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「……匂いますか?」
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馬車の中で、花から生まれた姫の話をしているクリス王子が花のようだった。
「うぐ……」
「お口に合いませんか?」
だったらすぐに下げさせよう、という意味をこめて王子が言う。俺は「いや」と首を振った。料理に問題はない。
ただ食欲をそそる鶏の匂いよりもずっと、クリス王子の匂いが鼻につく。食事どころではない。食べたものがそのまま熱として股間に溜まりそうなのだ。
勘弁してほしい。
本気で泣きそうになったのは何年ぶりだろう。きっと個室なのがいけなかった。たとえ我々の護衛が他の客の邪魔をしても、大衆的な店を選ぶべきだった。
甘い、胃袋よりも下をつかむ匂いがこもっている。
「少し喉に詰まらせただけだ。失礼」
「とても美味しいですわ」
「おいしい!」
ああ、妻と子供が嬉しそうに食事をしている。良い光景だ。それを目に焼き付けよう。大丈夫だ、俺は大丈夫だ。
王子を見た。
大丈夫ではない。
早急になんとかしてほしい。それを伝えようにも、大きなテーブルが邪魔をしている。さすがにこれを乗り越えてまでひそひそ話はできない。異様すぎる。
そうだ、娘が一緒に食べたいなんて言わなければよかったのだ。娘よ、彼はオメガなのでおそらくおまえには反応しない。いや、なんたる下衆な考えだ。娘の気持ちは恋に憧れるだけの子供のものだ。
父はもうだめかもしれない。
しかし、戦う前から諦めてはいけない。なんとかしないと。なんとか、王子をこの場から脱出させるのだ。そして人気のない場所で……違う。
早くなんとかしなければ。
なんとか……。
そうだ。
天啓を得た俺は、皆がこちらに注目していないのを確認し、皿の中のソースをぺっとクリス王子に飛ばした。
「あ」
王子は驚いている。それはそうだ。マナーを熟知した者同士の食事で、こんなことが起こり得るはずがない。
「……すまない!」
俺は上手くいったことに安堵し、それから慌てて謝罪した。王子の胸のあたりがべったりとソースで汚れてしまっている。
「ああ、いえ」
クリス王子は穏やかに笑うと席を立った。
「マルファス様のせいではないですよ。僕がうっかり……跳ねさせてしまいました。少し失礼を」
なんということか、王子は不作法の責を自分で負うと、美しく席を立って個室を出ていった。
「……」
安堵と罪悪感がすさまじかった。王子はわずかたりとも俺に腹を立てた様子はなかった。見事だ。
妻が信じられないという視線を向けてくる。
「あなた……料理が気に入らないんですか?」
俺がソースを飛ばしたシーンこそ見ていないだろうが、まず俺が謝ったのだから、俺の無作法であると気づいているのだろう。
「いや、そうではない。ただむせてしまって……すまない、謝罪してくる」
王子をここから出て行かせることだけを願っていたが、考えてみれば、それだけでは解決しない。きちんと話をしなければ。
個室を出ると、俺の護衛のうちのひとりが休憩室の入り口を守っていた。王子はそこにいるのだろう。
「……彼の護衛は?」
「着替えを用意すると……」
「ああ。すまない。俺のせいだ」
あちらは身軽すぎる様子だったので、着替えは買ってくるしかないのだろう。俺の着替えを貸してもいいのだが、ここは彼らの町だ。恐らくそう時間はかかるまい。
「クリス王子」
護衛の者にはそのままそこを守るように告げて、俺は休憩室の中に入った。水が用意され、ご夫人が化粧を整えるのに使うことが多いので、椅子と鏡が置かれている。その椅子のひとつに王子が腰掛け、服についた汚れを見ているようだ。
「すまない」
「いえ、こちらこそ。……匂いますか?」
「まあ……」
だが恐らく俺にしかわからない匂いなのだ。あのつがいが気づいていないのだから、近くにいるのもあるが俺が過敏すぎるのだろう。
「すみません、追加で薬を飲んだんですが、即効性のものを短い間隔で飲むのは止められているので、少し遅くなります」
「それは構わないが……大丈夫なのか?」
たとえ穏やかな効果のものでも、あまり飲まないほうがいいはずだ。
「ええ、まあ、たぶん」
たぶん。
「今日は帰ったほうがいいのではないか?」
「いえ」
クリス王子は即答してから、困ったように首を傾げた。
「……そこまでひどいですか?」
「いや、そんなことはない。俺以外は気づいていないだろう」
「ですよね。ヴィーも気づいてないみたいだ」
「……言わないのか?」
すると王子は眉根を下げて、子供のような困り顔をした。
「帰れって言われそうだし」
言っていることも子供じみていた。完璧な王子の姿をしていながら、その隙が愛らしくてならないのだ。俺は目をそらした。
すると彼の首筋にもソースが飛んでいるのを見つけた。
「クリス王子、失礼」
なんといっても自分のしでかしたことである。俺はハンカチを取り出し、王子の首に押し当てた。
「ん」
無防備で素直な王子は顔を上げる。首のソースを拭き取り、下まで流れてはいないかと、俺は襟元を覗き込んだ。
その時だ。
「殿下、着替えを」
扉が開いた。
「うぐ……」
「お口に合いませんか?」
だったらすぐに下げさせよう、という意味をこめて王子が言う。俺は「いや」と首を振った。料理に問題はない。
ただ食欲をそそる鶏の匂いよりもずっと、クリス王子の匂いが鼻につく。食事どころではない。食べたものがそのまま熱として股間に溜まりそうなのだ。
勘弁してほしい。
本気で泣きそうになったのは何年ぶりだろう。きっと個室なのがいけなかった。たとえ我々の護衛が他の客の邪魔をしても、大衆的な店を選ぶべきだった。
甘い、胃袋よりも下をつかむ匂いがこもっている。
「少し喉に詰まらせただけだ。失礼」
「とても美味しいですわ」
「おいしい!」
ああ、妻と子供が嬉しそうに食事をしている。良い光景だ。それを目に焼き付けよう。大丈夫だ、俺は大丈夫だ。
王子を見た。
大丈夫ではない。
早急になんとかしてほしい。それを伝えようにも、大きなテーブルが邪魔をしている。さすがにこれを乗り越えてまでひそひそ話はできない。異様すぎる。
そうだ、娘が一緒に食べたいなんて言わなければよかったのだ。娘よ、彼はオメガなのでおそらくおまえには反応しない。いや、なんたる下衆な考えだ。娘の気持ちは恋に憧れるだけの子供のものだ。
父はもうだめかもしれない。
しかし、戦う前から諦めてはいけない。なんとかしないと。なんとか、王子をこの場から脱出させるのだ。そして人気のない場所で……違う。
早くなんとかしなければ。
なんとか……。
そうだ。
天啓を得た俺は、皆がこちらに注目していないのを確認し、皿の中のソースをぺっとクリス王子に飛ばした。
「あ」
王子は驚いている。それはそうだ。マナーを熟知した者同士の食事で、こんなことが起こり得るはずがない。
「……すまない!」
俺は上手くいったことに安堵し、それから慌てて謝罪した。王子の胸のあたりがべったりとソースで汚れてしまっている。
「ああ、いえ」
クリス王子は穏やかに笑うと席を立った。
「マルファス様のせいではないですよ。僕がうっかり……跳ねさせてしまいました。少し失礼を」
なんということか、王子は不作法の責を自分で負うと、美しく席を立って個室を出ていった。
「……」
安堵と罪悪感がすさまじかった。王子はわずかたりとも俺に腹を立てた様子はなかった。見事だ。
妻が信じられないという視線を向けてくる。
「あなた……料理が気に入らないんですか?」
俺がソースを飛ばしたシーンこそ見ていないだろうが、まず俺が謝ったのだから、俺の無作法であると気づいているのだろう。
「いや、そうではない。ただむせてしまって……すまない、謝罪してくる」
王子をここから出て行かせることだけを願っていたが、考えてみれば、それだけでは解決しない。きちんと話をしなければ。
個室を出ると、俺の護衛のうちのひとりが休憩室の入り口を守っていた。王子はそこにいるのだろう。
「……彼の護衛は?」
「着替えを用意すると……」
「ああ。すまない。俺のせいだ」
あちらは身軽すぎる様子だったので、着替えは買ってくるしかないのだろう。俺の着替えを貸してもいいのだが、ここは彼らの町だ。恐らくそう時間はかかるまい。
「クリス王子」
護衛の者にはそのままそこを守るように告げて、俺は休憩室の中に入った。水が用意され、ご夫人が化粧を整えるのに使うことが多いので、椅子と鏡が置かれている。その椅子のひとつに王子が腰掛け、服についた汚れを見ているようだ。
「すまない」
「いえ、こちらこそ。……匂いますか?」
「まあ……」
だが恐らく俺にしかわからない匂いなのだ。あのつがいが気づいていないのだから、近くにいるのもあるが俺が過敏すぎるのだろう。
「すみません、追加で薬を飲んだんですが、即効性のものを短い間隔で飲むのは止められているので、少し遅くなります」
「それは構わないが……大丈夫なのか?」
たとえ穏やかな効果のものでも、あまり飲まないほうがいいはずだ。
「ええ、まあ、たぶん」
たぶん。
「今日は帰ったほうがいいのではないか?」
「いえ」
クリス王子は即答してから、困ったように首を傾げた。
「……そこまでひどいですか?」
「いや、そんなことはない。俺以外は気づいていないだろう」
「ですよね。ヴィーも気づいてないみたいだ」
「……言わないのか?」
すると王子は眉根を下げて、子供のような困り顔をした。
「帰れって言われそうだし」
言っていることも子供じみていた。完璧な王子の姿をしていながら、その隙が愛らしくてならないのだ。俺は目をそらした。
すると彼の首筋にもソースが飛んでいるのを見つけた。
「クリス王子、失礼」
なんといっても自分のしでかしたことである。俺はハンカチを取り出し、王子の首に押し当てた。
「ん」
無防備で素直な王子は顔を上げる。首のソースを拭き取り、下まで流れてはいないかと、俺は襟元を覗き込んだ。
その時だ。
「殿下、着替えを」
扉が開いた。
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