懴悔(さんげ)

蒼あかり

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 銀次が鈴に頭を下げた日。
 その日の晩は、季節外れの雨風が吹き荒れた。
 風が窓を揺らし、雨音が安普請やすぶしんの屋根を叩く。
 夕飯も食い終わり、いつものように銀次は仕事道具の剃刀を研いでいた。
 蠟燭代を節約するために、鈴は早寝をする習慣がついている。
 床に入り銀次に背を向けるように布団にくるまっていた。
 この瀧見里の地は、比較的気候が穏やかで天候が荒れることがあまりなかった。
 嵐のような晩になるとうなされる鈴も、成長してからはあまりなくなったし、この地に来てからは一度もそういったことがなかった。だから気も緩んでいたのだろう。それは突然だった……。

 風音と一緒に雷が遠くでなり始めたと思ったら、それはすぐに近づいてきた。
 近づいているなと思い始めるとすぐに「ドォーーーン!!」と音がして、地響きがした。
 雷が落ちたのか?と、銀次は木戸の方に目をやった。雨戸を閉めていない木戸は障子越しに雷の光が差し込んでくる。
 ゴロゴロと音を鳴らし光り続ける雷から、ふいに部屋の方へと目をやると、そこには布団から這い出てふるふると身を震わせている鈴がいた。

「鈴!?」

 銀次は思わず剃刀を放り投げ、鈴の元へと駆け寄った。
 震える鈴の肩に両手を置き、声をかけた。
「鈴? 鈴、大丈夫だ。兄ちゃんがいる、大丈夫だ」
 自分で自分の腕を掴み震える体を抱きしめるように耐えている鈴は、ゆっくりと顔を上げ銀次を見た。
 いつ頃からだろうか。こうしてうなされる夜でも銀次が鈴の身体に触れようとしなくなったのは。もっと幼い頃はその腕の中に抱きしめ、一晩中抱いて眠ったのに。鈴が歳を重ねることで、その距離は次第に離れていった。

「大丈夫だ、心配いらねえよ。兄ちゃんがついてる」
 
 鈴の顔を見下ろせば、そこにはおびえるような瞳ですがるように着物の袖を掴んでくる妹がいた。
 
「……、お兄ちゃん」

 ここ最近、嵐の夜でも怖がったりすることはなかったのに、やはり昨日の言い合いが悪かったのかと思ったが、そう思っても後の祭り。
 だから今は、このまま鈴が落ち着くまでそばに居ようと、そう思った時だった。
 銀次の袖を掴んでいた手が次第に背に周り、その身をゆだねるように抱きついてきたのだ。
 それは、自分ではない別の誰かの匂いと、温かさと、肌の感触だった。
 銀次はその躰を売り物にし何人もの客を相手にしてもなお、この手で触れることを避けてきた人間がいた。
 その人が今、自分の腕の中にいる。
 ああ、そういうことかと、銀次は自らの想いを始めて認めた夜だった。
 感情を殺すことには慣れている。たとえそれが二度と訪れることがないとわかってもなお、彼の理性は保たれていた。
 自らの手で、胸の中の愛しい背を抱きしめようとも……。

 妹と言う名の家族を失うことは、今の銀次にはもはや考えられない。
 たとえ己の本能を殺すことになったとしてもかまわない。
 銀次にとって家族は何にも勝る大事なものであり、かけがえのないものだから。
 子供の頃に親を亡くし、一人生きてきた頃の寂しさと絶望感。
 その暗闇に光を指し、自分を奮い立たせてくれたのが与市や仲間たちであり、そして唯一の家族である鈴だった。
 血の繋がりなどなくとも、自分が育てた家族を捨てられるものではない。

「鈴、大丈夫だ。兄ちゃんがついている。安心しろ」
「お兄ちゃん、どこにも行かないで。鈴を置いてかないで、ひとりにしないで!」

 鈴の叫びは雨風の音に消されたが、銀次の胸にはしっかりと届いていた。
 何があろうとこの背を守ると誓うほどに、かけがえのない大切な妹だった。


―・―・―・―


 鈴は小さな頃から嵐のような晩になると、決まって悪い夢を見た。
 随分と小さい頃の夢のようで、幼い自分が雨の中ずぶ濡れになっているのだ。
 どこか知らない大きな屋敷の中で、逃げ惑う人の足音や叫び声を聞く。
 子供の頃はそんな幻のような感覚だったものが、歳を取るごとに次第に鮮明になってきたりもした。
 覚えの無い大きな屋敷。大勢の大人たちが自分に向ける笑顔。
 そして、自分のそばにいて世話をしてくれる若い娘。
 顔は見えない。姿かたちが目に浮かぶだけだ。それでも愛されているという思いだけは伝わってくるのだった。
 そして、突然の叫び声や逃げ惑う人たちの足音。嵐のような土砂降りの中を、背を押され放り出されてしまう夜。
 今でも押された背の感触を覚えているようだった。
 それでもその手は怖いものではなかった。
 ただ怖いのは大人たちの叫び声と、一人ぼっちになった時の孤独感。
 捨てられたと思うような絶望感。
 それらが鈴を苦しめた。夢に見ても目が覚めぬそれは、もがき苦しんでも逃げ場のない迷路のように感じてしまう。
 そんな永遠にも感じる恐怖はいつも、兄である銀次の声で消されていくのだった。
「大丈夫だ」という彼の声で正気を取り戻し、そして一人では無いと感じ安堵する。この手があれば、この声を聞けば安心できると、それが彼女を恐怖から引き戻してくれる。

 血の繋がりなどないと知っていても、その経緯を鈴は知らない。
 聞いてはいけない事だと、何故か感じてしまっているから。
 銀次に背をさすられる手の暖かさは、鈴の心を落ち着かせてくれる。
 幼い頃のように抱きしめてくれなくなったことを、少しばかり寂しいと思いながらも、それでもそばに居られることを、そばに居てくれることを幸せだと感じている自分がいた。

 銀次が客を取った日はその態度で、匂いでわかった。
 わかっていても知らないふりをしていた。心の中では、わけのわからない何かがうごめいていることを隠しながら。見ないふりをして、聞こえないふりをして。そうでないと、いつか自分は捨てられるかもしれないと、恐怖が襲って来る。あの夢のように土砂降りの中を一人放り出されることが怖かった。
 
 誰にもかわりなど出来はしない。唯一の兄であり、大切な家族。
 もう、銀次無しでは生きて行けないほどに、その想いは深くなっていた。
 逃げられないほどに、逃れられないほどにその想いは強く、かけがえのないただ一人の人になっていた。




 よく朝目を覚ますと、鈴は銀次の腕の中にいた。
 どれくらいぶりかも思いだせないほど久しぶりに、兄妹は同じ布団にくるまって夜を明かしたのだ。
 そんな銀次の寝顔を見て鈴は、起こさないようにそっと布団から這い出た。
 嵐は止み、外は静かになっていた。障子から梳ける光で、天気が良いことを知る。
 昨日の晩、何事も無かったかのようにいつもの日常が始まって行く。



 自分の腕の中にいた鈴が起き出す動きで目が覚めた。
 自分を起こさないようにゆっくりと布団から這い出るその様子を感じながら、銀次は寝たふりを続けた。
 窓の障子越しに差し込む光で、嵐が止んだことを知る。
 あんな夜は、たぶんもう二度とないと思う。前の日にたまたま口論になったために起きたことだと、そう思っていた。
 いつものように鈴が作った朝飯を食べて、仕事に向かう。そうして、いつもの日常が始まるのだ。



 銀次と鈴は兄妹であり、家族なのだ。
 この日常を壊すくらいなら、その胸に生まれた感情を殺して生きていくことなど造作もない事だった。

 そう、今のふたりにとっては……。
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