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第5章
母の思い
しおりを挟む翌朝、隣にはもう、彼の姿はなかった。
ベッドを出ると肌寒い空気を感じ、カーディガンを羽織って部屋を出る。腕をさすりながら体を震わせ、辺りを見渡した。けれど、彼の気配はどこにもなかった。
その代わり、ベランダに立つ聖子さんの姿が見え、おもむろに近づいていく。
「寒くありませんか?」
後ろからそう声をかけると、彼女はハッとしたように振り返った。
「ええ。外の空気を吸いたくて。おはよう。」
「あ、おはようございます。」
手には温かそうなコーヒーを持ち、ゆっくりと部屋へ入ってくる。
「あの、千秋さんは。」
私はそんな聖子さんの姿を目で追いながら、いまだ姿の見えない彼を気にした。
時刻は八時。
いつもなら、ちょうど起きてくるような時間だった。
「千秋なら、朝早くに出てったわよ?緊急の要件を思い出したからって」
「そう、ですか.....」
緊急の要件。
思わず、その意味を勘ぐってしまう。
きっと、昨日の夜のことが関係している。私が起きる前にと、気を遣って出て行ったに違いない。
ぽっかりと心に穴が空いたように、気持ちは沈んでいた。
「晴日さん」
そんな中、立ち尽くしている私を前に、顔を覗き込んできた聖子さん。ハッとすると、そのままソファの方へと促された。
「私、あなたに謝らなくちゃ」
すると思わぬ喋り出しに驚き、言葉が出なくなった。
「えっと.....」
「ごめんなさいね。昨日、あの部屋でふたりが話してるのを、たまたま聞いてしまって」
あの部屋。ふと、ゲストルームで話していた千秋さんとの会話を思い出し、サーッと血の気が引いていった。
「あの、いや、あれはその.....」
明らかな動揺を見せ、怪しさしかない私の言動。
そうと分かっていても、まだハッキリとは起きていないこの頭で、こんな不意打ちに対応できるはずもなく。無駄に手を動かしながら、ただただ慌てていた。
「あ、いいのよっ。違うの。」
すると、なぜか聖子さんまで慌て出す。
訳がわからずに固まってしまうと、優しい表情でニコッと私に微笑みかけてきた。
「私、薄々気づいてたのよ。あなたたちの関係。もしかしたらって、本当になんとなくなんだけど」
「え......」
「パーティーで会った時、それに昨日のふたり。嫌ねえ、年の功って言うのかしら。 何かあるような気がして」
聖子さんは、ハッキリとは言わなかった。
けれど、きっと分かっている。
私たちの関係が偽りであることに、勘づいているようだった。
「やっぱり、そうなのね。」
複雑な思いを胸に黙り込んでしまうと、聖子さんは察したように切ない表情を浮かべる。
息子の結婚が、実は偽装だった。
そんな話、誰だって悲しいに決まっている。私は、残酷な事実を、彼女に突きつけてしまったのだ。
「すみませんでした。」
『千秋のこと頼みますね』
パーティーの日。聖子さんに言われた言葉を思い出し、どうしようもなく居た堪れない気持ちになった。
「ううん、違うの。謝るのは私の方。」
しかし、聖子さんはなぜか落ち着き払った様子でいた。
「きっと、全部私のせいね。小さい頃からずっと放ったらかしにしてきたから、ひとつくらいは母親らしいことがしたくて.....。でも、あの子にとっては、取ってつけたようにしか見えなかったのかもしれないわね。今更、結婚のことにだけ出しゃばってくるような母親なんだから」
「そんな.....」
「いいの。でも、そのせいで、あなたのことも巻き込んでしまったんでしょう?本当にごめんなさい」
すると、そう言って最後には頭を下げてきた。目の前で起きたことに頭が追いつかず、私は心底驚いた。
結果的に嘘をついていたのは、私たちの方。それなのに原因を作ったのは自分だと責めて、そんな姿を見せられたら、心が痛くて仕方がなかった。
こんなの、私を責めてくれた方がずっとマシだった。
「違うんです」
耐えられず、突発的にそう声を出した。
彼が隠し続けてきた私たちの関係。家を出た私を、わざわざ呼び戻してまで、ご両親に隠したかった関係。
時期を見て話すとは言っていたものの、もう隠してはいられなかった。
「千秋さんの本心は分かりません。でも、巻き込まれたわけじゃないんです。むしろ、私の方が助けられてたんです。」
顔を上げ、驚く聖子さんを見て、思わず目を逸らす。
不安げな表情を浮かべながら、膝に置いていた手にギュッと力がこもった。
「私、実は父に勘当されてたんです。他にも色々あってからヤケになってて、人生どうでもいいって、そう思ってました。でも、そんな私に、千秋さんが居場所を与えてくれたんです。そばに居てくれて、幸せだって思わせてくれて.....」
その瞬間、グッと込み上げてくる切なさ。
力のない笑みを浮かべ、鼻からスーッと息が抜けていった。
「でも、それは全部、私が可哀想だったから。ただ、それだけなんですよね。」
浮かべていた笑みも、だんだんと消えていく。
千秋さんは、私の家を救っただけ。ただそれだけ。
「あなた......」
俯く私は、そう言った聖子さん声も、耳には入ってこなかった。
「晴日さん」
すると、突然冷たい手が触れ、ビクッと我に返る。
「あなた、きっと大きな勘違いをしてる。」
そのまま、そっと両手で私の手を握った彼女は、優しい瞳でこちらを見つめた。
「こんな母親だけど、これだけは分かる。多分、あの子はそんなにお人好しな人間じゃないわよ?」
そして、ニッコリと笑いかけてくる聖子さんに私は頭が混乱していた。
その言葉にどんな意図があるのか。彼女の真意がわからず、目を泳がせた。
「あと、ひとつ良いことを教えてあげる。」
パッと私から離れ、コーヒーのカップに手を伸ばした彼女。そのままゆっくり背もたれに寄りかかると、クスッと笑みを浮かべた。
「今朝、千秋が出かけていくところに鉢合わせてね。そしたら、わざわざ私に言ったのよ?〝昨日は慣れないことをさせてしまって疲れただろうから、彼女が起きてくるまでは起こさないであげてください〟ってね。あの子、あなたのことが本当に大事なのね」
その瞬間、私は言葉が見つからなかった。
優しかったり、冷たかったり、いつも掴めない彼の心。何が本当で、何が嘘なのかも分からない。何を信じたらいいのかも分からない。
だけど、なぜかその時は、無性に彼の言葉が胸に刺さった。
「私、晴日さんに感謝しなくちゃいけないわね」
「え?」
「だって、千秋のあんなに優しい表情を見せてくれたんですもの」
うっすらと涙を浮かべ、その光景を思い出している様子の聖子さん。そんな彼女の表情が、全てを物語っていた。
千秋さんの優しい表情。
それが、私の心を余計に戸惑わせた。
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