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しおりを挟む『バシャッ!』
今宵の夜会の一コマである。
グリーン伯爵家のフランチェスカは、まつ毛から滴り落ちる赤ワインを拭いもせずに、濡れた胸元を見つめていた。
「あら、ごめんあそばせ。手が滑ってしまいましたわ。お許しになってくださいませね」
「あらまあ、素敵なドレスが台無しだわ。でも、こんなドレスの一枚や二枚、いくらでも贈って下さる殿方がいられますもの、平気でしょう?」
「そうよね。今日のグリーンのお召し物は、どなたのお色なのかしら? 大勢いすぎて私にはわかりそうもありませんわ」
「おほほ、本当ね。今度はどなたが命をかけるおつもりかしらね?」
いつものことである。
フランチェスカを妬み恨む令嬢たちが、恥をかかせようと我先にと同じようなことを繰り返す。それを見ていた若き令息たちが、そんなフランチェスカに助けの手を差し伸べることになる。そして、それを憎悪に満ちた瞳で見つめる令嬢達は、悪意のこもった負の感情を募らせ、同じようなことが夜会の度に繰り返されるのだ。
夜会会場の端の方、人目に付きにくい場所でフランチェスカを数人の令嬢達が囲むようにしている。
普通の人は気が付きにくいだろう。だが、彼女に注視している者からすれば容易い事。若い令息たちは夜会の間中、フランチェスカから目を離すことは無いのだから。
「ちょっと、なんとか言ったらどうなの?」
令嬢の一人が声を荒げ、フランチェスカの肩を『ドン』と小突いた。
ぼんやりとしていたフランチェスカが後ろに数歩よろめき、そのまま尻もちをつくかと思われたが、彼女は肩を抱かれるように支えられ最悪の事態は免れた。
「大丈夫ですか?」
銀縁の眼鏡に切れ長の黒い瞳。長い黒髪を一つ結びにした紳士。
令息と呼ぶにはいささか年を取って見えるその人は、この国の王太子の側近であり、宰相補佐でもあるフロイド・テイラー子爵。
テイラー侯爵家の次男であり、父である侯爵の功績により賜った子爵位を受け継いでいる。子爵といえども王太子の友人であり、その優秀さを買われての今の社会的地位。それに異論を問う者はこの国にはいないほどの切れ者だ。
フランチェスカの肩に両手を添え支えるフロイドの顔を見るや、令嬢達は顔色を変えながら蜘蛛の子を散らすように消えていった。
「はぁー、まったく。全員の顔は覚えました。各家に苦情を申し立てるようなら私が証人になりましょう。いつでもお手伝いいたします」
フロイドは眼鏡を人差し指でクイッと持ち上げると、胸元のハンカチーフを取り出し、ワインで塗れたフランチェスカの頬にそっとあてた。
「テイラー子爵様、ありがとうございました。でもこれは私の不注意で起きた、いわば事故ですのでご心配はいりません。それよりも、せっかくのハンカチーフがワインで汚れてしまいました。綺麗にしてお返しいたしますので、どうかそれをわたくしに……」
フランチェスカは自分の頬に置かれたハンカチーフに手を伸ばすと、ほんの一瞬、二人の指が手袋越し微かに触れ合った。
だが、フロイドはそれを気にすることもなく、
「たいした物ではありませんから、どうかお気になさらずに」
そう言ってハンカチーフを畳みはじめ、そのままポケットに仕舞い込んだ。
フロイドによって顔にかかったワインは拭き取られたが、さすがに濡れた胸元に手を伸ばすわけにはいかない。
通りがかった給仕に声をかけると、フランチェスカの家族と夜会の主催者である公爵家の者を呼ぶように告げた。
「シミの目立たないドレスとは言え、そのままと言うわけにはいかないでしょう。すぐに身支度を整えられるよう、あなたのお母上と、アビー公爵家に力を借りた方が良い」
何から何まで瞬時に判断し段取りを済ます姿は、さすが宰相補佐といったところ。
「本当に申し訳ありません。私などのために……。今夜はもう、このままお暇したいと思います」
俯き答えるフランチェスカの瞼には、ワインの湿り気が少し残りわずかに濡れていた。それすらも美しく、無垢な乙女のようでありながら、妖艶な色香をも纏っているようだった。
フランチェスカはかつて絶世の美女と謳われ、「ラステノック王国の宝」と称えられた淑女を曾祖母に持つ。その曾祖母が亡くなると、その生まれ変わりかのようにフランチェスカがこの世に生を受けた。
煌めく銀色の髪に漆黒の黒い瞳色。そして顔立ちも曾祖母に似ており、幼い頃から美しいともてはやされてきたフランチェスカ。
彼女が成長するにつれその噂は国中に流れ、年端も行かぬ少女の美しさは一人歩きを始めるようになる。
その美しさは幼き頃から讃えられ、ある時は花に、またある時は蝶にと、この世のあらゆる美に例えられるほどであった。
グリーン伯爵家は昔から見目だけは良く、そのくせ政治には興味をもたない。自身の領地を可もなく不可もなく管理するだけの、能無しと陰で呼ばれるような家系であった。
フランチェスカは十五歳で社交界に顔を出すようになると、婚約の打診が山のように舞い込むようになる。しかし、派閥に属すこともなく、政治にも無関心な両親によってその行く末は幼いフランチェスカに委ねられることになる。
十五歳で嫁ぐ娘もいるとはいえ、異性との繋がりすら持たぬフランチェスカに選べるはずもない。そのため、縁談が実を結ぶことはなかった。
いつまでも婚約者を決めないことで、フランチェスカへの求婚は日増しに加熱し続けっていった。同じような年齢の娘を持つ家からは妬まれ、彼女に入れ込む息子を持つ家からは恨みを買うことになる。しかし、そこに行きつく原因をフランチェスカ一人に委ねた両親により、若い彼女の肩に全ての罪がのしかかることになる。
フランチェスカが夜会で手を取られダンスをするだけで、目があっただけで、微笑みをもらっただけで男たちは勘違いをし、フランチェスカの心が自分にあると思い込んでしまう。
そして、その行きつく先は彼女を巡っての血生臭い争闘に繋がるのだ。
ある者は夜間の外出時で馬車を襲い、またある者は夜会の場で毒を盛った。そうやってライバルを消しさろうとする男達。
そして究極は彼女を巡っての決闘になるのだが、そこにフランチェスカ自身の想いは微塵も慮られることはなかった。
その美しさゆえ男たちから愛され、そして誰からも守られることのないフランチェスカであった。
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