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第35話 第9章 遅すぎた再会④
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事務所からの帰り道、頭の中は山城が残したレシピのことでいっぱいだった。
「クソ、遅い」
何度も車線変更を繰り返し、アナザーに到着した彼は、真っすぐに厨房へと足を踏み入れた。
「さて、やるか」
準備もそこそこに、彼はドリドン鉱石の包丁を手に調理を開始する。
――絶対に、奥さんに山城さんのレシピを食べてもらうんだ。
憑かれたようにその一念だけが、心にあった。
山城のレシピは頭の中に入っている。……よほど奥さんに良いものを食べさせたかったに違いない。調理の難易度は高く、手間がかかる。
「まずはそうサナ豆と肉の下処理からだ」
黒羽は、山城の姿を思い浮かべた。レシピをただ再現するだけでは駄目だ。彼の想いも届けなければ。
手際よく丁寧に、ピンセットで砂を摘まむように、繊細な作業を進めていく。
(肉は弱火でじっくりと火を通す。ソースはウトバルク牛の骨とオニガの実を煮て、その煮汁を……)
汗が額から流れても、拭いもしない。
調理の音だけが響く時間だけが過ぎていく。それは、時計の針が深夜三時を指したあたりで止まった。
「これで、完成か」
出来上がった料理を黒羽は食べた。
口を動かし、五感を駆使して料理を味わう。
「……なんで、全然駄目だ。美味しくない。どうして?」
黒羽は、ポケットからレシピを取り出すとじっくりと眺める。
――手順は間違ってない。食材だって完璧に処理した。一体、何が足りない。ん?
レシピの一番最後の行に、「愛する妻へ真心を込めて」と記されている。
「フ、真心を込めてか。そうだよな。この料理は、山城さんの気持ちがこもってはじめて完成するものだ。俺では……」
――待てよ。昔、じいちゃんがなにかいってたな。
もやもやとした記憶の奥底から、稲妻のような鮮烈さを伴って一つの言葉が思い浮かぶ。
「秋仁、これじゃ駄目だ」
そう、あれは小学生の頃だ。チキンライスを初めて作って祖父に食べてもらった時の話。祖父は、厳しい顔で首を振った。
「どうして? 一生懸命作ったのに」
「ああ泣くな。良いか、料理ってのはただレシピ通りに作っては駄目だ。料理は己の心を映す鏡なんだよ。レシピ通りに作るのは良い。でも、そこに心がこもっていなければ、人に感動を与えることなどできん」
「どういうこと? 心なんかこもってなくたって、ちゃんと作れば料理は美味しいよ」
祖父は、スプーンでチキンライスをすくうと、黒羽の前に持ってきた。
「ちゃんとじゃと。本当にか? これを見ろ、人参は大きさがバラバラで、皮がつきっぱなし。おまけに米はべちゃべちゃだ。お前は、見た目をそれっぽく見せようとして、他はめちゃくちゃにやっただろう」
ドキリ、とした。図星だったからだ。
「別に上手く作れとは言わんよ。初めからできる人間はいない。でも、心がこもってないものは、五感を通して相手に伝わるものだ。……分かったらやり直しじゃ。下手でも良いから、ワシに食べさせる気持ちを込めて作っておくれ。きっとそれは、美味しいに違いない」
そう、だとすれば。
(俺は間違っていた。山城さんの想いなんて、本人じゃないんだ。完璧に再現できるわけがない、おこがましい。
あの人の想いはレシピにこもっている。だったら俺は、このレシピに俺自身の「美味いもんを食べてもらいたい」っていう気持ちを、込めなきゃ駄目なんだ。
さっきは、俺自身の気持ちが抜けていたんだ)
黒羽は、もう一度調理を開始した。手順も使う食材も何も変わらない。たださっきと違うのは、想いだ。
一人の料理人として、美味しい物を食べてほしいと願う気持ちを料理に注ぐ。
「そうさ。誰かの代わりじゃない。これは、俺が作ってる料理だ。俺の気持ちがなくて何がプロだ」
黒羽は、フライパンを振るう手を止め、料理を少しだけ小皿に盛り付けた。
「今度こそ」
口に含む。シャキッとした食感。そのすぐ後に、猛烈な旨みが舌を駆け抜けていく。
「よし、よーし! これだ。べ、弁当箱はどこだったっけ」
黒羽は、料理を詰めた弁当箱を片手に、店を出た。
「う!」
朝日が眩しい。いつの間にか空は、清々しい青空に移り変わっていた。
(お食事処山城の開店時間は十一時。今は八時だから……うん、間に合う)
黒羽は車に乗ると、アクセルを勢いよく踏み、お食事処山城を目指した。
※
「ここだ」
目的の黄色い建物は、閑静な住宅地の中にひっそりと建っていた。黒羽の店からは、車で十五分もかからなかった。
黒羽は、店のドアを強めにノックする。
「誰かいませんか?」
返事はない。まだいないのだろうか、と思った矢先、ドアが開かれた。
「はい?」
穏和そうな、背の低い中年女性が顔を出した。
「あ、アポも取らずに申し訳ございません。私は黒羽秋仁と申します。あなたは、山城梅子さんでしょうか」
「はい、そうですが。どこかでお会いしましたでしょうか?」
「いえ、初めてです。開店前で忙しいのは承知しているのですが、少々時間をいただけないでしょうか」
「はあ? なぜ」
キョトン、とした顔になる梅子。黒羽は、咳払いをすると、
「あなたの旦那さんである山城誠さんについてお話したいことがあるからです」
と言った。
「え! 私の夫を知っているんですか」
「……はい」
梅子は、穏やかに笑った。
「ぜ、ぜひ入ってください」
梅子に促されて、店の中に足を踏み入れる。店内は、カウンター席が右手に四つ、テーブル席が中央に四つあり、こじんまりとしている。
隅々まで掃除が行き届いていて、梅子の人柄が表れているようだ。
「お茶をどうぞ。今日は暑いですから、麦茶でよろしいかしら」
「ありがとうございます」
黒羽はテーブルに置かれた麦茶を一息に飲み干すと、席に座った。
「あの、話をする前にこの料理を食べてはいただけませんか」
黒羽は、手に持っていた弁当箱をテーブルに置き、蓋を開けた。
「野菜チャンプルー(野菜を炒めた沖縄料理)かしら」
「これは、ただの野菜チャンプル―ではありません。遠い、そうとても遠い世界で食べられている食材と、調理法が駆使された特別な料理です」
梅子は首を傾げながらも、席に座り箸を手に取った。
「なんだかわかりませんが、そこまでいうなら……、いただきます」
箸で野菜と肉を挟み、口に運ぶ。その瞬間、梅子の顔は驚きに染まった。
「美味しい! はあ、ビックリした。これはあなたが?」
「はい、心を込めて作りました」
うんうん、と梅子は何度も頷いた。
「そうでしょうね。私もね、料理をしているからわかるんですよ。料理人の想いがこもった料理かどうかって。
これは本当にあなたが作ったんだよね。……なんで、かね。あの人の姿が目に浮かぶわ」
涙が梅子の頬から流れた。
「夫はどこにいるんですか?」
「……難しいかもしれませんが、冷静になって聞いてください。あなたの夫、山城誠さんは、お亡くなりになりました」
梅子の顔に、悲しみが染みのように広がっていく。
黒羽は、猛烈な息苦しさを感じ、視線を下に落とした。
「亡くなったってどうして? ……嘘でしょう」
「山城さんは、身を挺して一人の女性を助け、その時に負った傷が原因で命を落とされました。……ぼ、僕にこのレシピを託して、あなたにこの料理を食べさせてほしいと」
黒羽は、血にまみれたレシピを渡した。
「あ、ああ。本当なん、ですね。この字は間違いなく夫の。そんな」
テーブルに突っ伏して彼女は慟哭した。黒羽は、急き立てられたような焦りを感じ、声をかけようとしたが、
「……ッ」
どれだけ言葉を探しても、満足のいくものは見つからなかった。
「クソ、遅い」
何度も車線変更を繰り返し、アナザーに到着した彼は、真っすぐに厨房へと足を踏み入れた。
「さて、やるか」
準備もそこそこに、彼はドリドン鉱石の包丁を手に調理を開始する。
――絶対に、奥さんに山城さんのレシピを食べてもらうんだ。
憑かれたようにその一念だけが、心にあった。
山城のレシピは頭の中に入っている。……よほど奥さんに良いものを食べさせたかったに違いない。調理の難易度は高く、手間がかかる。
「まずはそうサナ豆と肉の下処理からだ」
黒羽は、山城の姿を思い浮かべた。レシピをただ再現するだけでは駄目だ。彼の想いも届けなければ。
手際よく丁寧に、ピンセットで砂を摘まむように、繊細な作業を進めていく。
(肉は弱火でじっくりと火を通す。ソースはウトバルク牛の骨とオニガの実を煮て、その煮汁を……)
汗が額から流れても、拭いもしない。
調理の音だけが響く時間だけが過ぎていく。それは、時計の針が深夜三時を指したあたりで止まった。
「これで、完成か」
出来上がった料理を黒羽は食べた。
口を動かし、五感を駆使して料理を味わう。
「……なんで、全然駄目だ。美味しくない。どうして?」
黒羽は、ポケットからレシピを取り出すとじっくりと眺める。
――手順は間違ってない。食材だって完璧に処理した。一体、何が足りない。ん?
レシピの一番最後の行に、「愛する妻へ真心を込めて」と記されている。
「フ、真心を込めてか。そうだよな。この料理は、山城さんの気持ちがこもってはじめて完成するものだ。俺では……」
――待てよ。昔、じいちゃんがなにかいってたな。
もやもやとした記憶の奥底から、稲妻のような鮮烈さを伴って一つの言葉が思い浮かぶ。
「秋仁、これじゃ駄目だ」
そう、あれは小学生の頃だ。チキンライスを初めて作って祖父に食べてもらった時の話。祖父は、厳しい顔で首を振った。
「どうして? 一生懸命作ったのに」
「ああ泣くな。良いか、料理ってのはただレシピ通りに作っては駄目だ。料理は己の心を映す鏡なんだよ。レシピ通りに作るのは良い。でも、そこに心がこもっていなければ、人に感動を与えることなどできん」
「どういうこと? 心なんかこもってなくたって、ちゃんと作れば料理は美味しいよ」
祖父は、スプーンでチキンライスをすくうと、黒羽の前に持ってきた。
「ちゃんとじゃと。本当にか? これを見ろ、人参は大きさがバラバラで、皮がつきっぱなし。おまけに米はべちゃべちゃだ。お前は、見た目をそれっぽく見せようとして、他はめちゃくちゃにやっただろう」
ドキリ、とした。図星だったからだ。
「別に上手く作れとは言わんよ。初めからできる人間はいない。でも、心がこもってないものは、五感を通して相手に伝わるものだ。……分かったらやり直しじゃ。下手でも良いから、ワシに食べさせる気持ちを込めて作っておくれ。きっとそれは、美味しいに違いない」
そう、だとすれば。
(俺は間違っていた。山城さんの想いなんて、本人じゃないんだ。完璧に再現できるわけがない、おこがましい。
あの人の想いはレシピにこもっている。だったら俺は、このレシピに俺自身の「美味いもんを食べてもらいたい」っていう気持ちを、込めなきゃ駄目なんだ。
さっきは、俺自身の気持ちが抜けていたんだ)
黒羽は、もう一度調理を開始した。手順も使う食材も何も変わらない。たださっきと違うのは、想いだ。
一人の料理人として、美味しい物を食べてほしいと願う気持ちを料理に注ぐ。
「そうさ。誰かの代わりじゃない。これは、俺が作ってる料理だ。俺の気持ちがなくて何がプロだ」
黒羽は、フライパンを振るう手を止め、料理を少しだけ小皿に盛り付けた。
「今度こそ」
口に含む。シャキッとした食感。そのすぐ後に、猛烈な旨みが舌を駆け抜けていく。
「よし、よーし! これだ。べ、弁当箱はどこだったっけ」
黒羽は、料理を詰めた弁当箱を片手に、店を出た。
「う!」
朝日が眩しい。いつの間にか空は、清々しい青空に移り変わっていた。
(お食事処山城の開店時間は十一時。今は八時だから……うん、間に合う)
黒羽は車に乗ると、アクセルを勢いよく踏み、お食事処山城を目指した。
※
「ここだ」
目的の黄色い建物は、閑静な住宅地の中にひっそりと建っていた。黒羽の店からは、車で十五分もかからなかった。
黒羽は、店のドアを強めにノックする。
「誰かいませんか?」
返事はない。まだいないのだろうか、と思った矢先、ドアが開かれた。
「はい?」
穏和そうな、背の低い中年女性が顔を出した。
「あ、アポも取らずに申し訳ございません。私は黒羽秋仁と申します。あなたは、山城梅子さんでしょうか」
「はい、そうですが。どこかでお会いしましたでしょうか?」
「いえ、初めてです。開店前で忙しいのは承知しているのですが、少々時間をいただけないでしょうか」
「はあ? なぜ」
キョトン、とした顔になる梅子。黒羽は、咳払いをすると、
「あなたの旦那さんである山城誠さんについてお話したいことがあるからです」
と言った。
「え! 私の夫を知っているんですか」
「……はい」
梅子は、穏やかに笑った。
「ぜ、ぜひ入ってください」
梅子に促されて、店の中に足を踏み入れる。店内は、カウンター席が右手に四つ、テーブル席が中央に四つあり、こじんまりとしている。
隅々まで掃除が行き届いていて、梅子の人柄が表れているようだ。
「お茶をどうぞ。今日は暑いですから、麦茶でよろしいかしら」
「ありがとうございます」
黒羽はテーブルに置かれた麦茶を一息に飲み干すと、席に座った。
「あの、話をする前にこの料理を食べてはいただけませんか」
黒羽は、手に持っていた弁当箱をテーブルに置き、蓋を開けた。
「野菜チャンプルー(野菜を炒めた沖縄料理)かしら」
「これは、ただの野菜チャンプル―ではありません。遠い、そうとても遠い世界で食べられている食材と、調理法が駆使された特別な料理です」
梅子は首を傾げながらも、席に座り箸を手に取った。
「なんだかわかりませんが、そこまでいうなら……、いただきます」
箸で野菜と肉を挟み、口に運ぶ。その瞬間、梅子の顔は驚きに染まった。
「美味しい! はあ、ビックリした。これはあなたが?」
「はい、心を込めて作りました」
うんうん、と梅子は何度も頷いた。
「そうでしょうね。私もね、料理をしているからわかるんですよ。料理人の想いがこもった料理かどうかって。
これは本当にあなたが作ったんだよね。……なんで、かね。あの人の姿が目に浮かぶわ」
涙が梅子の頬から流れた。
「夫はどこにいるんですか?」
「……難しいかもしれませんが、冷静になって聞いてください。あなたの夫、山城誠さんは、お亡くなりになりました」
梅子の顔に、悲しみが染みのように広がっていく。
黒羽は、猛烈な息苦しさを感じ、視線を下に落とした。
「亡くなったってどうして? ……嘘でしょう」
「山城さんは、身を挺して一人の女性を助け、その時に負った傷が原因で命を落とされました。……ぼ、僕にこのレシピを託して、あなたにこの料理を食べさせてほしいと」
黒羽は、血にまみれたレシピを渡した。
「あ、ああ。本当なん、ですね。この字は間違いなく夫の。そんな」
テーブルに突っ伏して彼女は慟哭した。黒羽は、急き立てられたような焦りを感じ、声をかけようとしたが、
「……ッ」
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