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第5章

1日限りの夫婦

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 あっという間の日々が過ぎ去り、気づけば約束の土曜日を迎えていた。

 創くんと食事を終えた後、私は勇気を振り絞って千秋さんに連絡を取った。何度も携帯と格闘しながら、悩み抜いて出した結論。

 もう一度だけ彼に会ってみようと思った。


 迫ってくるその日に緊張しながら、生活を送る毎日。

 どんな顔をして会おう、どんなテンションでいこう、第一声は何にしよう、と。

 散々考えたけれど、結局何も浮かばずに迎えたその日。モヤモヤした気持ちのまま、勇気を出してチャイム押した。

 しかし、そんな心配も無意味でいざ対面してみると意外にも呆気ないものだった。


「お久しぶりね、晴日さん」
「お招きありがとう」

「ご無沙汰しております。どうぞ上がってください」

 千秋さんのご両親が帰国すると聞いていた土曜日。その日は、彼の自宅で一緒にディナーをすることになっていた。

 緊張気味にご両親をリビングへ案内しながら、千秋さんと一瞬だけ目を合わせる。

 私の役目は、妻を演じること。ご両親に疑われないこと。

 抱擁を交わす親子の姿を前に、複雑な心境で大きく深呼吸をした。


「まあ、こんなご馳走まで作ってくれて。晴日さん、料理がお上手なのね?」

 久しぶりに会った彼のお母さん――聖子さんは、変わらぬ美しさ。紳士的なお父さんに椅子を引かれ、ゆっくりと座る上品な姿に、思わず目を奪われた。

 聖子さんは、これから大きな海外ツアーを控えていながら、忙しい合間をぬい、私に会いにきてくれた。

 それは、あのパーティーでゆっくり話すことのできなかった息子の妻と、時間を作って話をするため。


 そんなことを聞いてしまったら、ただでさえ妻を演じるという重圧に緊張しているところなのに、私はどうにかなりそうだった。


「すみません。実は今日の料理、ほとんど千秋さんが。」

「千秋が?あなた料理なんてできたの。」


 テーブルに並べられた料理。それは家庭料理とは思えない出来栄えだった。

 昼間、私が着いた時にはもうある程度の下準備が整っていて、私はそれを手伝っただけ。席をセッティングして、簡単なサラダを作って、大したことはしていない。

 ほとんど、ひたすらキッチンに向かっていた彼が作ったものだった。


 本来なら、妻らしく自分も作ったかのように見せたいところだけれど、これではそんな嘘もつけない。それほど完璧なディナーだった。

「千秋さんのお料理、初めてですか?」

「ええ、あの子がキッチンに立ってるところなんて、初めて見たもの」

 そう言いながら、ボーッとキッチンに目をやる聖子さん。

 私も立ったままつられて視線を向けると、突然、半年前の光景が蘇ってきた。

 短い間の、数少ない思い出。

 色々な記憶が頭の中を駆け巡り、どれもこれも昨日のことのように思い出される。ろくに目も合わせず、淡白な会話しか交わすことのできない今日とは大違い。

 あの日々は幸せだった。


「まあ、本当に美味しかったわ。ねえ、あなた」
「ああ、美味かったよ。千秋にこれほど料理の才能があったとはな」

 食事を終え、満足そうに口を揃えて言うご両親。

 私は気を遣ってばかりで、美味しいはずの料理もあまり味わえずにいたけれど、ひとまず乗り切れたようでホッとしていた。

「母さん、明日は何時の便です?教えてくれれば、ホテルから送りますよ。」

 相変わらずのよそよそしい敬語は、どれだけ聞いても歯痒さを覚える。作られた笑顔を隣で見つめながら、少し悲しくなった。

「ああ、そのことなんだけどね?ここ、ゲストルームとかあるのかしら。」

 すると、何かを思いたったように立ち上がる聖子さん。その瞬間、パッと顔を上げ、なんだか嫌な予感がした。


「今日ね、ここへ泊まらせてもらおうと思って」

「え」
「え?」

 そして、予感は的中する。

 聞こえてきた突拍子もない発言。サーッと血の気が引く思いで、顔が引きつった。

 私たちは目を合わせる暇もなく、途端に声だけが漏れ出す。固まった表情のまま、一瞬沈黙が流れた。

「聖子。新婚の家にそれはないだろう。近くにホテルでも取ればいいじゃないか」

 そんな空気を察してか、慌てだすお父さん。しかし、そんな言葉を笑い飛ばし、聖子さんは笑顔で返した。

「あら、いいじゃない。海外ツアーが始まれば、もう何年も帰ってこられないかもしれない。だからいいでしょ?ねえ、晴日さん」

 そんなご両親の会話に巻き込まれれば、私が対処なんかできるはずもない。向けられた三つの視線にたじろぎ、ただただ笑顔を作ってこう答える。

「はい」

 私にできたのはこうして頷くことくらいだった。


「ごめん、ここまで巻き込むつもりじゃなかったんだけど」

 リビングにご両親を残し、ゲストルームのベッドメイキングをしに来たところ。後から、静かに扉を開けて入ってきた千秋さんを見て、私は首を横に振った。

「いいんです。むしろ、はいって言っちゃったのは私の方だから」

 そう言いながら平静を装い、抱きしめるように持っていた布団カバーを広げ、彼に背を向ける。

 でも内心は穏やかではなかった。

 ご両親がここへ泊まるとなると必然的に私もここへ泊まることになる。

 そんな展開は予想しておらず、今日一日で帰ると思っていた私は、あれからずっと動揺している。そして、それが伝わってしまわないかと、ひやひやものだった。

 私はそれ以上何も言わず、黙々とベッドを作り続ける。

 その時、横からスッと伸びてきた手。何を言うわけでもなく、枕カバーをセットしながら、近くの椅子に座り込む。

「あの人たちには、時期を見てちゃんと伝える。だから、今回だけ。こんなお願いすることは、もうないと思うから」

 その瞬間、手が止まりギュッと胸が締め付けられた。なぜだか、無性に切なくなる。

 まだ、何も聞けていない。まだ、何も分かっていない。何が真実で、何が嘘で、どんなことが隠されていたのか。

 私は何も知らないままだった。

 フワフワと気持ちが宙に浮いたまま、時間だけが過ぎていく。それから、その部屋を出るまで、どちらも沈黙を破ることはなかった。

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