懴悔(さんげ)

蒼あかり

文字の大きさ
上 下
6 / 34

ー6-

しおりを挟む
「今日からおめえの名は銀次だ。いいな? 銀次」

 そう言って、人の良さそうな初老の男に頭を撫でられ、名を付けられた。

銀次はまだ幼い頃に親を亡くし、親戚をたらいまわしにされながら生きてきた。いくら親戚筋とはいえ、どこも貧しく自分の子を養うのがやっとの中で、肩身の狭い思いをしながら過ごしてきた。
 その頃には親の顔も、生まれ故郷も、自分の本当の名すら覚えてはいなかった。ただ、名無しでは用事が足りないので「クロ」と呼ばれてはいた。
 満足な手入れをされてこず、風呂や水浴びすらもしていない彼の肌は、黒く沈殿したように黒ずみ醜いなりをしていた。
 子供ながらに日銭を稼ぐため、どんな仕事でも出来ることはした。
 スリのような事にも手を染め、生きる為だけに必死だった。
 
 ある日のこと。いつものように人様の懐から財布をちょいと拝借しようとした相手が、彼に銀次と名をつけてくれた男だった。
 すれ違いざまに抜き取る技は、普通なら気が付かないほどの手際の良さだ。
だが、相手が一枚上手だった。
 男の目配せで周りにいた者が銀次を捕まえると、そのまま袋叩きにしてのしてしまった。まだ子供の銀次では抵抗しても敵うはずもなく、気が付いた時には飯屋の土間に転がされていた。

「おめえ、どこのガキだ」
「だれだ、おめえ。どこのもんかなんて、俺が聞きてえよ」

「おまえ、親父に向かってなんて口聞いてんだ!」

 親父と呼ばれる与市の後ろで仁王立ちをしていた若い男が、掴みかかろうとするのを、彼が片手で制した。

「負けん気の強え、良い目をしてる。おめえ、名はなんていう?」
「……皆はクロって呼ぶ。本当の名前なんて覚えてねえ」
「親は? 親はいねえのか?」
「子供の頃に死んだらしい。顔も覚えてねえよ」
「じゃあ、今まで一人で生きて来たんか? そいつはえらく大変だったろう?」
「……」
「歳はいくつだ?」
「歳なんか数えたことねえ。正月がいつ来たかもわかんねえし」

 遠い昔、正月で一つ歳を取ると数えていた時代があった。
 貧しい庶民の家に暦などという物はなく、夏生まれ、冬生まれくらいの感覚でしかなかった。
 生きるだけで精一杯の子供に、歳を数えるなど無理なことだろう。

「そうだな。俺が見たとこ、十二、三歳か? 飯を食ってねえから体つきは小せえが、目つきが違げえな」

 男は銀次の頭をくしゃりとなでると、流しの奥へ向かい何やらゴトゴトと動き始めた。飯屋の厨房にあたるこの場所で、銀次は土間に座らされていた。地面に直に座る尻が少しだけ冷える。
 ひもじい思いを続けてきた銀次にとって、たとえ貧しい家の火炊き場であろうと、飯の支度をまともに見たことすらなかった。だから、男が何をしているのかが理解出来ずに、ただ黙って見つめるだけだった。
 床に座る銀次の低い視線では、男が何をしているのかが見えない。
水を使う音。何かを叩くような音。ゴロゴロと物を放り込むような音など、心地の良い音が聞こえてくる。
それが野菜を洗う音、まな板の上で包丁を使う音。鍋に野菜を放り込む時の音だと後になって知ることになる。
腹を満たすための音は、人間にとって心地よい音なのだと知ったのだった。
 
 次第に男の動きが少なくなると、代わりに鼻をくすぐるような良い匂いがしてきた。醤油の匂いと、味噌の匂い。最後に嗅いだのはいつだろうかと、銀次は思い出すが、はっきりと思い出せない。それくらい、まともな物を食いつけていなかった。
 どうせ自分の分け前などあるはずが無いと知っているから、強請ることはしない。目の前で美味そうな物を見せつけられることなど、親戚の家にいた時は当たり前のことだった。だから、もはや何とも思わない。
 この匂いを忘れずにいて、後で思い出しながら水で腹を膨らまそう。そう考えていた時。

「さあ、出来た。おめえら、並べてくれ」
 男の声に周りの男達が「へい」と、機敏に動き始める。
 皿を盆にのせると、何回か往復しながら奥へと消えていく。
「親父、用意出来ました」
 その言葉と共に男が銀次のそばにくると「さあ、来い」と、腕を掴んで引きあげるように立たせてくれた。
「おめえ、細っこい腕して。これじゃ満足に喧嘩も出来ねえな」と、笑った。
 連れて来られた所は、飯屋の店内。
 飯机に木椅子が並べられ、人数分の膳の用意が出来ていた。
「おめえは俺と一緒だ」そう言って男は銀次を椅子に座らせると、その向かいに自らも座った。
「急ごしらえでなんもねえが、食ってくれ。ご苦労さん」
 男の声に男達は「親父、いただきます」と口々に答え、箸を持ち始めた。
「さあ、俺たちも食おうか」向かいの男も箸を持ち、口に運び出す。
「まあまあだな」そう言って旨そうに食う姿を、銀次はじっと見つめた。
 その様子を見て、「なんだ? 腹減ってねえのか?」と男が声をかける。
 銀次は目の前に置かれた料理が自分の分だとは、未だに思っていない。
 どうせ手を出した途端に取り上げられるか、殴られるかに違いない。
 大人はいつも子供を油断させていたぶるのだ。銀次にとって大人とは騙す者であり、信じることの出来ない存在だった。

「どうした? 毒なんか入れてねえぞ。おめえを殺すのに、毒を使う方がもったいねえからな」
 男の辛辣な言葉も、銀次にしてみれば聞きなれた言葉だ。
「食って、いいのか?」
 目の前の飯を睨むようにしながら、やっと絞り出すように聞き返す。
「あたりめえだろ。食わすために作ったんだ。もったいねえから、冷める前に食えや」
 男の言葉に銀次は恐る恐る箸を取る。箸など握ったことも、もう忘れるほどに遠い記憶だった。それでも体は覚えているものだ。箸を持つ右手は自然に、当たり前のように持っていた。

 茶碗に盛られた飯をひと口箸ですくうと、ゆっくりと口に入れる。
 玄米の混じった飯だったが、銀次にとっては真っ白に光輝いて見えた。
 いつも盗んだ芋や、畑から引き抜いた野菜を生のままかぶりつくことが多かった。塩気の無いそれらは口に物足りない。それでも、死ぬよりはずっといい。
 時には饅頭や腐りかけた握り飯を口にすることはあっても、決して美味いわけでは無かった。味を確認しながら食べる余裕など、あり得ない事だったから。

 今、銀次の前には飯に汁。そして里芋の煮っころがしに、魚の煮つけが並んでいた。小さいとはいえ、尾頭付きの魚を食べたことなど無い銀次には、食べ方すらもわからない。それでも目の前の男の様子を見ながら、見よう見まねで食べ始めた。ひと口食べれば二口目を、二口食べれば三口目を。
 そうして気付けば、銀次の頬に涙がつたっていた。

 温かい物を食べた時の喉を通る感触。
味のある物を食べた時の舌の喜び。
 追っ手を恐れずとも、ゆっくり咀嚼できる贅沢。
 そして、箸を使って食べることの……、人間としての尊厳。

 子供の銀次でも、深い意味など分からずとも、人として許されたことがただ有難く、尊く感じられたのだった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

チャラ孫子―もし孫武さんがちょっとだけチャラ男だったら―

神光寺かをり
歴史・時代
チャラいインテリか。 陽キャのミリオタか。 中国・春秋時代。 歴史にその名を遺す偉大な兵法家・孫子こと孫武さんが、自らの兵法を軽ーくレクチャー! 風林火山って結局なんなの? 呉越同舟ってどういう意味? ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ「チャラ男」な孫武さんによる、 軽薄な現代語訳「孫子の兵法」です。 ※直訳ではなく、意訳な雰囲気でお送りいたしております。 ※この作品は、ノベルデイズ、pixiv小説で公開中の同名作に、修正加筆を施した物です。 ※この作品は、ノベルアップ+、小説家になろうでも公開しています。

大伝馬町ふくふく八卦見娘

夕日(夕日凪)
歴史・時代
大伝馬町、木綿問屋街にある葉茶屋三好屋の一人娘『おみつ』は、 他の江戸娘と比べ少しふくふくとした娘である。 『おみつ』がふくふくとする原因は『おみつ』のとある力にあって……。 歌舞伎役者のように美しい藍屋若旦那『一太』からの溺愛に気づかず、 今日も懸命に菓子などを頬張る『おみつ』の少し不思議な日常と恋のお話。 第五回歴史・時代小説大賞で大賞&読者賞を頂きました。応援ありがとうございます。

信長の妹は愛染明王の夢を見るか? 〜お市さん、女子しか乗れない巨大絡繰人形でやりたい放題〜

大海烏(休筆中)
歴史・時代
※雑賀衆の一人「銀」が尾張国に持ち込んだのは、賢者の石と巨大絡繰人形!? それが戦国女子達の運命を変える! ◆あらすじ 秘薬「賢者の石」の効果で、生まれながらにして天才になってしまった、織田信長の妹であるお市。 更に愛染明王そっくりな、女性しか乗れない巨大絡繰人形に彼女が乗り込み、付喪神の三種の神器や戦国時代に生まれた歴史上有名な女性達まで巻き込んで歴史は斜め上の方向に進んでいくのだった。 ◆章紹介 第1章 天文26年 お市0歳(赤子編) 天文28年 お市2歳(上洛編) 天文28年 お市12歳(女学校、愛染学院編) 天正3年 お市?才(九州編) 第二章 天正10年 織田内閣←今ここ! 天正13年 アンジェロ編決着 第三章 ?? ※挿絵ありのページは★マーク(AI画MidJourneyで作成→canvaに変更)

扇屋あやかし活劇

桜こう
歴史・時代
江戸、本所深川。 奉公先を探していた少女すずめは、扇を商う扇屋へたどり着く。 そこで出会う、粗野で横柄な店の主人夢一と、少し不思議なふたりの娘、ましろとはちみつ。 すずめは女中として扇屋で暮らしはじめるが、それは摩訶不思議な扇──霊扇とあやかしを巡る大活劇のはじまりでもあった。 霊扇を描く絵師と、それを操る扇士たちの活躍と人情を描く、笑いと涙の大江戸物語。

春雷のあと

紫乃森統子
歴史・時代
番頭の赤沢太兵衛に嫁して八年。初(はつ)には子が出来ず、婚家で冷遇されていた。夫に愛妾を迎えるよう説得するも、太兵衛は一向に頷かず、自ら離縁を申し出るべきか悩んでいた。 その矢先、領内で野盗による被害が頻発し、藩では太兵衛を筆頭として派兵することを決定する。 太兵衛の不在中、実家の八巻家を訪れた初は、昔馴染みで近習頭取を勤める宗方政之丞と再会するが……

田楽屋のぶの店先日記〜殿ちびちゃん参るの巻〜

皐月なおみ
歴史・時代
わけあり夫婦のところに、わけあり子どもがやってきた!? 冨岡八幡宮の門前町で田楽屋を営む「のぶ」と亭主「安居晃之進」は、奇妙な駆け落ちをして一緒になったわけあり夫婦である。 あれから三年、子ができないこと以外は順調だ。 でもある日、晃之進が見知らぬ幼子「朔太郎」を、連れて帰ってきたからさあ、大変! 『これおかみ、わしに気安くさわるでない』 なんだか殿っぽい喋り方のこの子は何者? もしかして、晃之進の…? 心穏やかではいられないながらも、一生懸命面倒をみるのぶに朔太郎も心を開くようになる。 『うふふ。わし、かかさまの抱っこだいすきじゃ』 そのうちにのぶは彼の尋常じゃない能力に気がついて…? 近所から『殿ちびちゃん』と呼ばれるようになった朔太郎とともに、田楽屋の店先で次々に起こる事件を解決する。 亭主との関係 子どもたちを振り回す理不尽な出来事に対する怒り 友人への複雑な思い たくさんの出来事を乗り越えた先に、のぶが辿り着いた答えは…? ※田楽屋を営む主人公が、わけありで預かることになった朔太郎と、次々と起こる事件を解決する物語です! ※歴史・時代小説コンテストエントリー作品です。もしよろしければ応援よろしくお願いします。

べらぼう旅一座 ~道頓堀てんとうむし江戸下り~

荒雲ニンザ
歴史・時代
【長編第9回歴史・時代小説大賞 笑えて泣ける人情噺賞受賞】 道頓堀生まれ、喜劇の旅一座が江戸にやって来た! まだ『喜劇』というジャンルが日本に生まれていなかった時代、笑う芝居で庶民に元気を与える役者たちと、巻き込まれた不器用な浪人の人情噺。 【あらすじ】 本所の裏長屋に住む馬場寿三郎は万年浪人。 性格的に不器用な寿三郎は仕官先もみつからず、一日食べる分の仕事を探すのにも困る日々。 顔は怖いが気は優しい。 幸い勤勉なので仕事にありつければやってのけるだけの甲斐性はあるが、仏頂面で客商売ができないときた。 ある日、詐欺目当ての浪人に絡まれていた娘てんとうを助けた寿三郎。 道頓堀から下ってきた旅一座の一人であったてんとうは、助けてくれた寿三郎に礼がしたいと、一座の芝居を見る機会を与えてくれる。 まあ色々あってその一座に行くことになるわけだが、これがまた一座の奴らがむちゃくちゃ……べらんめぇな奴ばかりときた。 堺の笑いに容赦なくもみくちゃにされる江戸浪人を、生温かく見守る愛と笑いの人情噺。

処理中です...