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学園編
06:仔犬座
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翌日のシーライト学園は大騒ぎだった。
三階から四階へ繋がる階段下で、ジェッソが仰向けで倒れて動けなくなっていたところを発見されたそうだ。
現場の灯りは消えており、真っ暗な中で足を滑らせて落ちてしまったのだろうと推測された。
妻は亡くなって不仲の息子も成人して家を出た後。
帰宅しなくても気付かれず、この建物も夜の見回りが居ないので朝になるまで分からなかったのだ。
病院に運び込まれた時は衰弱しつつも息があったが、背中から落ちて脊髄を損傷していては再生不能。
こうなれば現代医学でも完治せず、治療しても麻痺が残り後遺症は深刻。
それだけでなくジェッソ当人が食事を拒否し、碌に眠ることすら出来ず、悪化は実に早かった。
こうして後日、アルノルド・ジェッソを送る会は粛々と行われたのである。
シーライト学園の黒い制服が「いざという時の正装」とは、そういう意味。
喪服としても使えるということだ。
地上を染めていたあの日の雪は残らず溶け去り、空も太陽も実に穏やかだった。
結局のところ芸術というのは裕福な者の道楽。
貧しい者には触れる機会が限られてしまうからこそ授業で教養として取り入れられていた訳だが。
親戚や学園の生徒だけではなく、熱心なファンやモデルなど関係者達が集まって彼の作品について語っていた。
そんな中で葬儀の場にそぐわず、妙に荒れている青年が居ると思えば彼がジェッソの息子だそうだ。
石膏を意味する姓だけに、まだ若くても父親と同じく白い髪。
長年モデルを務めていたという女性の一人に宥められても熱くなるばかり。
何というか、どうやらお世辞にも良い父親ではなかったらしい。
要するに「碌な死に方をしないと昔から思っていたが最期まで迷惑を掛けて、あの爺め」という旨を汚い言葉で咆えていた。
弔問客達からは眉を顰められていたが、彼なりに立腹という形で父親の死を受け入れようとしているのだ。
本当に心から怒りしかないのかもしれないし、哀しみの裏返しかもしれない、他者には分からないこと。
さて、リヴィアンはというと「あらまぁ……」と零しただけで、それ以上のことは何も。
一気に何十年分も老け込んだのだから、確かにあの身体で五階分の階段は下りでも酷。
四階まで降りられただけ大したものだ。
建物を出られても、おまけに厳しい寒さの夜を帰れるとも思えず。
リヴィアンも大怪我で長く入院した経験があるのでよく分かるが、肉体的な辛さは心を折る。
命までは許したとはいえ生気を奪われた後だ。
全ての欲を失っては「もう楽になりたい」が最後の願いになって当然の話。
それこそが生気を奪うことの真の恐ろしさ。
常日頃から見えない"死"の手が絡み付き、その背中を押そうと待ち構えているのだ。
いっそ音楽室で倒れたまま一晩明かして発見された方がまだ生き延びられたろう。
それでもあの様子では碌に頭も働かなかった筈、よっぽど犯行現場から立ち去りたかったか。
せめてもの情けで着衣の乱れは軽く直してあげたが、あのままの姿を見られたらジェッソが口を割らなくても淫行は明るみになってしまう。
それもまさか女生徒を襲って返り討ちに遭ったなんて、誰が信じるものか。
命よりも名誉を守る選択肢の先がこの有り様であり、彼の辿った運命。
正直なところ、罪悪感など欠片も無し。
殺して身体を奪ってしまった本物のリヴィアンに対してならばまだしも。
「所詮は物語の世界の登場キャラクター」なんて口にするつもりはあらず。
命を軽く見ている訳ではなく、その上での断言。
死の原因を作ったのはリヴィアンでもあれば、更に遡ればジェッソが襲い掛かってきたことにあるのだ。
流石に階段で足を踏み外したことまで責任が持てようか。
「悪役」として様々な物語に入り込んで来た。
されど、舞台の外まで世界はどこまでも広がり日常と一つに繋がっている。
幕が下りれば生き返る訳でなく犯した罪は本物。
そんなことを何度も繰り返して、今はここに居る。
また一人と屍を踏み越えても心に波風は立たず。
女子供を襲うような悪党なら、尚更。
それにしても生まれつきの白髪は現代日本なら目立つだろうが、この世界ではよくある色だった。
乙女ゲームの舞台としては単なるモブ止まり。
第四の壁の向こうから来た彼女にはこの世界の住人には見えない物が見える。
舞台の真ん中に立てる者かどうか、ということ。
どんなストーリーか知らないまま出演する形になってしまったが、出逢えば恐らく一目で分かる筈。
こちらには経験だけならあるのだ。
時が来れば、縁の引力で誘われるということも。
事故があったということで、再発防止の為に学校中の階段は滑り止めや照明の明るさ調整などが見直しされることとなった。
その間、図書館までも立入禁止になってしまったのは少し堪えたものである。
音楽室も同じなので歌の練習も出来ず。
こうして待ちに待った工事明け。
その日のリヴィアンは数日ぶりの図書館に行く為、早起きして身支度と朝食を済ませて寮を飛び出した。
再び雪が降りそうな静かで寂しい灰色の朝。
花の一つも咲かず草木は枯れ色、そんな校内の中庭を歩いていた時のこと。
「あの……高等部二年のリヴィアン・グラスさん、ですか?」
不意に一人の生徒に名を呼ばれた。
制服の上に黒いジャケットを羽織り、防寒の為かフードまで被っている。
この時間に登校しているということは寮生か。
少なくとも同学年では見覚えなし。
「僕はロキ……えっと、中等部一年のプロキオン・ギベオンと申します」
一礼の為にフードを外せば煌めくばかりの銀髪。
驚くことに、女生徒と見紛うばかりの美少年であった。
緩やかにラインを描く下がり眉、長い睫毛で縁取られた優美な垂れ目。
所在なさげな仕草と相まって気弱そうに見えるものの、上品で柔らかな雰囲気はダヤンと同系統。
彼よりも幼いので、まだ少女のような甘さが色濃く残っているが。
冷たくミステリアスな印象を与える銀髪に、儚げな顔立ちや小柄で華奢な体つき。
まるで雪の妖精が降り立ったかのようだ。
この世界に来てから、こんなにも綺麗な少年を見たのは初めてかもしれない。
ただしリヴィアンが彼と同年代なら見惚れただろうが「あら可愛らしい」と微笑ましく思う程度。
個人的な好みでは高等部の生徒でもまだ青い。
男として見るなら、少なくとも成人していなくては。
名前のプロキオンとは仔犬座のことか。
異世界とはいえ創作物の世界、こちらでも星座やギリシャ神話は現世と変わらない。
そしてギベオンは隕石、しかしリビアングラスやチベタンテクタイトと違ってガラスでなく主成分は鉄。
恐竜時代よりも遥か昔の約四億五千年前に地球へ飛来したという歴史を持ち、希少かつ高価。
加工すると独特の幾何学模様が浮かび上がり、アクセサリーとして出回る際には錆止めでメッキ加工をされているので主に銀色で知られる。
鉱石と同じ色や名前を持つ人間しか居ないので、赤や青どころか紫や緑の髪ですらよくある。
とはいえ明らかなモブの場合は彩度や明度は低く、飽くまでも地味な色合いばかり。
こんな世界で最も珍しいのは銀髪だった。
それも老化や疾患とは全く異なる、人ならざる者めいた色。
そんな非常に希少価値の高い、輝く銀髪。
線が細く可愛らしい美少年。
星座と隕石、意味ありげに韻を踏んだ名前。
ついに時は来たか。
経験と勘が告げている。
ロキと名乗る少年は、ほぼ間違いなく攻略対象だ。
今まで存在を知らなかったのは不覚。
思い起こせば寮で何度か遠くからフード姿を見掛けたことはあったが、ぼんやりした認識だった。
何しろ誰も彼も黒い制服なので同色では目立たない。
寮生同士でも学年も性別も違えば、集団生活の時間帯も噛み合わないことが多々。
悩んだ末に攻略対象らしきチベタンと離れる選択肢をしたというのに、こんなところで別のキャラクターと出逢うとは。
創られたものとはいえ、縁はどこで結ばれているか分からない。
「……グラスですけど、何か御用?」
数秒で理解や納得はしたが、それはリヴィアン一人の話。
素知らぬ顔でこちらからも訊ねた。
そう、本題はまだ何も見えていないのだ。
加速した心音を隠しながら、何事かと出方を待つ。
登場キャラクターの方から接触を図るとすれば、彼の方もここが創作物の世界と知っている可能性だってある。
鎌を掛けられるかもしれないと窺っていると。
「突然すみません、あの、勉強を教えていただけないでしょうか」
しかし、これは全く考えてもいなかった。
思ってもみない言葉に面食らう。
「えっと、僕、医者を目指してまして……ベルンシュタイン先生に相談したら、寮生で理数の成績が一番上位なのグラス先輩だから教えてもらえって。あっ、これ、紹介状です」
恐る恐る差し出された紙を受け取ったが、内容に目を通す前から訝しんでしまう。
紹介状なんて御大層、メモ一枚ではないか。
ベルンシュタインは中等部の理科教師。
そしてリヴィアンが三年生の時に担任だった。
転入してきたばかりの頃は寮や学園生活に慣れるまで世話になった恩ならあるが、こんな紹介状というメモで頼み事はあまりに軽過ぎやしないか。
せめて同行してあげても良いだろうに。
わざわざこんな早朝まで追い掛けて来たとしたら、よっぽど話し掛けるタイミングを図っていたのかもしれない。
ロキと来たら可哀想に、初対面の上級生相手で緊張しているのかすっかり硬くなってしまっている。
加えて無茶だとは承知の上のようだ。
断られるだけでなく、叱られるのではとすら思っていそうな雰囲気。
「別に、良いけど……」
リヴィアンの返答は決まっていた。
接点が出来れば監視しやすい、願ったり叶ったり。
異世界とはいえ数字や生物の理は現世と同じ。
医学生を演じたこともあるくらいなので基礎は記憶にしっかりと残っており、もともと勉強は得意。
教える時間なら作れば何とかなる。
それに、こんなにも酷く強張っている少年の頼みを断るのはあまりに気の毒だろう。
立ち話も何なので、場所を変える為に小さく手招き。
「ここじゃ寒いし、とりあえず図書館にでも行きましょうか」
「はいっ、あ、ありがとうございます!」
了承も感謝も白い息。
寒さで染まった頬が和らぎ、嬉しそうに頭を下げられてしまった。
美少年だけに笑った時の愛らしさは眩しいくらい。
惹かれるよりも胸に傷みが少々。
悪いが、受けたのは決して親切心ではないのだ。
それにしても、同じ中等部ならまだしも面識のない高等部の生徒に頼むことだろうか。
不自然さで何かあるのかと反射的に警戒してしまうところだが、この学園ではよくある話である。
校訓が「精神の美徳」だけに、やや押し付けがましいくらいに助け合いが当たり前とされているのだ。
困っている生徒が居れば、見ず知らずの相手でも友人のように優しくしなさいと。
特に孤児が多い寮生を一つの家族として扱い、年長者は年少者の世話するリレーを繋げて行こうという。
半ば義務と化しては呆れてしまうが。
最上級生の高等部三年生はもうすぐ卒業で忙しく、そうなると二年生にお鉢が回ってくる訳だ。
ところでリヴィアンも来年度で卒業。
勿論、その後の行く宛くらいは幾つか絞っていた。
悪役が好き勝手に動くだけでもストーリーに波紋が生まれるだろうが、とりあえずこの図書館と離れ難いので司書にでもなろうかと考えていたところ。
卒業生が職員になるのもシーライト学園でよくある話。
前世での様々なスキルを持っているので転職も視野に入れた上であり、他にも資格を複数取るつもり。
テクタイト家の養女にならなかった時点で分岐した運命。
リヴィアン・グラスは「キミヒミ」のシナリオと掛け離れたキャラクターとして育ちつつある。
本来のリヴィアンである「甘やかされた箱入り娘」の仮面は、年に数回会うテクタイト家の前でのみ。
脚本は無く他に知り合いも居ないので、シーライト学園内ではいっそのこと開き直って自我のまま振る舞うことにしていた。
好きな食べ物は林檎、好きな花はラベンダー、好きな動物は蛇や蜥蜴など爬虫類、趣味は読書、特技は狙撃。
グラス男爵の形見の猟銃を隠し持ち、獣を狩って小金稼ぎに行く日もある。
山籠りの知識や経験なら前世で培ってきたので一人でも平気。
甘ったるい少女趣味で引きこもりがちだった本来のリヴィアンとは確かに違えども、この程度では誰も偽物と気付かれず。
もともと人生の大半を家で過ごしていたので、亡き両親や侍女のペリコしか深い付き合いが無いのだ。
悪役を愉しむ彼女の性質もまた生前から欲望に貪欲。
日頃の物腰通り悠々おっとりした人柄で、窮地や悪意に対しても崩れず強い。
素顔は感情が見え難く、何を考えているのか読ませない目をしていた。
残酷で傲慢なマゾヒストかつサディストであることも、当人こそ重々に自覚あり。
そんな仄暗さとしっとりした艶やかさにも関わらず、不思議と澄んだ佇まい。
更に今は淡い金髪を持つ為、まるで月光が宿っているかの如く透明な夜の匂いを纏う。
昼よりも夜を好むならば、それは堪らなく甘やか。
集団の中でなら派手な方が目を引きがちだが、彼女がどんなに隠れていても嗅ぎ付けてしまう者は居る。
何より、仔犬座の名を持つ少年には毒だった。
飽くまでも受け手の問題であり、リヴィアン自身が望むまいが関係なしに。
時に想い人の美徳だけでなく、欲や罪に対しても強く心惹かれてしまう恋がある。
言うなれば、闇に魅入られるように。
闇を持つ者同士ならば尚強く、溶け合うことを望んで。
三階から四階へ繋がる階段下で、ジェッソが仰向けで倒れて動けなくなっていたところを発見されたそうだ。
現場の灯りは消えており、真っ暗な中で足を滑らせて落ちてしまったのだろうと推測された。
妻は亡くなって不仲の息子も成人して家を出た後。
帰宅しなくても気付かれず、この建物も夜の見回りが居ないので朝になるまで分からなかったのだ。
病院に運び込まれた時は衰弱しつつも息があったが、背中から落ちて脊髄を損傷していては再生不能。
こうなれば現代医学でも完治せず、治療しても麻痺が残り後遺症は深刻。
それだけでなくジェッソ当人が食事を拒否し、碌に眠ることすら出来ず、悪化は実に早かった。
こうして後日、アルノルド・ジェッソを送る会は粛々と行われたのである。
シーライト学園の黒い制服が「いざという時の正装」とは、そういう意味。
喪服としても使えるということだ。
地上を染めていたあの日の雪は残らず溶け去り、空も太陽も実に穏やかだった。
結局のところ芸術というのは裕福な者の道楽。
貧しい者には触れる機会が限られてしまうからこそ授業で教養として取り入れられていた訳だが。
親戚や学園の生徒だけではなく、熱心なファンやモデルなど関係者達が集まって彼の作品について語っていた。
そんな中で葬儀の場にそぐわず、妙に荒れている青年が居ると思えば彼がジェッソの息子だそうだ。
石膏を意味する姓だけに、まだ若くても父親と同じく白い髪。
長年モデルを務めていたという女性の一人に宥められても熱くなるばかり。
何というか、どうやらお世辞にも良い父親ではなかったらしい。
要するに「碌な死に方をしないと昔から思っていたが最期まで迷惑を掛けて、あの爺め」という旨を汚い言葉で咆えていた。
弔問客達からは眉を顰められていたが、彼なりに立腹という形で父親の死を受け入れようとしているのだ。
本当に心から怒りしかないのかもしれないし、哀しみの裏返しかもしれない、他者には分からないこと。
さて、リヴィアンはというと「あらまぁ……」と零しただけで、それ以上のことは何も。
一気に何十年分も老け込んだのだから、確かにあの身体で五階分の階段は下りでも酷。
四階まで降りられただけ大したものだ。
建物を出られても、おまけに厳しい寒さの夜を帰れるとも思えず。
リヴィアンも大怪我で長く入院した経験があるのでよく分かるが、肉体的な辛さは心を折る。
命までは許したとはいえ生気を奪われた後だ。
全ての欲を失っては「もう楽になりたい」が最後の願いになって当然の話。
それこそが生気を奪うことの真の恐ろしさ。
常日頃から見えない"死"の手が絡み付き、その背中を押そうと待ち構えているのだ。
いっそ音楽室で倒れたまま一晩明かして発見された方がまだ生き延びられたろう。
それでもあの様子では碌に頭も働かなかった筈、よっぽど犯行現場から立ち去りたかったか。
せめてもの情けで着衣の乱れは軽く直してあげたが、あのままの姿を見られたらジェッソが口を割らなくても淫行は明るみになってしまう。
それもまさか女生徒を襲って返り討ちに遭ったなんて、誰が信じるものか。
命よりも名誉を守る選択肢の先がこの有り様であり、彼の辿った運命。
正直なところ、罪悪感など欠片も無し。
殺して身体を奪ってしまった本物のリヴィアンに対してならばまだしも。
「所詮は物語の世界の登場キャラクター」なんて口にするつもりはあらず。
命を軽く見ている訳ではなく、その上での断言。
死の原因を作ったのはリヴィアンでもあれば、更に遡ればジェッソが襲い掛かってきたことにあるのだ。
流石に階段で足を踏み外したことまで責任が持てようか。
「悪役」として様々な物語に入り込んで来た。
されど、舞台の外まで世界はどこまでも広がり日常と一つに繋がっている。
幕が下りれば生き返る訳でなく犯した罪は本物。
そんなことを何度も繰り返して、今はここに居る。
また一人と屍を踏み越えても心に波風は立たず。
女子供を襲うような悪党なら、尚更。
それにしても生まれつきの白髪は現代日本なら目立つだろうが、この世界ではよくある色だった。
乙女ゲームの舞台としては単なるモブ止まり。
第四の壁の向こうから来た彼女にはこの世界の住人には見えない物が見える。
舞台の真ん中に立てる者かどうか、ということ。
どんなストーリーか知らないまま出演する形になってしまったが、出逢えば恐らく一目で分かる筈。
こちらには経験だけならあるのだ。
時が来れば、縁の引力で誘われるということも。
事故があったということで、再発防止の為に学校中の階段は滑り止めや照明の明るさ調整などが見直しされることとなった。
その間、図書館までも立入禁止になってしまったのは少し堪えたものである。
音楽室も同じなので歌の練習も出来ず。
こうして待ちに待った工事明け。
その日のリヴィアンは数日ぶりの図書館に行く為、早起きして身支度と朝食を済ませて寮を飛び出した。
再び雪が降りそうな静かで寂しい灰色の朝。
花の一つも咲かず草木は枯れ色、そんな校内の中庭を歩いていた時のこと。
「あの……高等部二年のリヴィアン・グラスさん、ですか?」
不意に一人の生徒に名を呼ばれた。
制服の上に黒いジャケットを羽織り、防寒の為かフードまで被っている。
この時間に登校しているということは寮生か。
少なくとも同学年では見覚えなし。
「僕はロキ……えっと、中等部一年のプロキオン・ギベオンと申します」
一礼の為にフードを外せば煌めくばかりの銀髪。
驚くことに、女生徒と見紛うばかりの美少年であった。
緩やかにラインを描く下がり眉、長い睫毛で縁取られた優美な垂れ目。
所在なさげな仕草と相まって気弱そうに見えるものの、上品で柔らかな雰囲気はダヤンと同系統。
彼よりも幼いので、まだ少女のような甘さが色濃く残っているが。
冷たくミステリアスな印象を与える銀髪に、儚げな顔立ちや小柄で華奢な体つき。
まるで雪の妖精が降り立ったかのようだ。
この世界に来てから、こんなにも綺麗な少年を見たのは初めてかもしれない。
ただしリヴィアンが彼と同年代なら見惚れただろうが「あら可愛らしい」と微笑ましく思う程度。
個人的な好みでは高等部の生徒でもまだ青い。
男として見るなら、少なくとも成人していなくては。
名前のプロキオンとは仔犬座のことか。
異世界とはいえ創作物の世界、こちらでも星座やギリシャ神話は現世と変わらない。
そしてギベオンは隕石、しかしリビアングラスやチベタンテクタイトと違ってガラスでなく主成分は鉄。
恐竜時代よりも遥か昔の約四億五千年前に地球へ飛来したという歴史を持ち、希少かつ高価。
加工すると独特の幾何学模様が浮かび上がり、アクセサリーとして出回る際には錆止めでメッキ加工をされているので主に銀色で知られる。
鉱石と同じ色や名前を持つ人間しか居ないので、赤や青どころか紫や緑の髪ですらよくある。
とはいえ明らかなモブの場合は彩度や明度は低く、飽くまでも地味な色合いばかり。
こんな世界で最も珍しいのは銀髪だった。
それも老化や疾患とは全く異なる、人ならざる者めいた色。
そんな非常に希少価値の高い、輝く銀髪。
線が細く可愛らしい美少年。
星座と隕石、意味ありげに韻を踏んだ名前。
ついに時は来たか。
経験と勘が告げている。
ロキと名乗る少年は、ほぼ間違いなく攻略対象だ。
今まで存在を知らなかったのは不覚。
思い起こせば寮で何度か遠くからフード姿を見掛けたことはあったが、ぼんやりした認識だった。
何しろ誰も彼も黒い制服なので同色では目立たない。
寮生同士でも学年も性別も違えば、集団生活の時間帯も噛み合わないことが多々。
悩んだ末に攻略対象らしきチベタンと離れる選択肢をしたというのに、こんなところで別のキャラクターと出逢うとは。
創られたものとはいえ、縁はどこで結ばれているか分からない。
「……グラスですけど、何か御用?」
数秒で理解や納得はしたが、それはリヴィアン一人の話。
素知らぬ顔でこちらからも訊ねた。
そう、本題はまだ何も見えていないのだ。
加速した心音を隠しながら、何事かと出方を待つ。
登場キャラクターの方から接触を図るとすれば、彼の方もここが創作物の世界と知っている可能性だってある。
鎌を掛けられるかもしれないと窺っていると。
「突然すみません、あの、勉強を教えていただけないでしょうか」
しかし、これは全く考えてもいなかった。
思ってもみない言葉に面食らう。
「えっと、僕、医者を目指してまして……ベルンシュタイン先生に相談したら、寮生で理数の成績が一番上位なのグラス先輩だから教えてもらえって。あっ、これ、紹介状です」
恐る恐る差し出された紙を受け取ったが、内容に目を通す前から訝しんでしまう。
紹介状なんて御大層、メモ一枚ではないか。
ベルンシュタインは中等部の理科教師。
そしてリヴィアンが三年生の時に担任だった。
転入してきたばかりの頃は寮や学園生活に慣れるまで世話になった恩ならあるが、こんな紹介状というメモで頼み事はあまりに軽過ぎやしないか。
せめて同行してあげても良いだろうに。
わざわざこんな早朝まで追い掛けて来たとしたら、よっぽど話し掛けるタイミングを図っていたのかもしれない。
ロキと来たら可哀想に、初対面の上級生相手で緊張しているのかすっかり硬くなってしまっている。
加えて無茶だとは承知の上のようだ。
断られるだけでなく、叱られるのではとすら思っていそうな雰囲気。
「別に、良いけど……」
リヴィアンの返答は決まっていた。
接点が出来れば監視しやすい、願ったり叶ったり。
異世界とはいえ数字や生物の理は現世と同じ。
医学生を演じたこともあるくらいなので基礎は記憶にしっかりと残っており、もともと勉強は得意。
教える時間なら作れば何とかなる。
それに、こんなにも酷く強張っている少年の頼みを断るのはあまりに気の毒だろう。
立ち話も何なので、場所を変える為に小さく手招き。
「ここじゃ寒いし、とりあえず図書館にでも行きましょうか」
「はいっ、あ、ありがとうございます!」
了承も感謝も白い息。
寒さで染まった頬が和らぎ、嬉しそうに頭を下げられてしまった。
美少年だけに笑った時の愛らしさは眩しいくらい。
惹かれるよりも胸に傷みが少々。
悪いが、受けたのは決して親切心ではないのだ。
それにしても、同じ中等部ならまだしも面識のない高等部の生徒に頼むことだろうか。
不自然さで何かあるのかと反射的に警戒してしまうところだが、この学園ではよくある話である。
校訓が「精神の美徳」だけに、やや押し付けがましいくらいに助け合いが当たり前とされているのだ。
困っている生徒が居れば、見ず知らずの相手でも友人のように優しくしなさいと。
特に孤児が多い寮生を一つの家族として扱い、年長者は年少者の世話するリレーを繋げて行こうという。
半ば義務と化しては呆れてしまうが。
最上級生の高等部三年生はもうすぐ卒業で忙しく、そうなると二年生にお鉢が回ってくる訳だ。
ところでリヴィアンも来年度で卒業。
勿論、その後の行く宛くらいは幾つか絞っていた。
悪役が好き勝手に動くだけでもストーリーに波紋が生まれるだろうが、とりあえずこの図書館と離れ難いので司書にでもなろうかと考えていたところ。
卒業生が職員になるのもシーライト学園でよくある話。
前世での様々なスキルを持っているので転職も視野に入れた上であり、他にも資格を複数取るつもり。
テクタイト家の養女にならなかった時点で分岐した運命。
リヴィアン・グラスは「キミヒミ」のシナリオと掛け離れたキャラクターとして育ちつつある。
本来のリヴィアンである「甘やかされた箱入り娘」の仮面は、年に数回会うテクタイト家の前でのみ。
脚本は無く他に知り合いも居ないので、シーライト学園内ではいっそのこと開き直って自我のまま振る舞うことにしていた。
好きな食べ物は林檎、好きな花はラベンダー、好きな動物は蛇や蜥蜴など爬虫類、趣味は読書、特技は狙撃。
グラス男爵の形見の猟銃を隠し持ち、獣を狩って小金稼ぎに行く日もある。
山籠りの知識や経験なら前世で培ってきたので一人でも平気。
甘ったるい少女趣味で引きこもりがちだった本来のリヴィアンとは確かに違えども、この程度では誰も偽物と気付かれず。
もともと人生の大半を家で過ごしていたので、亡き両親や侍女のペリコしか深い付き合いが無いのだ。
悪役を愉しむ彼女の性質もまた生前から欲望に貪欲。
日頃の物腰通り悠々おっとりした人柄で、窮地や悪意に対しても崩れず強い。
素顔は感情が見え難く、何を考えているのか読ませない目をしていた。
残酷で傲慢なマゾヒストかつサディストであることも、当人こそ重々に自覚あり。
そんな仄暗さとしっとりした艶やかさにも関わらず、不思議と澄んだ佇まい。
更に今は淡い金髪を持つ為、まるで月光が宿っているかの如く透明な夜の匂いを纏う。
昼よりも夜を好むならば、それは堪らなく甘やか。
集団の中でなら派手な方が目を引きがちだが、彼女がどんなに隠れていても嗅ぎ付けてしまう者は居る。
何より、仔犬座の名を持つ少年には毒だった。
飽くまでも受け手の問題であり、リヴィアン自身が望むまいが関係なしに。
時に想い人の美徳だけでなく、欲や罪に対しても強く心惹かれてしまう恋がある。
言うなれば、闇に魅入られるように。
闇を持つ者同士ならば尚強く、溶け合うことを望んで。
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