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【 第10話: さようなら希さん 】
しおりを挟む『トゥルルルルルル……』
「はい。相場ですが」
「あっ、あなた、部長昇進おめでとうございます。メッセージ見ました」
「ああ、ありがとう。わざわざすまんね」
「あのね、今ね、病院にいるんだけど、もう数日内に赤ちゃん産まれるみたいなの」
「おう、そうか。お腹大丈夫なのか?」
「うん。今は大丈夫。もう、このまま入院しているから」
「そうか、分かった。お腹大事にして、ゆっくり休みなよ」
「うん、ありがとう。あなた」
僕は職場内で知り合った女性と結婚していた。
12年経ち、あの時の出来事はすっかり過去のことになっていたんだ。
あの日記のことも、希さんとの約束のことも、忙しい毎日の中で、すっかり記憶から抜け落ちていた。
僕が家に帰ると、そこには誰もおらず、テーブルには、妻の書いた手紙とお祝いのケーキが残されていた。
『あなた、部長昇進おめでとう』
妻とは昨年結婚し、もうすぐ子供も生まれる。
結婚した妻の性格もとても穏やかで、年齢は12歳年下と離れてはいるが、とても円満な家庭を築けている。
僕は人並みの幸せを手にしていたんだ。
大量に残っている課長時代の書類を片付けようと、書斎に入る。
我武者羅に働いていたため、この膨大な資料を整理する時間も、振り返る時間も、全くなかった。
それほど、僕は一生懸命に今の仕事に打ち込んでいたんだ。
そんな時だった……。
書棚から、一冊の古いノートが何故か『ポトリ』と落ちて来た。
僕はそのノートの存在をすっかり忘れていたが、落ちたノートを拾い上げ、手に取った瞬間、あの時の思い出が走馬灯のように押し寄せた。
「こ、これは……、あの時の日記……」
僕は最後に会った彼女との出来事をこの時、はっきりと思い出した。
(「あと1日で、おばけの私とも永遠のお別れ……」)
(「友也くんが部長になった時に一緒にお祝いしたいから、最後のページはその時に開いて欲しい……」)
僕は、今日が丁度その日であることの偶然に、驚きを隠せなかった。
「確か、最後のページだけ見てなかったな……」
心臓が高鳴るのが分かった。
その日記の最後のページだけは見てはいけない気がしていたからだ。
だから、自分の記憶の中から意識的に消そう、消そうとしていたのかもしれない。
しかし、彼女との約束は、今はっきりと思い出したんだ……。
(「約束して。友也くん」)
彼女の声も蘇る……。
記憶の中の彼女の声は、いつもやさしく、明るい声だったように思う。
僕は胸の高鳴りを必死に抑え込み、日記の最後のページをゆっくりと開いてみた。
『昭和54年12月24日(月)』
その日記の日付は、偶然にも今日の日付と同じだった。
『今日、私は命を絶とうと思います。この日記を書くのも、今日で最後です。お父さん、お母さん、今まで私を育ててくれてありがとう』
その日記の内容は、衝撃だった……。
希さんは、自ら命を絶っていたんだ。
だから、30歳になった歳で、おばけになった……。
今更ながら、この時初めてそのことに気付く。
希さんは、そこまで彼とのこと、お腹の赤ちゃんのことを思い悩んでいたんだと思う。
しばらくすると、書斎に靄が立ち込め、彼女は姿を現した……。
「友也くん。お久しぶり……。最後のページ読んだのね……」
久しぶりに見るその姿は、あの時と同じ30歳のままの変わらない彼女だった。
「あ、はい……」
「うふふっ、友也くん、随分と貫禄が出て立派なおじさんになったのね」
彼女は、相変わらず僕を年下扱いだ……。
「そ、そうですか……?」
「友也くん、何歳になったの?」
「ぼ、僕は、42歳になりました……」
「もう、友也くんの方が、私よりも12歳も年上じゃないの。敬語じゃなくてもいいのよ」
「は、はい。分かりました……」
「うふふっ、変わらないのね、友也くんは」
そう言って微笑む彼女は、とても穏やかな表情をしている。
口元にできる小さな笑窪も、今はっきりと思い出した。
このことは、希さんにも伝えておかなければならない。
大事な希さんとの約束だったから……。
「ぼ、僕、部長になりました……」
「そうなの! おめでとう! 約束を守ってくれたのね?」
「は、はい。偶然、ノートを見つけて、それで思い出しました……」
「それは、神様のいたずらなのかもね。うふふっ」
12年ぶりに見る希さんは、あの時のまま変わらず明るく元気な女性のままだった。
いや、彼女はそうやって、ずっと自分を励ましていたのかもしれない。
「ところで、友也くんは、彼女できた?」
「えっ? っと……、ぼ、僕、昨年、結婚しました……」
「そ、そうなの……? お、おめでとう! 良かったぁ~。私を待ってたなんて言ったらどうしようかと思った」
希さんはそう言ったが、本心でないことは表情と態度からすぐに分かる。
彼女はその場でくるりと回り、手を重ねながら背を向け、下の方を見つめている。
申し訳ない思いでいっぱいだった。
僕は、いつの間にか、大人になり、現実を見るようになっていたんだ……。
「奥さんは、いくつなの?」
「12歳年下の30歳です……」
「あれっ? 偶然かしら。私と同い年ね」
「そ、そういうことになりますね……」
「もう、妬けちゃうな~。少しでも私のことを思っててもらいたかったのに~」
希さんは明るくそう言ってはいたが、俯いたその目には光るものが見えた。
僕はそんな表情をしている希さんに謝った。
「希さん、ごめんなさい……。僕……」
「いいの……、私との約束をちゃんと果たしてくれたから。それだけでもうれしい……」
そう言いながら、希さんは、僕に背中を向けている。
時折、彼女の手は、顔の方に行くのが見える。
「希さん……」
「友也くんは、奥さんのこと愛しているの?」
「は、はい……」
「それは良かった……。一生、大事にしなきゃダメよ」
「はい。大事にします」
「何か年上の友也くんって、変な感じね」
「そうですね……。僕も、年上だった希さんが、12歳も離れた年下の女性になっちゃうなんて想像もしていませんでした」
彼女は一度、指で涙を拭い、精一杯の笑顔で僕の方に振り返る。
「うふふっ、そうね。友也くんは、今、幸せ?」
「はい、幸せです……」
「それなら……、良かった……」
彼女は、そう言って目を細めると、彼女の頬から一粒の涙が零れ落ちたのがはっきりと見えたんだ……。
希さんは再び俯いて、太もも辺りに手をやって、涙がそれ以上零れ落ちないように堪えているようだった。
そして、そんな空気を追い払うかのように、希さんは努めて明るく振舞い、こう言った。
「さあ、今日は、友也くんの部長昇進祝いよ! 明るく、パーッとお祝いしましょう!」
「はい! テーブルの上にお祝い用のケーキがあるので、一緒に食べましょう!」
「奥さんにバレないようにね」
「今、奥さんは病院に入院しています」
「えっ? 病院に? どこか悪いの?」
「いいえ。子供が出来たんです」
「あ~、いつの間に~。このぉ~。そうなんだ。友也くんもいつの間にか、パパになっちゃうのね。じゃあ、それも一緒にお祝いしましょう。ダブルで!」
「はい!」
僕は久しぶりに希さんに会い、嬉しい気持ちと、申し訳ない思いが入り混じった状態だったが、変わらない希さんを見て元気をもらえた。
でも、希さんが、明るくすればするほど、希さんの心の傷が切なく僕を襲う。
彼女がおばけになった理由……。
思い悩んで、自ら命を絶った事情……。
僕には、そんな現実が、想像もつかない……。
「かんぱーい!!(かんぱーい!!)」
「友也くんもすっかり、お酒が強くなったね」
「はい。随分と前の部長に飲まされましたんで……」
「あ~、あの『ハゲ部長さん』に」
「あはははは」
僕たちは時間を忘れて、忘れかけていた希さんとの出来事を思い出しながら、楽しくお祝いをした。
「あの時、希さんが、部長のカツラを窓から放り投げたんですよね」
「そうそう、だって、友也くんをいじめるんだもん。あれくらいしてやらなきゃ」
「あははははは」
「うふふふっ」
僕はいいことを思いついた。
また、あの時のように、希さんの一番かわいらしい姿を見せてもうらおう。
「あっ、そうだ。久しぶりに、希さんにケーキを食べさせてあげる」
「だから、私おばけだから、ケーキは食べられないったら」
僕はそれでも、ケーキをフォークですくい上げると、希さんの顔の前にやる。
「はい、希さん。お口を開けて下さい。はい、あ~ん」
「もう、友也くんったら~。あ~ん……」
「おいしいですか?」
「うん。とってもおいしい」
「あはははは、希さん、変わらないですね。いつも、あ~んの時、顔が真っ赤になります」
「もう、楽しんでるなぁ~」
「あははははは」
12年ぶりに再会する希さんは、やはりとても魅力的な女性だった。
こうして、久しぶりに会っても、全くそんなに離れていたなんて感じない。
また、あの時のようにすぐに仲良くなれる。
希さんの笑顔は、若かった自分から見ても、今、年上になった自分から見ても、やはり変わらず輝いて見える。
いつもまでも、こんな楽しいおしゃべりを彼女としていたい……。
でも……、残された時間は、あとわずか……。
タイムリミットが近づき、僕たちの永遠の別れ時が……、
もう間もなく、訪れようとしていた……。
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