1 / 10
~1~ 眠り
しおりを挟む肩をドンッと押された彼の手は思いのほか力強く、後ろに二、三歩よろめいてしまった。
気が付くと片足が宙を浮き、地につかない。そのまま体はまっすぐ後ろに落ちていった。
久しぶりに目が合った彼の瞳は心底心配そうな眼差しをしていて、そんな目で見つめられたのはいつぶりだろう? いや、初めてかもしれないなとアグリシアは思った。
「アグリシア!!」
婚約者のエドワード様にちゃんと名前で呼ばれたのなんて、婚約した頃だけかも?
いつも「アグリー(醜い)」って呼ばれて、周りも同調したように私を「アグリー」って呼んで笑われていたし。
私の名前なんて忘れたのかと思ったけど。なんだ、ちゃんと覚えているじゃない。
必死の形相で伸ばす彼の手が目の前にあったけど、その手を掴むのはやめておくわ。
だって、その手を取ればまた苦しい思いをしなきゃダメなんでしょう?
いつも「令嬢らしくない、出来損ない」って馬鹿にされて、皆に笑われても庇ってはくれなくて、彼はそれを見て苦い顔をしていた。
私では不釣合いだったのよ。
辛くて助けを求めても、お父様は子爵家が伯爵家に物申すことなんて出来ないって、力になってくれないし。
お兄様だけが気持ちをわかってくれるけど、ちょっと間に入ってくれるだけで結局何も変わらない。
結婚して後継ぎを産んでしまえば務めは果たしたことになるから、後は自由に好きにすればいい、贅沢も出来て幸せになれるってお父様は言うけど。
私は贅沢がしたいわけじゃないの。出会った頃の優しいエドワード様と、笑っていたいだけなのに。
もう疲れたわ。少し休んでも良いわよね? だって、私なりにすごく頑張ってきたから。
少し眠らせて。目が覚めたらちゃんと元気になるから。
落ちていく一瞬のこと。アグリシアは全てを放棄し、そっと瞳を閉じた。
~・~・~
アグリシア・コレットは婚約者のエドワード・ハーレンと一緒にボートに乗ろうと、湖の桟橋で空きボートが来るのを待っていた。
少し蒸し暑い日、桟橋の先は風が吹き心地いいですよと言う貸しボート屋の言葉を受け、エドワードに手を引かれ桟橋の先まで来ていた。
言葉の通り気持ちのいい風が首筋を吹き抜け、少し火照った体を冷やしてくれるようだった。
会えば小言を言うエドワードも、他人の前ではきちんと紳士の務めを果たしエスコートはしてくれる。しかし二人になった途端、口をついて出てくるのは聞きたくもない憎まれ口ばかり。
「まったく、こんな蒸し暑い日になんでこんなことしなきゃならないんだ?」
「申し訳ありません。大事なお時間を私のために……」
「定期的に会うようにと、母上の命令だ」
「はい……。申し訳ありません」
不機嫌そうに顔を反らし、湖の奥に視線を向けるエドワードの額が汗で光っていた。
風が吹いて涼しいとはいえ日差しは強い。少しでも日陰になるようにと、アグリシアは自分の日傘を彼の上にそっとかざした。
突然自分に向けられたアグリシアの手に驚いたエドワードは、「余計な事をするな」と、その手を払いのけた。
なんとか日傘を落とさずにいられたが、払われたその手はジンジンと痛み出し、アグリシアはそっともう片方の手をあてる。
これ以上怒らせないように余計な事はしない、余計な事は言わないでおこうと決め、ボートに乗った楽しそうな人たちをぼんやりと眺める。
恋人なのか? 婚約者なのか? 向かい合わせに座り楽しそうに会話をし、微笑みあう。
アグリシアは、そんな人たちが羨ましくて仕方がなかった。自分達には絶対無理なことだから。
そんな思いが心を伝い、視線に乗っていたのかもしれない。
「こんな所に来てまで、お前の視線の先には男がいるんだな。本当にどうしようもない女だな、お前は」
「っ!? 違います。決してそのようなことはありません。私はそのような人間ではありません」
ついムキになって反論してしまったが、また何か言われてしまうのではとアグリシアは無意識に身構えてしまう。
「もういい」
視線が重なりあう事もないままにエドワードの口からでた言葉は、もはやアグリシアへの興味すら無く、存在すら鬱陶しいように聞こえてしまうものだった。
アグリシアはそんな自分が情けなく、可笑しくなった。
「ふっ」と漏れた声にエドワードが振り向くと、アグリシアの口元は上がり笑っているように見える。
その顔を見た時、エドワードは自分でもわからない怒りが込み上げてきて、思わず手が出てしまっていた。
「馬鹿にしているのか?」
エドワードは思ってもいない言葉が口をついて出て、気が付けば思わず伸ばした手がアグリシアの肩を押していた。
咄嗟の事で力の加減がうまく出来なかった。気が付いた時にはアグリシアが後ろによろめき、そのまま吸い込まれるように湖に落ちていた。
すぐに差し出した手を取ることもなく、彼女は水の中に沈んでいく。
最後に絡んだ瞳には怒りのような物はなく、そこには諦めや安堵のような物が映っていた。
エドワードは、この日の事を生涯忘れることはない。
アグリシアの手をつかまえることが出来なかった自分を、決して許すことは出来ない。
0
お気に入りに追加
85
あなたにおすすめの小説
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。

むにゃむにゃしてたら私にだけ冷たい幼馴染と結婚してました~お飾り妻のはずですが溺愛しすぎじゃないですか⁉~
景華
恋愛
「シリウス・カルバン……むにゃむにゃ……私と結婚、してぇ……むにゃむにゃ」
「……は?」
そんな寝言のせいで、すれ違っていた二人が結婚することに!?
精霊が作りし国ローザニア王国。
セレンシア・ピエラ伯爵令嬢には、国家機密扱いとなるほどの秘密があった。
【寝言の強制実行】。
彼女の寝言で発せられた言葉は絶対だ。
精霊の加護を持つ王太子ですらパシリに使ってしまうほどの強制力。
そしてそんな【寝言の強制実行】のせいで結婚してしまった相手は、彼女の幼馴染で公爵令息にして副騎士団長のシリウス・カルバン。
セレンシアを元々愛してしまったがゆえに彼女の前でだけクールに装ってしまうようになっていたシリウスは、この結婚を機に自分の本当の思いを素直に出していくことを決意し自分の思うがままに溺愛しはじめるが、セレンシアはそれを寝言のせいでおかしくなっているのだと勘違いをしたまま。
それどころか、自分の寝言のせいで結婚してしまっては申し訳ないからと、3年間白い結婚をして離縁しようとまで言い出す始末。
自分の思いを信じてもらえないシリウスは、彼女の【寝言の強制実行】の力を消し去るため、どこかにいるであろう魔法使いを探し出す──!!
大人になるにつれて離れてしまった心と身体の距離が少しずつ縮まって、絡まった糸が解けていく。
すれ違っていた二人の両片思い勘違い恋愛ファンタジー!!

【改稿版・完結】その瞳に魅入られて
おもち。
恋愛
「——君を愛してる」
そう悲鳴にも似た心からの叫びは、婚約者である私に向けたものではない。私の従姉妹へ向けられたものだった——
幼い頃に交わした婚約だったけれど私は彼を愛してたし、彼に愛されていると思っていた。
あの日、二人の胸を引き裂くような思いを聞くまでは……
『最初から愛されていなかった』
その事実に心が悲鳴を上げ、目の前が真っ白になった。
私は愛し合っている二人を引き裂く『邪魔者』でしかないのだと、その光景を見ながらひたすら現実を受け入れるしかなかった。
『このまま婚姻を結んでも、私は一生愛されない』
『私も一度でいいから、あんな風に愛されたい』
でも貴族令嬢である立場が、父が、それを許してはくれない。
必死で気持ちに蓋をして、淡々と日々を過ごしていたある日。偶然見つけた一冊の本によって、私の運命は大きく変わっていくのだった。
私も、貴方達のように自分の幸せを求めても許されますか……?
※後半、壊れてる人が登場します。苦手な方はご注意下さい。
※このお話は私独自の設定もあります、ご了承ください。ご都合主義な場面も多々あるかと思います。
※『幸せは人それぞれ』と、いうような作品になっています。苦手な方はご注意下さい。
※こちらの作品は小説家になろう様でも掲載しています。

【完結】彼を幸せにする十の方法
玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。
フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。
婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。
しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。
婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。
婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。
※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。

王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
【本編完結・番外編不定期更新】
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます

【完結】契約結婚の妻は、まったく言うことを聞かない
あごにくまるたろう
恋愛
完結してます。全6話。
女が苦手な騎士は、言いなりになりそうな令嬢と契約結婚したはずが、なんにも言うことを聞いてもらえない話。

つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?
蓮
恋愛
少しネガティブな天然鈍感辺境伯令嬢と目つきが悪く恋愛に関してはポンコツコミュ障公爵令息のコミュニケーションエラー必至の爆笑(?)すれ違いラブコメ!
ランツベルク辺境伯令嬢ローザリンデは優秀な兄弟姉妹に囲まれて少し自信を持てずにいた。そんなローザリンデを夜会でエスコートしたいと申し出たのはオルデンブルク公爵令息ルートヴィヒ。そして複数回のエスコートを経て、ルートヴィヒとの結婚が決まるローザリンデ。しかし、ルートヴィヒには身分違いだが恋仲の女性がいる噂をローザリンデは知っていた。
エーベルシュタイン女男爵であるハイデマリー。彼女こそ、ルートヴィヒの恋人である。しかし上級貴族と下級貴族の結婚は許されていない上、ハイデマリーは既婚者である。
ローザリンデは自分がお飾りの妻だと理解した。その上でルートヴィヒとの結婚を受け入れる。ランツベルク家としても、筆頭公爵家であるオルデンブルク家と繋がりを持てることは有益なのだ。
しかし結婚後、ルートヴィヒの様子が明らかにおかしい。ローザリンデはルートヴィヒからお菓子、花、アクセサリー、更にはドレスまでことあるごとにプレゼントされる。プレゼントの量はどんどん増える。流石にこれはおかしいと思ったローザリンデはある日の夜会で聞いてみる。
「つかぬことをお伺いいたしますが、私はお飾りの妻ですよね?」
するとルートヴィヒからは予想外の返事があった。
小説家になろう、カクヨムにも投稿しています。

【完結】小さなマリーは僕の物
miniko
恋愛
マリーは小柄で胸元も寂しい自分の容姿にコンプレックスを抱いていた。
彼女の子供の頃からの婚約者は、容姿端麗、性格も良く、とても大事にしてくれる完璧な人。
しかし、周囲からの圧力もあり、自分は彼に不釣り合いだと感じて、婚約解消を目指す。
※マリー視点とアラン視点、同じ内容を交互に書く予定です。(最終話はマリー視点のみ)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる