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学園編
17:木苺
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何年も動いている体内時計は意外と優秀。
ずっと寮の規則通りに生活していたものだから、羽を伸ばせる外泊中でも起床時刻を迎えれば勝手に目が覚めてしまう。
二度寝という手もあるが、眠気を蹴ってリヴィアンはベッドから抜け出そうとした。
「ん……リヴィ先輩、もう起きるん?」
「寝てて良いわよ」
捲れたブランケットから情交の匂いと、隠れていた銀色の毛並み。
名残惜しげな甘い声で仔犬に纏わり付かれてもリヴィアンの返事は涼やかに乾いたもの。
いつまでもここに浸ってはいられないのだ。
戯れ合いで散々肌を見せた後でも着替えは別。
ロキにあちらを向かせて、クローゼットから出した服に一枚ずつ手足を通す。
ハーブの女王だけにラベンダーは万能。
薄紫が匂い立つ香油と洗面器の水を使いながら、髪や肌も手入れする。
寝癖だらけのレモンブロンドを梳かしている時、下着にブランケットを羽織ったロキが横から覗き込んできた。
鏡越しに交わる、暗褐色と濃藍の視線。
見慣れた顔は前髪の分け目が左右逆さまなので一瞬違和感があった。
「そうしてると髪フワフワで可愛いんねぇ」
リヴィアンからすれば軽い爆発状態だというのに、ロキは隙だらけの緩んだ頬で言う。
それはそれは、実に愛しさを滲ませながら。
トウモロコシの髭のようだった数年前に比べて試行錯誤の末に何とか落ち着いてきた癖毛だが、どうしても広がりやすいのは仕方ない。
寝起きで下ろしていると、淡いレモン色のベールでも被ったようにもなる。
こうした朝は現世のヘアアイロンが恋しくなってしまう。
きっとロキには分からない悩み。
綺麗なのは色だけであらず、艶々と流れ落ちる直毛。
長く伸ばしても絡まらずよく似合うだろう。
寝顔の可愛らしさは言うまでもなかったが、まだ眠そうで気怠げな仕草すら様になる美少年である。
「でも、髪編まないと纏まらないのよ」
「それ僕がやってみたい」
「ロキ君、三つ編みって分かる?」
「紐なら出来るから何とかなると思うんよ」
何とか格好が付く程度まで纏まったところで背中を預けた。
まずは長い金髪を三分割してから。
束を編み始め、コツを掴んだら毛先まで勝手に進んでいく。
ロキはなかなか器用な方のようで、初めてにしては出来栄え上々。
情交の時もそうだった、リヴィアンに触れてくる指先は飽くまでも木目細やか。
経験が浅いなりになるべく丁寧であろうとする。
「ありがと。それはそれとして、匂い嗅ぐのやめて……」
最後に編んだ髪の結び目を恭しく摘み、キスを一つ落とされる。
どこで覚えたのか、こんな気障な仕草。
そう思ったが鼻先に押し当てる口実に過ぎなかったらしく、深呼吸されると流石に恥ずかしい。
背後なので本来なら見えない筈の顔。
鏡に映ったロキの表情は、媚薬のラベンダーを深々と吸い込んで夢見心地。
しかし、そろそろ離してもらわねば。
三つ編みを翻してリヴィアンは立ち上がる。
「ちょっと走ってくるから、良い子で待ってて」
先に起きるのは朝食の支度や洗濯の為ではない。
一人で先に気を回して家事をやるなんて、母親でもあるまいし。
"彼女"は決して尽くすタイプでないのだ。
「拙者、親方と申すはお立会いの中にご存知のお方もござりましょうが……」
毎日朝と夕、ほとんど欠かさずに唱える外郎売。
習慣は何年経っても変わらず。
この世界の住人からすれば怪しげな呪文に過ぎないだろうけれど。
ロキを驚かせてしまうので階段を下りながら聴こえないくらい離れ、小さめの声量でも明瞭な滑舌で。
加えて、体力作りも習慣のうち。
山の朝は爽やかを通り越して、もう寒いくらいの清らかさ。
深呼吸で生々しい緑と土の匂いを身体一杯に。
軽く準備体操の後、スタートを切った。
「リヴィ先輩って走るの好きなん?」
「いや、体力作りと……お腹の肉って落ちないのよね……」
「手に収まる感じが可愛いお肉なのに」
「……ロキ君、好きな相手だからって何でも全肯定しなくて良いのよ」
髪を梳かしていた時のことと良い、どうもロキはリヴィアンに対して惚れた欲目が大きく働いているようだ。
正直なところ、胸よりも腹を見られる方が恥ずかしいのでこちらからすれば少し怖いくらい。
単純な話、もともと髪や身体が柔らかそうな女が趣味という可能性も高いが。
その手の男は大変多いのだ。
性的嗜好は抗い難いものなので、むしろその方が納得出来る。
たまたまリヴィアンが条件に当て嵌まってしまったと。
ちなみに、これは朝食時の会話。
リヴィアンが帰る頃、てっきり二度寝してるかと思っていたばかりのロキは食卓を整えていた。
こちらはどうやら尽くすタイプ。
温め直したスープに熱々チーズの溶けたトーストを添えれば立派なもの。
簡単なメニューでも、自分で作らない食事は大変ありがたい。
頭を撫でてほしいとご褒美の要求まで。
それは構わないのだが、子供なんだか仔犬なんだか。
二人きりの旅行でロキは浮かれていたが、ここでの生活はやることが大変多い。
朝食が済んだら次は洗濯に取り掛からねば。
この世界では盥と板で一枚ずつなんて流石にもう古く、手動か足踏み式の洗濯機が主流。
洗剤が溶けた湯と衣類を入れて回し、水を入れ替えたら濯ぎと脱水まで完備。
初等部から自分の服は自分で洗うように教えられるので、これは寮生活ですっかり慣れている。
各部屋に一台ずつ備え付けられており、ベランダで干して畳むまでが仕事。
それから夏の間に大量の薪割りも。
暖房や料理だけでなく、ちょっと湯を沸かすにも燃料が必要なのだ。
斧を振り下ろし続けると腰が痛むのは分かっていても最低でも毎日一時間。
今回は二人なので分担も出来るが、自給自足生活は忙しい。
さて、甘い時間というのも予定に入っている。
少し意味が違うけれど。
今日のランニングは土産があった。
走るには少し邪魔だったが、蓋付きの大きなバスケットも持参していったのだ。
「ロキ君、木苺は好き?」
ここはまるで赤頭巾のお婆さんの家。
バスケットの中身は葡萄酒と焼き菓子が相応しいのだろうけれど残念、不正解。
摘んできたのは花でなく、赤と黒の粒が山盛り。
夏は狩るにしても獣より果実。
リヴィアンの記憶を頼りに初めて来た年、野生のラズベリーとブラックベリーが群れなす場所を見つけたのである。
まるで絵本の一ページのように素敵な光景。
ただしどちらも棘があるので、触れる際には手袋をして取り扱い注意。
製菓が得意なら色々と楽しめるだろうが、簡単なレシピでも材料を揃えたり計ったりと面倒で仕方ない。
気紛れで作るとしてもマフィン程度か。
そういう訳で、いつもは無難に砂糖と煮詰めて全てジャムにするのだ。
保存が利くし使い道もとても幅広い。
何より、山小屋で作るのは昔からちょっとした憧れがあった。
児童文学でそんなシーンを読んだ覚えがある。
潰さないよう優しくに洗って大鍋一杯、砂糖をたっぷりまぶしてレモン汁も少々。
木苺から水分が出て砂糖が溶けるまで馴染んできたら、火に掛けて木べらで掻き混ぜながら煮込む。
赤と黒が煮崩れてきて混ざり合った鍋の中は深く暗いバーガンディ。
熟成されたワインのような色で、台所に満ちた甘酸っぱい香りで酔ってしまいそうだった。
薪のコンロは揺らめく炎が大きく熱気も強い。
長いこと見つめていると魅入られる。
火を強めると灰汁が表面に集まってきた。
リヴィアンが丁寧にスプーンで掬っていると、軽く袖を引かれる。
ロキが小さく舌を突き出し、味見させて欲しいとおねだり。
「ちょっと待ってね」
金属のスプーンも煮溶けた木苺も熱々。
このまま舐めたら舌を大火傷してしまうので、涎が垂れそうな口許には人差し指で触れて制した。
ただ、果物の灰汁は毒でない。
味わうならもっと良い別の方法があるのだ。
リヴィアンが付きっきりで木苺を煮込む傍ら、ロキに横で小鍋の牛乳を温めておくように言っておいたのはこの為だった。
二等分してカップに注ぐと、熱々の灰汁をトッピング。
これもどれかの本で読んだ一文である。
ジャム作りの時、こうして出来立ての苺ミルクを飲むのが著者の愉しみと。
「先輩にフーフーしてほしかっただけなんだけど」
「そうね、冷まさないと」
ロキの残念そうな顔は見なかったことにして流した。
カップを軽く鳴らして乾杯、ミルクで休憩。
ジャムが完成するまであと少し。
冷めればとろみが増すので緩めくらいで良い。
普通ならここで出来上がりのところ、手間は掛かるが裏漉しもして滑らかにしておく。
この木苺は野生種の所為か種が大きめの物も混ざっており、このまま食べると小さい砂利でも噛んだようになってしまうのだ。
人によっては気にならない程度だが。
そうして煮沸した清潔なガラス瓶に詰めて終わり。
山盛りの木苺も火を通すと減るもので、意外と少ない二本分。
自分に一本、手伝いの報酬としてロキに一本。
予定では土産として渡すつもりだったのに、実におかしなことになったものである。
あまり欲張って大量に摘んだりしても持ち帰るには重く、作るのも大変、保存食でも持て余す。
「生きる為に自然の物を少しだけ拝借する」が信念。
勿論あの場所は住人達も知っているし、似たようなところも複数あるので採りきれない量が生る。
なので毎年のように木苺摘み自体はするが「根気や時間が無いとジャム作りまでしない」と苦笑いを聞いた。
まるでお伽噺のような土地だが、ここで生活する彼ら彼女らにとっては現実なのである。
リヴィアンも今のところ休暇だからこそ、わざわざ疲れるようなことでも非日常の娯楽としていた。
それだけの若さや体力もあれば、今年は二人だからという理由も。
苦労も後々に思い出となるだろう。
そうこうしているうちに遅めだが午後のお茶の時間。
ロキがコーヒーを淹れている間、リヴィアンもビスケットにジャムを垂らす。
木製のダイニングテーブルとパッチワークのテーブルクロスは食卓を華やかにする。
大抵の物は美味そうに見せるので、彩り豊かなお茶にお菓子を載せるとやはり絵本の世界のようになった。
差し込む太陽も柔らかく麗しい。
「うん……今年のも成功だわ」
「美味しいわぁ」
昨日も汽車の旅で食べたビスケットだったが、まだ温かい木苺の甘さが加わると全く別物。
口の中で焼き立てのジャムタルトの味になり、コーヒーの苦みがすっきりと引き締める。
向かい合わせで静かに時は過ぎていく。
いつものことだった、誕生日の前までならば。
「それにしてもリヴィ先輩、こういう恰好よく似合うんね」
ランニングや薪割りの時には肌を隠す軽装だった。
肉体労働をするなら機能性重視でなければ。
一転して今はエプロンドレス姿のリヴィアンに対し、ロキから不意の指摘。
家で過ごす分には自由であり洒落っ気を出したいところなので、ジャム作りの前に着替えた。
ただし汚れても良いようにと木苺に合わせて、色はローズとアイボリーのギンガムチェック。
確かに、三つ編みとそばかすのリヴィアンはカントリーガールスタイルが似合う。
春のような明るさと可愛らしさを持ち合わせる容貌なので、淑やかに着飾ればドレス姿も様になるだろうが柄でなかった。
冬には銃を担いで狩りにも行くくらい。
飽くまでも赤頭巾でなく、猟師でもあるのだ。
一人でもここで生きていける逞しさはある。
とはいえ、今は二人きり。
「なんかもう脱がせたいくらい可愛いわぁ」
「ロキ君、朝から結構働いた割には元気ね……」
良からぬことを囁く悪い子に、ジャムで粘着いてきた指先を奪われた。
口に咥えてザラついた生温かな舌を絡めてくる。
濃藍の上目遣いが微熱を持って誘う。
それにしても、洗濯は慣れているとして薪割りで疲れていた筈なのだが。
意外と体力があるやら、若さとはそういうものなのやら。
男のことは分かるのに男の子のことは未知。
故に戸惑って、受け流せない時がある。
「ん……だから一緒に昼寝してこようなぁ、先輩」
向かい合わせの席、触れるには二人を隔てているテーブルが邪魔。
舐め取られたばかりの手をロキに引かれたものだから釣られて立ってしまった。
もう言い訳も出来ずに、ベッドまで連行。
人目が無ければ随分と甘えん坊になるものだ。
本当にどこで覚えてきたんだか。
天然物ならとんだ小悪魔。
否、ここは乙女ゲームの世界と忘れてはいけない。
本来ならばこの手練手管はきっとヒロインに尽くす為だったろうに。
「私は悪くないわ、そういうふうに描かれただけ」
これは昔見た映画、男達を虜にするキャラクターとして生まれた美女の台詞。
ほとんど笑わないあのヒロインは王子様なんて求めず、唯一子供のように心から笑い合える金のガチョウを持つ男を愛した。
悪役を愉しむ"彼女"に不平不満など無いが、頭でなら理解は出来る。
天に割り振られた役から解放して、素顔を見てくれる相手に惹かれてしまうこと。
それなら、ロキにとっての自分はどうなのだろうか。
はて、そもそも彼の役割がどんなものなのか知らなければ分かりようがない。
誠実でありたいと思うのなら、答え合わせが出来ないまま一つずつ丁寧に解くだけ。
ずっと寮の規則通りに生活していたものだから、羽を伸ばせる外泊中でも起床時刻を迎えれば勝手に目が覚めてしまう。
二度寝という手もあるが、眠気を蹴ってリヴィアンはベッドから抜け出そうとした。
「ん……リヴィ先輩、もう起きるん?」
「寝てて良いわよ」
捲れたブランケットから情交の匂いと、隠れていた銀色の毛並み。
名残惜しげな甘い声で仔犬に纏わり付かれてもリヴィアンの返事は涼やかに乾いたもの。
いつまでもここに浸ってはいられないのだ。
戯れ合いで散々肌を見せた後でも着替えは別。
ロキにあちらを向かせて、クローゼットから出した服に一枚ずつ手足を通す。
ハーブの女王だけにラベンダーは万能。
薄紫が匂い立つ香油と洗面器の水を使いながら、髪や肌も手入れする。
寝癖だらけのレモンブロンドを梳かしている時、下着にブランケットを羽織ったロキが横から覗き込んできた。
鏡越しに交わる、暗褐色と濃藍の視線。
見慣れた顔は前髪の分け目が左右逆さまなので一瞬違和感があった。
「そうしてると髪フワフワで可愛いんねぇ」
リヴィアンからすれば軽い爆発状態だというのに、ロキは隙だらけの緩んだ頬で言う。
それはそれは、実に愛しさを滲ませながら。
トウモロコシの髭のようだった数年前に比べて試行錯誤の末に何とか落ち着いてきた癖毛だが、どうしても広がりやすいのは仕方ない。
寝起きで下ろしていると、淡いレモン色のベールでも被ったようにもなる。
こうした朝は現世のヘアアイロンが恋しくなってしまう。
きっとロキには分からない悩み。
綺麗なのは色だけであらず、艶々と流れ落ちる直毛。
長く伸ばしても絡まらずよく似合うだろう。
寝顔の可愛らしさは言うまでもなかったが、まだ眠そうで気怠げな仕草すら様になる美少年である。
「でも、髪編まないと纏まらないのよ」
「それ僕がやってみたい」
「ロキ君、三つ編みって分かる?」
「紐なら出来るから何とかなると思うんよ」
何とか格好が付く程度まで纏まったところで背中を預けた。
まずは長い金髪を三分割してから。
束を編み始め、コツを掴んだら毛先まで勝手に進んでいく。
ロキはなかなか器用な方のようで、初めてにしては出来栄え上々。
情交の時もそうだった、リヴィアンに触れてくる指先は飽くまでも木目細やか。
経験が浅いなりになるべく丁寧であろうとする。
「ありがと。それはそれとして、匂い嗅ぐのやめて……」
最後に編んだ髪の結び目を恭しく摘み、キスを一つ落とされる。
どこで覚えたのか、こんな気障な仕草。
そう思ったが鼻先に押し当てる口実に過ぎなかったらしく、深呼吸されると流石に恥ずかしい。
背後なので本来なら見えない筈の顔。
鏡に映ったロキの表情は、媚薬のラベンダーを深々と吸い込んで夢見心地。
しかし、そろそろ離してもらわねば。
三つ編みを翻してリヴィアンは立ち上がる。
「ちょっと走ってくるから、良い子で待ってて」
先に起きるのは朝食の支度や洗濯の為ではない。
一人で先に気を回して家事をやるなんて、母親でもあるまいし。
"彼女"は決して尽くすタイプでないのだ。
「拙者、親方と申すはお立会いの中にご存知のお方もござりましょうが……」
毎日朝と夕、ほとんど欠かさずに唱える外郎売。
習慣は何年経っても変わらず。
この世界の住人からすれば怪しげな呪文に過ぎないだろうけれど。
ロキを驚かせてしまうので階段を下りながら聴こえないくらい離れ、小さめの声量でも明瞭な滑舌で。
加えて、体力作りも習慣のうち。
山の朝は爽やかを通り越して、もう寒いくらいの清らかさ。
深呼吸で生々しい緑と土の匂いを身体一杯に。
軽く準備体操の後、スタートを切った。
「リヴィ先輩って走るの好きなん?」
「いや、体力作りと……お腹の肉って落ちないのよね……」
「手に収まる感じが可愛いお肉なのに」
「……ロキ君、好きな相手だからって何でも全肯定しなくて良いのよ」
髪を梳かしていた時のことと良い、どうもロキはリヴィアンに対して惚れた欲目が大きく働いているようだ。
正直なところ、胸よりも腹を見られる方が恥ずかしいのでこちらからすれば少し怖いくらい。
単純な話、もともと髪や身体が柔らかそうな女が趣味という可能性も高いが。
その手の男は大変多いのだ。
性的嗜好は抗い難いものなので、むしろその方が納得出来る。
たまたまリヴィアンが条件に当て嵌まってしまったと。
ちなみに、これは朝食時の会話。
リヴィアンが帰る頃、てっきり二度寝してるかと思っていたばかりのロキは食卓を整えていた。
こちらはどうやら尽くすタイプ。
温め直したスープに熱々チーズの溶けたトーストを添えれば立派なもの。
簡単なメニューでも、自分で作らない食事は大変ありがたい。
頭を撫でてほしいとご褒美の要求まで。
それは構わないのだが、子供なんだか仔犬なんだか。
二人きりの旅行でロキは浮かれていたが、ここでの生活はやることが大変多い。
朝食が済んだら次は洗濯に取り掛からねば。
この世界では盥と板で一枚ずつなんて流石にもう古く、手動か足踏み式の洗濯機が主流。
洗剤が溶けた湯と衣類を入れて回し、水を入れ替えたら濯ぎと脱水まで完備。
初等部から自分の服は自分で洗うように教えられるので、これは寮生活ですっかり慣れている。
各部屋に一台ずつ備え付けられており、ベランダで干して畳むまでが仕事。
それから夏の間に大量の薪割りも。
暖房や料理だけでなく、ちょっと湯を沸かすにも燃料が必要なのだ。
斧を振り下ろし続けると腰が痛むのは分かっていても最低でも毎日一時間。
今回は二人なので分担も出来るが、自給自足生活は忙しい。
さて、甘い時間というのも予定に入っている。
少し意味が違うけれど。
今日のランニングは土産があった。
走るには少し邪魔だったが、蓋付きの大きなバスケットも持参していったのだ。
「ロキ君、木苺は好き?」
ここはまるで赤頭巾のお婆さんの家。
バスケットの中身は葡萄酒と焼き菓子が相応しいのだろうけれど残念、不正解。
摘んできたのは花でなく、赤と黒の粒が山盛り。
夏は狩るにしても獣より果実。
リヴィアンの記憶を頼りに初めて来た年、野生のラズベリーとブラックベリーが群れなす場所を見つけたのである。
まるで絵本の一ページのように素敵な光景。
ただしどちらも棘があるので、触れる際には手袋をして取り扱い注意。
製菓が得意なら色々と楽しめるだろうが、簡単なレシピでも材料を揃えたり計ったりと面倒で仕方ない。
気紛れで作るとしてもマフィン程度か。
そういう訳で、いつもは無難に砂糖と煮詰めて全てジャムにするのだ。
保存が利くし使い道もとても幅広い。
何より、山小屋で作るのは昔からちょっとした憧れがあった。
児童文学でそんなシーンを読んだ覚えがある。
潰さないよう優しくに洗って大鍋一杯、砂糖をたっぷりまぶしてレモン汁も少々。
木苺から水分が出て砂糖が溶けるまで馴染んできたら、火に掛けて木べらで掻き混ぜながら煮込む。
赤と黒が煮崩れてきて混ざり合った鍋の中は深く暗いバーガンディ。
熟成されたワインのような色で、台所に満ちた甘酸っぱい香りで酔ってしまいそうだった。
薪のコンロは揺らめく炎が大きく熱気も強い。
長いこと見つめていると魅入られる。
火を強めると灰汁が表面に集まってきた。
リヴィアンが丁寧にスプーンで掬っていると、軽く袖を引かれる。
ロキが小さく舌を突き出し、味見させて欲しいとおねだり。
「ちょっと待ってね」
金属のスプーンも煮溶けた木苺も熱々。
このまま舐めたら舌を大火傷してしまうので、涎が垂れそうな口許には人差し指で触れて制した。
ただ、果物の灰汁は毒でない。
味わうならもっと良い別の方法があるのだ。
リヴィアンが付きっきりで木苺を煮込む傍ら、ロキに横で小鍋の牛乳を温めておくように言っておいたのはこの為だった。
二等分してカップに注ぐと、熱々の灰汁をトッピング。
これもどれかの本で読んだ一文である。
ジャム作りの時、こうして出来立ての苺ミルクを飲むのが著者の愉しみと。
「先輩にフーフーしてほしかっただけなんだけど」
「そうね、冷まさないと」
ロキの残念そうな顔は見なかったことにして流した。
カップを軽く鳴らして乾杯、ミルクで休憩。
ジャムが完成するまであと少し。
冷めればとろみが増すので緩めくらいで良い。
普通ならここで出来上がりのところ、手間は掛かるが裏漉しもして滑らかにしておく。
この木苺は野生種の所為か種が大きめの物も混ざっており、このまま食べると小さい砂利でも噛んだようになってしまうのだ。
人によっては気にならない程度だが。
そうして煮沸した清潔なガラス瓶に詰めて終わり。
山盛りの木苺も火を通すと減るもので、意外と少ない二本分。
自分に一本、手伝いの報酬としてロキに一本。
予定では土産として渡すつもりだったのに、実におかしなことになったものである。
あまり欲張って大量に摘んだりしても持ち帰るには重く、作るのも大変、保存食でも持て余す。
「生きる為に自然の物を少しだけ拝借する」が信念。
勿論あの場所は住人達も知っているし、似たようなところも複数あるので採りきれない量が生る。
なので毎年のように木苺摘み自体はするが「根気や時間が無いとジャム作りまでしない」と苦笑いを聞いた。
まるでお伽噺のような土地だが、ここで生活する彼ら彼女らにとっては現実なのである。
リヴィアンも今のところ休暇だからこそ、わざわざ疲れるようなことでも非日常の娯楽としていた。
それだけの若さや体力もあれば、今年は二人だからという理由も。
苦労も後々に思い出となるだろう。
そうこうしているうちに遅めだが午後のお茶の時間。
ロキがコーヒーを淹れている間、リヴィアンもビスケットにジャムを垂らす。
木製のダイニングテーブルとパッチワークのテーブルクロスは食卓を華やかにする。
大抵の物は美味そうに見せるので、彩り豊かなお茶にお菓子を載せるとやはり絵本の世界のようになった。
差し込む太陽も柔らかく麗しい。
「うん……今年のも成功だわ」
「美味しいわぁ」
昨日も汽車の旅で食べたビスケットだったが、まだ温かい木苺の甘さが加わると全く別物。
口の中で焼き立てのジャムタルトの味になり、コーヒーの苦みがすっきりと引き締める。
向かい合わせで静かに時は過ぎていく。
いつものことだった、誕生日の前までならば。
「それにしてもリヴィ先輩、こういう恰好よく似合うんね」
ランニングや薪割りの時には肌を隠す軽装だった。
肉体労働をするなら機能性重視でなければ。
一転して今はエプロンドレス姿のリヴィアンに対し、ロキから不意の指摘。
家で過ごす分には自由であり洒落っ気を出したいところなので、ジャム作りの前に着替えた。
ただし汚れても良いようにと木苺に合わせて、色はローズとアイボリーのギンガムチェック。
確かに、三つ編みとそばかすのリヴィアンはカントリーガールスタイルが似合う。
春のような明るさと可愛らしさを持ち合わせる容貌なので、淑やかに着飾ればドレス姿も様になるだろうが柄でなかった。
冬には銃を担いで狩りにも行くくらい。
飽くまでも赤頭巾でなく、猟師でもあるのだ。
一人でもここで生きていける逞しさはある。
とはいえ、今は二人きり。
「なんかもう脱がせたいくらい可愛いわぁ」
「ロキ君、朝から結構働いた割には元気ね……」
良からぬことを囁く悪い子に、ジャムで粘着いてきた指先を奪われた。
口に咥えてザラついた生温かな舌を絡めてくる。
濃藍の上目遣いが微熱を持って誘う。
それにしても、洗濯は慣れているとして薪割りで疲れていた筈なのだが。
意外と体力があるやら、若さとはそういうものなのやら。
男のことは分かるのに男の子のことは未知。
故に戸惑って、受け流せない時がある。
「ん……だから一緒に昼寝してこようなぁ、先輩」
向かい合わせの席、触れるには二人を隔てているテーブルが邪魔。
舐め取られたばかりの手をロキに引かれたものだから釣られて立ってしまった。
もう言い訳も出来ずに、ベッドまで連行。
人目が無ければ随分と甘えん坊になるものだ。
本当にどこで覚えてきたんだか。
天然物ならとんだ小悪魔。
否、ここは乙女ゲームの世界と忘れてはいけない。
本来ならばこの手練手管はきっとヒロインに尽くす為だったろうに。
「私は悪くないわ、そういうふうに描かれただけ」
これは昔見た映画、男達を虜にするキャラクターとして生まれた美女の台詞。
ほとんど笑わないあのヒロインは王子様なんて求めず、唯一子供のように心から笑い合える金のガチョウを持つ男を愛した。
悪役を愉しむ"彼女"に不平不満など無いが、頭でなら理解は出来る。
天に割り振られた役から解放して、素顔を見てくれる相手に惹かれてしまうこと。
それなら、ロキにとっての自分はどうなのだろうか。
はて、そもそも彼の役割がどんなものなのか知らなければ分かりようがない。
誠実でありたいと思うのなら、答え合わせが出来ないまま一つずつ丁寧に解くだけ。
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