔物が現れた事件の翌日の晩にさかのぼる。
 フィンレーの当主であるデイヴィット・グランデス・フィンレーは三人の友人達に魔法書簡を送った。森の調査が思っていたより進まず、とにかく現状を友人達に把握してもらいたかったのだ。そしてその翌日、三人は全ての予定を投げうってフィンレーにやってきたのである。

「う~ん……なんとも凄まじいものだね。干からびているんだよね、触ってもいいかな」

 どこか楽しげにそう言って、緑に埋もれたような魔物の亡骸なきがらに触れているのはハワード・クレシス・メイソン子爵。

「ああ、なるほどな。こういう風に土に足を取られると、フレイム・グレート・グリズリーでも動けなくなるんだなぁ。土魔法は地味だってイメージがあるけど、なかなかどうして使えるね」

 しゃがみ込んで足元を観察してうなっているのはケネス・ラグラル・レイモンド伯爵。

「だけどなんだって、こんな化け物が北寄りの小さな森にいたんだろう。こいつはもっと暖かい土地にいるやつだよな。はぐれて出るって言っても無理がある。ここで生まれたというのもありえないしなぁ」

 しげしげと大きな体を眺めながら、草木の生えるその背中をポンポンと叩いたのはマクスウェード・カーネル・スタンリー侯爵。

「ああ、マックス、叩くな!」

 青い空と白い雲、五の月らしい爽やかな風と鮮やかな木々の緑。一昨日おととい起こった事が夢の中の出来事のように感じる東の森の入口で、四人の男たちはまるで年若い青年たちのような声を出していた。その少し後方にはエドワードの魔術と剣術の指導を行っているジョシュア・ブライトンとルーカス・ヒューイットが控えている。

「なんで出たのかはまだ調査中だよ。あの子たちがここに来る二日前に、この森の中の見回りをしていたんだ。その時にはこんなものはいなかったし、魔素だまりもなかった。大体魔素だまりからこんなものが湧いて出るなんてありえない事だからね」

 うんざりしたようにそう言うデイヴィットは本当に疲れ切った顔をしていた。
 出るはずのないフレイム・グレート・グリズリーが屋敷の敷地内にある、この小さな森に出たのは二日前。わずか七人で戦うにはあまりにも桁違いの化け物だった。
 しかもまだ六歳のエドワードが魔力暴走を起こして倒したと聞いた時は、本当に言葉を失ったものだ。よくぞ生きていてくれたとしか言いようがなかった。
 戦いの後、意識を失ってしまった息子たちを神殿に連れていき、治療をしてもらい、護衛たちとメイドのマリーにも治癒魔法をかけて話を聞き、緑色にこけむしたフレイム・グレート・グリズリーには、保存魔法と隠ぺい魔法をかけさせた。その日のうちに父であるカルロスにも連絡をした。森を含めた周辺にまで結界をかけたのはカルロスだった。
 念のため、森だけでなく屋敷の敷地全てを調査対象として現在も調べを続けているが、これといった手掛かりはない。

「さすがにこのクラスの魔物だと、王室に届け出て、報告をしないとまずいな」

 こけむした魔熊を見つめたままマクスウェードが口を開いた。

「ああ、分かっている。だが、これを倒したのは私と魔導騎士たちだ」

 すかさずデイヴィットが答えたが、その顔は渋く、眉間に数本の縦皺が寄せられていた。
 上位の魔物が出たり一度に多数の魔物が出たりした場合は、近隣への注意を促すために王室に報告をする義務がある。そのためにも出来るだけ早く調査をしてまずは届け出を、そしてその後さらに詳しい調査をして最終的な報告をしなければならない。
 しかし倒したエドワードはまだ意識が戻っていない。そしてアルフレッドは……

「ううん。どこまで隠し通せるかだな。まぁ幸い屋敷の敷地内の事だから、居合わせた騎士たちにしっかり誓約をさせればとりあえずは大丈夫だろうけど」

 ケネスも眉根を寄せながらうなるように口を開いた。だが、いくら隠してもいつの間にかどこからかれる事はあるものだ。

「これをそのまま見せるわけじゃない。証拠として緑化の少ないこの爪の部分だけを持っていく。あとはバラバラになってしまったと言うさ。これ自体は父が研究のために引き取るといっているから、近日中に空間魔法を付与したとんでもないものを持ってきて持ち帰るんじゃないかな。生き物でなければマジックボックスに入れる事が出来るしね」

 それを聞いてマクスウェードが信じられないと言わんばかりの顔をした。

「これが入るマジックボックスって……まぁ言うだけ無駄か。どうせあの御仁ごじんの事だから、この伸びて絡んでいる木も、脚を固めている土までも持っていくんだろうな」
「ああ、やるだろうね。そのために自ら空間魔法を鍛え上げた人だから」
「きっと今頃、これを置く場所を嬉々として作っているんだな」

 ケネスは苦笑しながらそう言った。

「ああ。そうだね。だからカルロス様のところに行けばいつでも見られるって事さ。もうなんて言うか本当に芸術的だよね」

 そう締めくくったハワードに、三人は「ああ、ここにも同じような人間がいたな」というような顔をした。

「しかし、こうして実物を見ても、これが炎の魔熊と呼ばれるフレイム・グレート・グリズリーだったとは信じられないな」

 マクスウェードがそう口にするのも無理はない。デイヴィット自身、何度見てもそう思うからだ。あちこちの木々から伸びた枝を巻きつかせたまま、干からびてこけむした体。土にとらわれた足。くぼんで光を失った瞳。まるで咆哮ほうこうを上げたまま時を止めた獣のオブジェだ。

「実際の状況を見ていた護衛たちの話を聞くと、エドワードが魔力暴走を起こして空中に浮かび上がり、自分の周りに石や土や水などを旋回させてから一気に飛ばしたと。そしてその後、土が生き物のようにグリズリーの足を固め始め、周りの木や草が伸びてきて、本来なら火に弱い木がまるで緑の鎖のように絡みついたと思ったら、グリズリーが見る間に骨と皮になり、こうなった、らしい」
「見た事も、聞いた事もない魔法だ。それがグランディス様の加護なのか?」
「まぁ、まだエドワード君自身の加護の正式な鑑定をしていないからなんとも言えないけど。おそらくはそうなんじゃないかと思いますよ」

 ケネスの問いかけに、ハワードは眼鏡を指で上げながらそう答えた。

「結局のところグランディス様の加護っていうのはどういうものなのか分かったのか?」
「簡単に言うね、マックス。相手はお伽話とぎばなしだよ?」
「それは分かっているさ。でも実在したっていう可能性は高いんだろう?」
「可能性ではなく以前にも言ったが、グランディス様は実在されたんだ」

 言い切るデイヴィットに「そうですね」と答えながらハワードが言葉を続けた。

「ですがその力に関しては前も言ったように、痩せた土を麦の二期作が出来るような畑に変えたとか、魔素のある森を綺麗にしたとか、森の泉から水を引いてきたとか、干からびていた土地に雨を降らしたとか、そういったものばかりでね。加護自体の力の特定は難しいんです。でもそれらしいものは見つけましたけど」
「見つけたのかよ!」

 ケネスが声を上げた。

「ふっふっふ、まぁ慌てずに。まだ確認段階ですよ。とりあえず、フレイム・グレート・グリズリーの現状は把握しました。また何か調べたくなったら今度はカルロス様のところに行きます。ではデイヴ、次はこれが出てきた場所にお願いします」
「ああ。ルーカス、案内してくれ」
「はい」

 後ろにいたルーカスが先頭になって歩き出し、ジョシュアは時を止めた魔熊をもう一度眺めてから隠ぺい魔法をかけ直して最後尾に付いた。

「森と呼ぶのをはばかられるようなところだな。とてもあんなものが出るとは思えない」

 ケネスがらした言葉を聞きながら、ルーカスは胸の中でため息をついた。
 そう、あんなものが現れるなんて誰も想像しなかった。魔熊が暴れ回って走った森の小径こみちは、あの日エドワードが嬉しそうにワイルドストロベリーを探しながら歩いていた小径こみちと同じとは思えないほど荒れていた。

『わぁ、すごい。きれいだなぁ』

 嬉しそうにそう言っていた。走り出して転ぶと注意されると『大丈夫です、アル兄様。僕、毎日鍛錬たんれんで追いかけっこしているから』と笑っていた。
 愛らしい教え子はいまだに目を覚まさないという。もっと、自分が、もっともっと強ければ。剣だけでなく、魔力量が少なくとも魔法も磨いていればよかった。

「……こちらです。この花の群生の向こうからいきなり姿を現しました」

 ルーカスが指差したのは歩いていた道からほんの少し奥に入った場所だった。
 森の入口から大人がゆっくりと歩いて十数分。東の森は小さな森なので、ここで中間より少し手前くらいだ。しかも道から外れたといってもそれほど深く入っているわけではない。三ティル(三メートル)ほどで、ここからも覗けるような場所だ。そしてそこは今、群生して咲いていたブルーベルの花も、辺りの樹木も草も無残な状態になっていた。

「こんな浅いところからいきなりあいつが出てきたのか?」

 マクスウェードが信じられないと言わんばかりの顔をする。

「はい、しかもこの道は行きにも通っているのです。もう少し先に進んでワイルドベリーを摘んでマルベリーの木を探しながら戻ってきました。そして、エドワード様があそこに咲いていた花を見たいと言って道を外れました。しかしその間、魔物の気配は感じられませんでした」
「……ありえないな」

 ケネスがバッサリと切り捨てるようにそう言った。あれだけの魔物がまったく気配を感じさせずに突然現れるなど考えられない。

「例えば……どこかの馬鹿が送り込んできたとか、召喚させたとか。まぁ、ありえないけど」

 自分で口にして、すぐさまそれを否定するハワードにデイヴィットは頷いて答える。

「ああ、ありえないな。うちの敷地内にあれを転送したり、ここで召喚などをしたりしたら、いくらなんでも分かるさ。先ほども言ったが、そういった魔法の痕跡は見つけられなかった」

 そう、そんな事はもう調べ尽くしているのだ。それでもこうして駆けつけてくれた友人たちにはきちんとした説明をしておきたい。デイヴィットの気持ちが分かっているのか友人達も「そうか」と頷いて、青い釣鐘つりがね状の花が咲いていたというそちらへ足を踏み入れた。

「確かに。調べ尽くしたという通り、なぜ現れたのか分かるようなものはないな。空間のじれの痕跡も感じない」
「ああ、何度も調べさせたよ。だが調べれば調べるほど、なぜあんな化け物がいきなり現れたのか分からなくなる」
「だが原因が分からないというのは恐ろしいな。こんな事が他でも起きたら大変な事態になる。たまたまフィンレー家の敷地内にある森に現れて、たまたま魔力暴走を起こしたエドワード君が倒してしまったけれど、これが違う場所だったら大災害だ」

 難しい顔をしたマクスウェードの言葉を聞きながら、ケネスがポツリと声を出した。

「……エドワード君の魔力暴走を狙った、とは考えにくいか」
「無理があるだろう。大体エドワードがここに来るなんてその日に決めた事なんだ。第一、エドワードに加護がある件を知っている人間自体限られているし、その加護についても未知の事ばかりだ。あんなものを向かわせる意味がない」

 デイヴィットが答える。

「だが、不自然すぎる」
「うん。ケネスの言う事は分かる。あまりにも不自然だ。普通であれば考えられない現れ方も、いる筈のないランクの魔物である事も。だが、厄介なものを始末してしまおうという動きも今のところ見つけられない」
「ハワード、言いすぎだ」

 マクスウェードがたしなめるようにそう言うと、ハワードは眼鏡を押し上げながら振り向いた。

「ああ。だけど今後、エドワード君がいる事でフィンレーがさらに大きくなる事を面白く思わない人間だって出てくるかもしれない。様々な方向から、色々な可能性を考えておかないと、その時に対応出来ないからね。そのためなら私は嫌な事だって言葉にするよ」
「……分かっている。ありがとう、ハワード。どうしたらいいのか、何が起きる可能性があるのか。親として、あの子を守るために、私も考えるよ」

 デイヴィットはそう口にしてギュッと目を閉じた。それを見てケネスがポンとその肩を叩く。

「ああ、考えよう。俺たちも考える。何が起こりうるのか。とりあえずはどうやってあれが現れたのかは不明。向けられている敵意は今のところはなし。くだんの公爵家と王家も特別な動きはない。ハーヴィンは自分の領の事でこちらへ目を向ける余裕はないし、エドワード君を取り戻すって話も頓挫とんざしているんだろう?」
「ああ。それどころじゃない感じだね。もう泥沼。そろそろ王家の方にも醜聞しゅうぶんが届くはずだよ」

 それが届くように画策している本人は、当然だと言わんばかりにそう口にして「馬鹿はとんでもないところで恨みを持つから、今後もしっかりと把握していないとね」と付け加えた。
 こいつは昔からこういう奴だったと、三人は頭の中でそう思いながら息をついた。男たちの間に沈黙が流れた。そして……

「なぁ、ふと思ったんだが、こんな事が他でも起きているんだろうか?」
「え?」
「私たちはなぜここに現れたのか、そして、もしも他でこんな化け物が現れたらという話をしていたが、他でも起きているのかという点はどうだろう。こんな上位ランクの奴じゃなくて、例えば以前、そんな事例のなかった街道沿いに魔獣が出たって話があっただろう? 同じように今までであれば考えにくいものが現れているところはあるんだろうか? 以前よりも魔物が多く現れているという噂は聞いているか?」

 ケネスの問いに、他の三人は思わず黙り込んでしまった。今回と同様に大きな魔物が現れたなら国に報告されるが、それほどではないものであればその場で終わる。だが、その数はどうなんだろう。

「……ああ。そうだね。もしもそういった事が増えているなら、確かに気になるな。そしてそれとは別に、これほどのものが本当に自然に湧き出たという可能性がほんの少しでもあるのなら、これはもはやフィンレーだけの問題ではない。それも頭の中に入れておかないといけないね」
「……一体、何が起こり始めているのだろう……」

 四人はそう言って焼け焦げた森から空に視線を向けた。自分たちの計り知れない事が起こっているのかもしれない。それが何なのか、調べていかなくてはいけない。
 過去に同じような事象がなかったか。他のところで同じような事象が発生していないか。

「ところで神殿に連れていったそうだけど、二人の調子はどうなんだ?」

 マクスウェードが重い空気を断ち切るように口を開いた。

「ああ……」

 その問いにデイヴィットが顔をくもらせる。

「なんだ? どうかしたのか?」
「ああ、二人とも神殿からは戻ってきたんだが、エドワードはまだはっきりと意識が戻っていないような状態だ。時折ぼんやりと目を開けたり、うなされたりしている。大きすぎる魔力の放出に身体がついていかなかったのだろう。治癒の後、確認のために見てもらったが、魔力暴走を起こしたにしては、魔力は枯渇していなかったそうだ。精神的なものが大きいと言われたよ。アルフレッドはエドワードの魔力暴走を止めた時の怪我は治してもらったんだが、記憶が……」
「……っ! なんだって?」
「まるでアルフレッドではないみたいだ。受け答えもおかしいし、分からないとか思い出せないとばかり口にしている。全てが分からなくなっているわけではないようなので、一時的なものだと思って様子を見ている状況だ」
「なんて事だ……」

 マクスウェードが信じられないとばかりに首を振った。幼い時から見ていると、お互いの子供たちがまるで親戚の子供のように思えるのだ。

「早く良くなる事を祈っているよ」
「ありがとう」


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