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高木の下を辞した源助は、今となってはただの人だった。
今までは高木の名の下で岡っ引きとして町中をせわしなく歩き、見回ってきたが、今はそれも出来はしない。
だが、それでも源助の顔を見れば、町の者達は声をかけてくれる。
大丈夫かい?大変だったね。気をしっかり持つんだよ。と、声をかけられ一人ひとりに時間をかけて返事をしていたら、お天道様はすっかり昇りきってしまっていた。
源助はあの事件以来、初めて峰屋の暖簾をくぐろうと思い、足を運んだ。
だが、そううまくはいかなかった。
「おじゃまするよ」
暖簾を片手でまくり上げ顔を覗かせると、「いら……」挨拶をしかけた店の者が言葉を無くしたかのように押し黙ってしまった。
すると中からあわてたように一番の番頭が源助の元に走り寄り、外に連れ出されてしまった。おいおい、これはどうした?と思っていたら、店の裏手に引きずり込まれ、両腕を掴まれてしまった。
「源さん、まずいですって。今はまだ無理です、顔を見せちゃいけません」
見回りついでに店に顔を覗かせることを常としていた源助にしたら、顔なじみの番頭だった。年は源助よりも少し上だと思うが、決して仲が悪いとか、問題がある関係ではないのだが。
「まずいって、どうかしたんか?」
「源さん。鈴のことはうちらも守ってやれんで申し訳なかったと思ってます。
ですが、うちの店の一人娘の椿さまが未だ行方知れずだ。
……、町の噂は耳に入ってないんですか?」
「うわさ?」
源助は今まで鈴を亡くしたことで、周りと関わらないような日々をおくって来ていた。身の回りの世話は子分たちがなんとかしてくれていたから、特に生活に困ることも無く過ごしていたのだ。
「……、鈴は本当によく頑張ってくれていた。椿お嬢様もよく懐いて、旦那様たちも可愛がってくれていたんだ」
「その鈴に、どんな噂が?」
番頭は両手で掴んでいた源助の腕から手を離すと、大きく息を吐いた。
少しだけ背の低い彼の俯いた顔を真正面から見据え、源助は「どんな?」と、もう一度問うてみた。
「はぁ。いつか耳に入るだろうが、誰が言ったかは私も知らない。
何も知らない部外者が口にすることだ。だが、おまえさんが聞けば面白くないことは間違いない」
「なるほど……。で、なんだって?」
源助は怒りを抑える術も覚えている。昔のように感情で手を上げて良い職業ではないと十分知っている。今は感情の動きを抑えきれる自信はないが、それでも聞かずにいられない。
「鈴がよけいなことをしたんだろうって言う者がいるんだ。強盗はおかめ盗賊だった。それは旦那様も、住み込みのもんも皆で見てる。
おかめは反抗さえしなければ命は取らん。だから、大人しく、大人しくしていたらしい。それなのに鈴は殺され、椿お嬢様は消えてしまった……」
「だから? だから、鈴がおかめたちに嚙みついて殺されたってか? そのついでにお嬢さんをさらっていった。そう言いてえのか?」
源助の怒りを殺した低い声に、番頭は黙って頷いた。
「なるほどね。それで、峰屋の旦那は俺を恨んでるってわけか」
「いや、旦那様は鈴に申し訳なかったと。まだ幼い娘を任せるんじゃなかったって。ただ、奥様が……。あれ以来寝付いてしまって、すっかり弱られた。
店の者も鈴を可愛がってたし腹の中では可哀そうに思っても、表立っては奥様に合わせるしかねえから。
誰かを悪者にでもしねえと、心が持たねえんだよ。今の奥様には鈴を悪もんにでもしねえと生きて行けねえんだ。わかるだろう?」
番頭の必死な顔つきを見れば、源助にもわかる。いや、冷静に考えればそうなのだ。おかめが手を出すなんて余程のことなのは、源助にも理解できる。
ただ、知らなかったのだと思う。源助の、岡っ引きの妹だからと言ってもまだ十六でしかない。ましてや峰屋と言う大店で子守りを任されていれば、外の世界との接点など無いと同じだったとも思う。
そんな小娘が、おかめ強盗のなんたるかなどわかるはずが無いのだ。
それなのに、何の力も待たぬ小娘をひとり悪者にするなんてと、源助はやるせなさを覚えた。
そう言えば高木から別れ際に声をかけられた。
『腹の立つことも出てくるだろう。そん時は俺の名を使え。そうすれば、うまくいくこともある。妹のためにも我慢するんだ』
その時は何を言われているかわからなかったが、きっとこのことなのだろうと振り返る。高木は知っていたのだ。だからあんなことをと、源助は情けなさを覚える。鈴の死に狼狽え、何も手につかなくなった自分はどれだけ愚かだったのだろうかと。
「わかったよ。ここへはもう来ねえ。だが、話だけは聞かせてくれねえか。
鈴の敵を取りてえんだ。何も知らねえ小娘だったかもしれねえが、それでも先の人生のあった子だ。こんな最後を迎えていいはずがねえ。
頼む、この通りだ。くわしく話を聞かせてくれ」
源助は番頭に向かって深々と頭を下げた。
歳の近い番頭は、源助の昔の姿を知っている。知っていて、いい風に変わった姿も見てきている。昔を知っているだけに、ここまで変わった源助に好感を持っていた。その源助が深々と頭を下げているのだ。ここで断るほど、彼は無慈悲では無かった。
「わかりました。頭を上げてくださいな。
ですが、私は通いの番頭だ。あの夜の事は本当に知らないんです。ですから、私が話すことは無いですが、誰か当日に居た者に頼んでみますよ。
今のままじゃ、鈴も浮かばれませんからね」
「すまない。こんなこと頼める義理じゃねえが、頼んます」
そう言って、もう一度深々と頭を垂れるのだった。
源助は番頭に当日の話を聞きだす約束を付けると、その場を後にした。
源助が岡っ引きをやめたことを知らない者も多い。だが、常に番屋に出入りしていた者がふらふらと街を歩けば、いい加減気が付かれるだろう。
今回の事に対して面白く思っていない者がいることを始めて知った。
死者に鞭打つような言動は許せないが、行方不明者が出てしまっている以上、大きく出る訳にはいかないのだ。きっと鈴も一枚嚙んでいるはずだと、源助の勘が叫んでいた。
一刻も早く峰屋の娘を探し出し、何としても鈴の名誉を回復してやりたい。
そう、心に誓うのだった。
翌日、番頭に呼ばれ町はずれの屋台に行くと、そこには峰屋で見かけたことのある男が番頭と一緒に立って居た。確か小間使いの若い男だったと記憶している。岡っ引きなどしていれば、人の動きや機微に敏感になるものだ。源助は察しを付けて口にした。
「約束はしていたんか?」
若い男は俯きながらもビクリと肩を上げ、黙ってうなずいた。
「そうか……」
源助はそれ以上、何も言うことが出来なかった。たとえ兄と言っても、十七を迎えようとしていた子に対して、口を挟むことは難しい。
本来なら、どこかに嫁いでいてもおかしくはない年頃だ。いい仲の男がいてもなんら不思議はない。
「又七と言います。鈴、さんとは峰屋で奉公人同士として知り合いました。
将来は一緒に所帯を持ちたいと、そう約束をしていました。いつか、一緒に挨拶に行こうと思っていたのに、遅くなってしまってすみません」
両手を前に握りしめ、緊張からか身を固くして立っている姿からは嘘を言っているようには見えなかった。
「いや、こんなことになっちまって、すまなかったな。まあ、立ち話もなんだ。
座って飲もうや」
そう言って源助は、二人を先導して屋台の暖簾をくぐった。
大の男が三人並んで腰かければいっぱいの屋台で、三人は肩を並べて酒を酌み交わし始めるのだった。
今までは高木の名の下で岡っ引きとして町中をせわしなく歩き、見回ってきたが、今はそれも出来はしない。
だが、それでも源助の顔を見れば、町の者達は声をかけてくれる。
大丈夫かい?大変だったね。気をしっかり持つんだよ。と、声をかけられ一人ひとりに時間をかけて返事をしていたら、お天道様はすっかり昇りきってしまっていた。
源助はあの事件以来、初めて峰屋の暖簾をくぐろうと思い、足を運んだ。
だが、そううまくはいかなかった。
「おじゃまするよ」
暖簾を片手でまくり上げ顔を覗かせると、「いら……」挨拶をしかけた店の者が言葉を無くしたかのように押し黙ってしまった。
すると中からあわてたように一番の番頭が源助の元に走り寄り、外に連れ出されてしまった。おいおい、これはどうした?と思っていたら、店の裏手に引きずり込まれ、両腕を掴まれてしまった。
「源さん、まずいですって。今はまだ無理です、顔を見せちゃいけません」
見回りついでに店に顔を覗かせることを常としていた源助にしたら、顔なじみの番頭だった。年は源助よりも少し上だと思うが、決して仲が悪いとか、問題がある関係ではないのだが。
「まずいって、どうかしたんか?」
「源さん。鈴のことはうちらも守ってやれんで申し訳なかったと思ってます。
ですが、うちの店の一人娘の椿さまが未だ行方知れずだ。
……、町の噂は耳に入ってないんですか?」
「うわさ?」
源助は今まで鈴を亡くしたことで、周りと関わらないような日々をおくって来ていた。身の回りの世話は子分たちがなんとかしてくれていたから、特に生活に困ることも無く過ごしていたのだ。
「……、鈴は本当によく頑張ってくれていた。椿お嬢様もよく懐いて、旦那様たちも可愛がってくれていたんだ」
「その鈴に、どんな噂が?」
番頭は両手で掴んでいた源助の腕から手を離すと、大きく息を吐いた。
少しだけ背の低い彼の俯いた顔を真正面から見据え、源助は「どんな?」と、もう一度問うてみた。
「はぁ。いつか耳に入るだろうが、誰が言ったかは私も知らない。
何も知らない部外者が口にすることだ。だが、おまえさんが聞けば面白くないことは間違いない」
「なるほど……。で、なんだって?」
源助は怒りを抑える術も覚えている。昔のように感情で手を上げて良い職業ではないと十分知っている。今は感情の動きを抑えきれる自信はないが、それでも聞かずにいられない。
「鈴がよけいなことをしたんだろうって言う者がいるんだ。強盗はおかめ盗賊だった。それは旦那様も、住み込みのもんも皆で見てる。
おかめは反抗さえしなければ命は取らん。だから、大人しく、大人しくしていたらしい。それなのに鈴は殺され、椿お嬢様は消えてしまった……」
「だから? だから、鈴がおかめたちに嚙みついて殺されたってか? そのついでにお嬢さんをさらっていった。そう言いてえのか?」
源助の怒りを殺した低い声に、番頭は黙って頷いた。
「なるほどね。それで、峰屋の旦那は俺を恨んでるってわけか」
「いや、旦那様は鈴に申し訳なかったと。まだ幼い娘を任せるんじゃなかったって。ただ、奥様が……。あれ以来寝付いてしまって、すっかり弱られた。
店の者も鈴を可愛がってたし腹の中では可哀そうに思っても、表立っては奥様に合わせるしかねえから。
誰かを悪者にでもしねえと、心が持たねえんだよ。今の奥様には鈴を悪もんにでもしねえと生きて行けねえんだ。わかるだろう?」
番頭の必死な顔つきを見れば、源助にもわかる。いや、冷静に考えればそうなのだ。おかめが手を出すなんて余程のことなのは、源助にも理解できる。
ただ、知らなかったのだと思う。源助の、岡っ引きの妹だからと言ってもまだ十六でしかない。ましてや峰屋と言う大店で子守りを任されていれば、外の世界との接点など無いと同じだったとも思う。
そんな小娘が、おかめ強盗のなんたるかなどわかるはずが無いのだ。
それなのに、何の力も待たぬ小娘をひとり悪者にするなんてと、源助はやるせなさを覚えた。
そう言えば高木から別れ際に声をかけられた。
『腹の立つことも出てくるだろう。そん時は俺の名を使え。そうすれば、うまくいくこともある。妹のためにも我慢するんだ』
その時は何を言われているかわからなかったが、きっとこのことなのだろうと振り返る。高木は知っていたのだ。だからあんなことをと、源助は情けなさを覚える。鈴の死に狼狽え、何も手につかなくなった自分はどれだけ愚かだったのだろうかと。
「わかったよ。ここへはもう来ねえ。だが、話だけは聞かせてくれねえか。
鈴の敵を取りてえんだ。何も知らねえ小娘だったかもしれねえが、それでも先の人生のあった子だ。こんな最後を迎えていいはずがねえ。
頼む、この通りだ。くわしく話を聞かせてくれ」
源助は番頭に向かって深々と頭を下げた。
歳の近い番頭は、源助の昔の姿を知っている。知っていて、いい風に変わった姿も見てきている。昔を知っているだけに、ここまで変わった源助に好感を持っていた。その源助が深々と頭を下げているのだ。ここで断るほど、彼は無慈悲では無かった。
「わかりました。頭を上げてくださいな。
ですが、私は通いの番頭だ。あの夜の事は本当に知らないんです。ですから、私が話すことは無いですが、誰か当日に居た者に頼んでみますよ。
今のままじゃ、鈴も浮かばれませんからね」
「すまない。こんなこと頼める義理じゃねえが、頼んます」
そう言って、もう一度深々と頭を垂れるのだった。
源助は番頭に当日の話を聞きだす約束を付けると、その場を後にした。
源助が岡っ引きをやめたことを知らない者も多い。だが、常に番屋に出入りしていた者がふらふらと街を歩けば、いい加減気が付かれるだろう。
今回の事に対して面白く思っていない者がいることを始めて知った。
死者に鞭打つような言動は許せないが、行方不明者が出てしまっている以上、大きく出る訳にはいかないのだ。きっと鈴も一枚嚙んでいるはずだと、源助の勘が叫んでいた。
一刻も早く峰屋の娘を探し出し、何としても鈴の名誉を回復してやりたい。
そう、心に誓うのだった。
翌日、番頭に呼ばれ町はずれの屋台に行くと、そこには峰屋で見かけたことのある男が番頭と一緒に立って居た。確か小間使いの若い男だったと記憶している。岡っ引きなどしていれば、人の動きや機微に敏感になるものだ。源助は察しを付けて口にした。
「約束はしていたんか?」
若い男は俯きながらもビクリと肩を上げ、黙ってうなずいた。
「そうか……」
源助はそれ以上、何も言うことが出来なかった。たとえ兄と言っても、十七を迎えようとしていた子に対して、口を挟むことは難しい。
本来なら、どこかに嫁いでいてもおかしくはない年頃だ。いい仲の男がいてもなんら不思議はない。
「又七と言います。鈴、さんとは峰屋で奉公人同士として知り合いました。
将来は一緒に所帯を持ちたいと、そう約束をしていました。いつか、一緒に挨拶に行こうと思っていたのに、遅くなってしまってすみません」
両手を前に握りしめ、緊張からか身を固くして立っている姿からは嘘を言っているようには見えなかった。
「いや、こんなことになっちまって、すまなかったな。まあ、立ち話もなんだ。
座って飲もうや」
そう言って源助は、二人を先導して屋台の暖簾をくぐった。
大の男が三人並んで腰かければいっぱいの屋台で、三人は肩を並べて酒を酌み交わし始めるのだった。
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