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10.クッキー
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「暇だったんで来ちゃいました」
ゆるやかな空気の流れる店内に、爽やかな風が吹いた。
喫茶店『鳩時計』を訪れたのは下田だった。
「いらっしゃい」
席に座った下田はふぅ、とため息をついた。
「お疲れ気味?」
「いえ、やっぱりここは落ち着くなぁって。居心地が良いといいますか」
「そういってもらえると嬉しいよ」
鳩ヶ谷はオレンジジュースをテーブルに置いた。
「今日は鈴木君いないけど」
「大丈夫です。マスター目当てですから」
下田は小悪魔めいた笑みを見せた。
初めて店を訪れた時の下田には緊張のようなものを感じたが、いまはすっかりなくなったようだ。
「で、マスター。あのアニメのことなんですけど……」
二人はアニメのことを話し始めた。しばらくした後、下田が話題を変えて料理についての話になった。
「やっぱり料理はできるに越したことはないと思うんですよ」
「そうだね」
「マスターは料理できるんですか?」
「まぁ、一応飲食店やってるわけだから、それなりにって感じかな」
「へー、すごいですね。私なんて全然で」
少しの間が出来た。
「なんだかお腹が空いてきましたね」
下田はお腹のあたりを押さえて言った。
時計の針は三時を指していた。
「おやつの時間だね」
鳩ヶ谷は軽く笑った。
「下田さんはクッキーって好き?」
「はい、好きですよ」
鳩ヶ谷はカウンターの下から透明な袋に包んだクッキーを取り出した。
「メニューにクッキーなんてありましたっけ?」
「いや、作ったんだ」
「作ったって、マスターが?」
「うん」
「す、すごいですね」
下田は肩をふるわせて、笑いを堪えているようだった。
「そんなに笑わなくてもいいだろ」
ムっとして鳩ヶ谷は言った。
「だってダンディなマスターがクッキー作ってるところ想像したら笑っちゃいますよ」
鳩ヶ谷はクッキーをしまおうとした。
「あ、待ってくださいよ! 食べたいですって!」
下田は袋を開けて、クッキーを取り出す。
サクッ
下田は味わって食べているようだった。咀嚼を終えて、しばらくの沈黙の後、下田は口を開いた。
「これ、おいしいですよ!」
明るい表情で話す下田。
本当においしいのだと伝わってくような表情だった。
「すごいおいしいです! お店で出せますよ、これ!」
興奮した様子で話す下田を見ているとなんだか鳩ヶ谷も嬉しくなってきた。
「でも、悔しいですね……」
明るい表情から一転、思い詰めた表情の下田。
「くやしい?」
「だって、マスターの方が女子力高いじゃないですか」
「いやいや、こんなおっさん顔とか言われる俺が女子力高いって。それは違うでしょ」
「いや、私の女子力を五としたらマスターの戦闘力は五十三万ですよ」
「それフ○―ザ様じゃねぇか!」
二人は笑った。
そんなことを話していると気がついたら日が暮れていた。
「じゃ、帰りますね。クッキーおいしかったです。……ぷっ、くく……」
下田は思い出し笑いを堪えながら言った。
「……ありがとうございました」
やれやれ、といった口調で鳩ヶ谷は下田を見送った。
次の日の営業終わり、鈴木は鳩ヶ谷に質問をした。
「昨日、下田さん来てたんですか?」
「ああ、来てたよ」
クッキーのことは言わないでおこう。恥ずかしいから。
「シフト、昨日入れておけば良かったな……」
鈴木が小さな声でぽつりと呟いた。
「え? 何か言った?」
「いえ、何でもないです。お疲れ様でした」
鈴木は足早に店を出て行った。
付けっぱなしだったテレビでは天気予報が流れていた。
「明日は雨が降るでしょう」
カランコロン
「こんばんは~」
「いらっしゃい。めずらしいね、こんな時間に」
時刻は夜の九時をまわっていた。
「塾の帰りです」
勉強してきました、というように下田は手提げバックを持ち上げた。
「あんまり遅いと親が心配するんじゃないの?」
「ですね。一杯だけ飲んだら帰ります。オレンジジュースをお願いします」
「かしこまりました」
鳩ヶ谷がオレンジジュースを用意していると、下田は鈴木に気付いた。
「鈴木君、こんな時間まで働いてるんだね」
「あ、うん」
心なしか、下田に話しかけられた鈴木の表情は明るく見えた。
「それにしても昨日は楽しかったですね~」
下田の視線と関心はすぐに鳩ヶ谷に戻った。
「あんまり言わないでくれよ」
苦笑いする鳩ヶ谷。楽しそうに鳩ヶ谷に話しかける下田。
そんな二人の様子を鈴木は離れた場所から見ていた。
下田が帰った後、残っていた客も会計を済ませて帰り、店には二人だけになった。
「店長は随分下田さんと仲良くなりましたね」
「そう見えるかな? アニメの話ぐらいしかしてないけど」
「見えますよ」
鈴木の声は落ち着いていた。それでいて力がこもっていた。
鳩ヶ谷は鈴木の声に違和感を覚えた。が、わざわざ言及するほどのものではないと判断し、話を続けた。
「でも面白い子だよね。町で見かける女子高生とは違う感じがする」
「ええ、そうですね。ああいう人は中々いませんよ」
二人の間に沈黙が訪れる。聞こえるのは店内に流れる緩やかなジャズと外から聞こえる雨音だけだった。
普段と何も変わらないはずなのだが、何かが違う。
そんな雰囲気を鳩ヶ谷は感じていたが、それが何なのか、鳩ヶ谷には分からなかった。
「今日は雨だし、少し早めに店を閉めようか」
沈黙が嫌なものに感じた鳩ヶ谷はそれを振り払うように言葉を発した。
「そうですね」
鈴木は静かに頷いた。
止む気配のない雨が、店の外で降り続いていた。
ある日の放課後、鈴木は友達と話す下田を見つけた。
鈴木は下田の会話が聞こえて、それでいて気付かれない距離で二人の後ろを歩いた。
「ゆりはさ、好きな人いる?」
「えー、いないよ」
「嘘、いるでしょ~?」
「本当にいないよ~」
「じゃあ、気になる人は?」
下田の脳裏に一瞬、鳩ヶ谷の顔が浮かんだ。
「あ、その反応、やっぱりいるんでしょ?」
「だれだれ? 教えてよ~」
「え~・・・・・・」
「誰にも言わないから、ね?」
「う~ん・・・・・・」
「・・・・・・誰にも言わない?」
「言わないよ~」
「・・・・・・最近行くようになった喫茶店のマスターがちょっと気になるかも」
下田の言葉を聞いた瞬間、鈴木は歩みを止めた。
前を歩く二人の声はもう聞こえなかった。
本当は分かっていた。
下田の心は自分には向いていないことを。
鳩ヶ谷に向ける視線が自分に向くそれとは違うことを。
鈴木はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
下田の胸の内を知った日の夜、鈴木の部屋に招かれざる客が訪れた。
突然の来訪者は妖艶な笑みを浮かべてこう言った。
「あなた、力が欲しいでしょう?」
ゆるやかな空気の流れる店内に、爽やかな風が吹いた。
喫茶店『鳩時計』を訪れたのは下田だった。
「いらっしゃい」
席に座った下田はふぅ、とため息をついた。
「お疲れ気味?」
「いえ、やっぱりここは落ち着くなぁって。居心地が良いといいますか」
「そういってもらえると嬉しいよ」
鳩ヶ谷はオレンジジュースをテーブルに置いた。
「今日は鈴木君いないけど」
「大丈夫です。マスター目当てですから」
下田は小悪魔めいた笑みを見せた。
初めて店を訪れた時の下田には緊張のようなものを感じたが、いまはすっかりなくなったようだ。
「で、マスター。あのアニメのことなんですけど……」
二人はアニメのことを話し始めた。しばらくした後、下田が話題を変えて料理についての話になった。
「やっぱり料理はできるに越したことはないと思うんですよ」
「そうだね」
「マスターは料理できるんですか?」
「まぁ、一応飲食店やってるわけだから、それなりにって感じかな」
「へー、すごいですね。私なんて全然で」
少しの間が出来た。
「なんだかお腹が空いてきましたね」
下田はお腹のあたりを押さえて言った。
時計の針は三時を指していた。
「おやつの時間だね」
鳩ヶ谷は軽く笑った。
「下田さんはクッキーって好き?」
「はい、好きですよ」
鳩ヶ谷はカウンターの下から透明な袋に包んだクッキーを取り出した。
「メニューにクッキーなんてありましたっけ?」
「いや、作ったんだ」
「作ったって、マスターが?」
「うん」
「す、すごいですね」
下田は肩をふるわせて、笑いを堪えているようだった。
「そんなに笑わなくてもいいだろ」
ムっとして鳩ヶ谷は言った。
「だってダンディなマスターがクッキー作ってるところ想像したら笑っちゃいますよ」
鳩ヶ谷はクッキーをしまおうとした。
「あ、待ってくださいよ! 食べたいですって!」
下田は袋を開けて、クッキーを取り出す。
サクッ
下田は味わって食べているようだった。咀嚼を終えて、しばらくの沈黙の後、下田は口を開いた。
「これ、おいしいですよ!」
明るい表情で話す下田。
本当においしいのだと伝わってくような表情だった。
「すごいおいしいです! お店で出せますよ、これ!」
興奮した様子で話す下田を見ているとなんだか鳩ヶ谷も嬉しくなってきた。
「でも、悔しいですね……」
明るい表情から一転、思い詰めた表情の下田。
「くやしい?」
「だって、マスターの方が女子力高いじゃないですか」
「いやいや、こんなおっさん顔とか言われる俺が女子力高いって。それは違うでしょ」
「いや、私の女子力を五としたらマスターの戦闘力は五十三万ですよ」
「それフ○―ザ様じゃねぇか!」
二人は笑った。
そんなことを話していると気がついたら日が暮れていた。
「じゃ、帰りますね。クッキーおいしかったです。……ぷっ、くく……」
下田は思い出し笑いを堪えながら言った。
「……ありがとうございました」
やれやれ、といった口調で鳩ヶ谷は下田を見送った。
次の日の営業終わり、鈴木は鳩ヶ谷に質問をした。
「昨日、下田さん来てたんですか?」
「ああ、来てたよ」
クッキーのことは言わないでおこう。恥ずかしいから。
「シフト、昨日入れておけば良かったな……」
鈴木が小さな声でぽつりと呟いた。
「え? 何か言った?」
「いえ、何でもないです。お疲れ様でした」
鈴木は足早に店を出て行った。
付けっぱなしだったテレビでは天気予報が流れていた。
「明日は雨が降るでしょう」
カランコロン
「こんばんは~」
「いらっしゃい。めずらしいね、こんな時間に」
時刻は夜の九時をまわっていた。
「塾の帰りです」
勉強してきました、というように下田は手提げバックを持ち上げた。
「あんまり遅いと親が心配するんじゃないの?」
「ですね。一杯だけ飲んだら帰ります。オレンジジュースをお願いします」
「かしこまりました」
鳩ヶ谷がオレンジジュースを用意していると、下田は鈴木に気付いた。
「鈴木君、こんな時間まで働いてるんだね」
「あ、うん」
心なしか、下田に話しかけられた鈴木の表情は明るく見えた。
「それにしても昨日は楽しかったですね~」
下田の視線と関心はすぐに鳩ヶ谷に戻った。
「あんまり言わないでくれよ」
苦笑いする鳩ヶ谷。楽しそうに鳩ヶ谷に話しかける下田。
そんな二人の様子を鈴木は離れた場所から見ていた。
下田が帰った後、残っていた客も会計を済ませて帰り、店には二人だけになった。
「店長は随分下田さんと仲良くなりましたね」
「そう見えるかな? アニメの話ぐらいしかしてないけど」
「見えますよ」
鈴木の声は落ち着いていた。それでいて力がこもっていた。
鳩ヶ谷は鈴木の声に違和感を覚えた。が、わざわざ言及するほどのものではないと判断し、話を続けた。
「でも面白い子だよね。町で見かける女子高生とは違う感じがする」
「ええ、そうですね。ああいう人は中々いませんよ」
二人の間に沈黙が訪れる。聞こえるのは店内に流れる緩やかなジャズと外から聞こえる雨音だけだった。
普段と何も変わらないはずなのだが、何かが違う。
そんな雰囲気を鳩ヶ谷は感じていたが、それが何なのか、鳩ヶ谷には分からなかった。
「今日は雨だし、少し早めに店を閉めようか」
沈黙が嫌なものに感じた鳩ヶ谷はそれを振り払うように言葉を発した。
「そうですね」
鈴木は静かに頷いた。
止む気配のない雨が、店の外で降り続いていた。
ある日の放課後、鈴木は友達と話す下田を見つけた。
鈴木は下田の会話が聞こえて、それでいて気付かれない距離で二人の後ろを歩いた。
「ゆりはさ、好きな人いる?」
「えー、いないよ」
「嘘、いるでしょ~?」
「本当にいないよ~」
「じゃあ、気になる人は?」
下田の脳裏に一瞬、鳩ヶ谷の顔が浮かんだ。
「あ、その反応、やっぱりいるんでしょ?」
「だれだれ? 教えてよ~」
「え~・・・・・・」
「誰にも言わないから、ね?」
「う~ん・・・・・・」
「・・・・・・誰にも言わない?」
「言わないよ~」
「・・・・・・最近行くようになった喫茶店のマスターがちょっと気になるかも」
下田の言葉を聞いた瞬間、鈴木は歩みを止めた。
前を歩く二人の声はもう聞こえなかった。
本当は分かっていた。
下田の心は自分には向いていないことを。
鳩ヶ谷に向ける視線が自分に向くそれとは違うことを。
鈴木はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
下田の胸の内を知った日の夜、鈴木の部屋に招かれざる客が訪れた。
突然の来訪者は妖艶な笑みを浮かべてこう言った。
「あなた、力が欲しいでしょう?」
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