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第1話 プロローグ

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「おい、どうしてくれるんだ」
 十月十四日。秋と呼ぶには暑すぎる沖縄の熱気から逃れるように、店内は人で溢れかえっている。
 美味しい食事に、体の熱を吹き飛ばす冷房の風、耳に心地の良いBGM。不満な要素が意図的に排除された喫茶店の室内は、しかし、重苦しげな空気が場を支配していた。
「も、申し訳ございません。私としたことが」
 喫茶店のマスター黒羽秋仁は、ソースまみれになった男に深く頭を下げた。
「すいませんじゃないよ。この服、一体いくらすると思ってるの。クリーニング代出してもらうよ。それで駄目だったら、弁償だよ」
「もちろんです。私の不注意で、汚してしまったのですから。彩希、悪いけど拭く物を持ってきてくれ」
 黒羽は何度も頭を下げたが、男の顔はマグマのように赤くなっていくばかり。仕方ない、と男に少し高めのクリーニング代を手渡す。
「ったくよ。……ん、しょうがねえな」
 ようやく留飲を下げた男は、ポケットに金をねじりこむと、けたたましく足音を鳴らし、店を後にした。
「どうしたの? 皿の中身をぶちまけるなんて、あなたらしくないミスじゃない」
 この店唯一のウエイトレス兼相棒の霧島彩希は、片眉を上げて黒羽の肩を叩く。
「ん? ああ。まあ、そんな日もあるさ」
「……なんか、妙な反応ね。あ、分かったわ。例のお誘いの件が気になっているのね」
 黒羽の肩がビクッと動く。
「ど、どうして分かったんだ」
「だって、それ以外にないでしょう。あなたが変になったのは、ウトバルク王女、むぐぅ」
 彩希の口を手でふさぐと、目で”黙れ”と示す。企業秘密に関わることを、客の前で漏らすのはご法度だ。
「ぐううう、プハ。もう、離してよ。……とにかく、こんな調子じゃ困るわよ。今日は、明日に備えて早めに店を閉めましょう」
「……分かったよ。今日は二時間早く閉める。それまでは、集中して頑張ろう」
 そう彩希に言いつつ、黒羽の内心はふわついたままだった。雲の上を歩くような感覚で厨房に戻ると、ふと少し前の出来事が頭をよぎった。
 ※
 数日前のことだった。黒羽はいつも通り異世界トゥルーへ仕入れに行き、宿屋で疲れた体を休めていた。
 すると、トントンと、ドアをノックする音が聞こえた。
「開けてください。鍵は開いています」
「失礼します」
 宿屋の男が部屋に入り、丁寧な動作で手紙を黒羽に手渡した。
 金の刺繍で鮮やかに彩られた布の封筒。一目で高貴な人からの手紙だと分かる。
「どこでこの手紙を?」
「ウトバルク騎士団の使いの方が、先ほどカウンターまで届けにいらしてましたよ。手紙を渡すとすぐに出ていかれましたが」
 黒羽はハッとした。
 先月、ウトバルク騎士団と一緒に狂乱の殺戮事件の首謀者を捕まえたばかりだ。もしや、その件ではと思ったのだ。
(特別名誉勲章の授与は断ったはずだけど、何なんだ)
 封筒に施されたシーリングスタンプをナイフで剥がし、中身を取り出す。和紙に似た質感の手紙からは、フワリ、と香水のような匂いが漂い、目には達筆な字が飛び込んできた。
「何て書いてあるんだ? ……ん、まだ何か入ってる」
 封筒の底に真四角の物体が見える。傾けて取り出した。
(石?)
 サイズは、プチトマトと同じくらい。
 テーブルの上で光る光源石の前に、石をかざす。一見ヒヤリとした感触がするただの石ころだが、柔らかな光に照らされる表面には、細やかな文字が刻まれている。
「ああ、それはやまびこ石ですね」
「やまびこ石?」
「手紙の右下に小さな印があるはずです。そこに石を置くと、石に封じ込められた音が再生されます。随分と高貴な方からの手紙のようですね」
 宿の男の言葉に感心したように頷く。さっそく、試してみようと、黒羽は手紙をテーブルに置き、石を乗せようとする。……だが、
「手紙ありがとうございました。お仕事へ戻られては?」
「え? あ、そうですか。では、失礼します」
 男の残念そうな視線を笑顔でやり過ごし、ため息を吐く。
「やれやれ、……うお、すげえ」
 印に石を置いた瞬間、ゆっくりと緑色の光が灯り、零したインクが広がっていくように、手紙の文字を光がなぞっていく。
 変化はそれだけに止まらず、女性の声が耳に届いてきた。
「世界よ、国民よ、健やかたれ。
 初めまして黒羽様、霧島様。ワタクシは、ソフィア・アリスィース・ウト・バルクと申します。黒羽様と霧島様のご尽力のおかげで、大勢の人々が救われました。
 ワタクシといたしましては、盛大なパレードを行ってお二人の素晴らしさを国民全員に伝えたいと思ったのですが、特別名誉勲章の授与式を辞退なされたということは、どうやらあまり派手な歓迎は苦手のご様子。
 そこで、慎ましやかに食事会を開催しようと思った次第です。ワタクシを含め一部の人間だけが参加する予定ですので、ぜひともお越しください。開催日は、開眼の月――十月のこと――十六日でございます。
 同月、十四日にプリウへキースを送ります。来てくださらない場合、キースは何日もプリウに留まり続けることになるでしょう。ぜひ、お越しください。絶対ですよ」
 やさしげな声音。けれども脅迫じみた言葉を最後に、声は途切れた。
(……まいったな。行かないと本当にキースさんは待ちぼうけか。まあ、考えようによっては、新しい仕入れ先を探すチャンスだし、異世界の食文化を学ぶ良い機会か。彩希も喜びそうだしな。……でも)
 身分の高い者達が集まる食事会への参加。それはとても緊張する。想像するだけで、胃薬が欲しくなるほどだ。
「ハア―、どうすっかな」
「行くに決まってるでしょう」
「ウォワ!」
 いつの間にか部屋に戻っていた彩希が、黒羽から手紙をひったくりと、軽やかな動作で椅子に座った。
「食事会。とっても面白そうだわ」
「お前な、食事会っていってもただ食事するだけじゃないぞ。偉い人が沢山集まるんだ」
「偉い人って”ウトバルク”のでしょう? 私達にとっては偉くもなんともないわ」
「まあ、そうだけどさ。でもさ」
 偉い人に変わりない。と、続くはずの言葉は胸にしまい込んだ。「あらそう」の一言で一蹴されるに違いないから。 
 黒羽は力なくため息を吐くと、鞄から胃薬を取り出し、口に放り投げた。
 閉じられた部屋のドアからは、階下で酒を飲む男達の騒がしい声が聞こえてくる。
「……気軽な食事っていいよな」
 消え入りそうな黒羽の言葉に、彩希は口角を僅かに上げて、窓を開け放った。風が柔らかく部屋へ入ってくる。黒羽は、その風を勢いよく吸い込み、重苦しくはき出した。
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