上 下
12 / 32

第三章 雨に導かれて①

しおりを挟む
 運命なんてものを黒羽はまるで信じていなかった。
 だが、人生とは不思議なもので、そんな人に限って信じてみたくなる出来事に出くわす時もあるのだ。
 この話は、黒羽が大学四年生の頃にまでさかのぼる。
 当時、彼は高校生の頃から洋食店でバイトをし続けて貯めたお金と、幼い頃に亡くなった両親、そして祖父が遺してくれた遺産を使って喫茶店の建物を購入するために日々、不動産屋を訪ね回っていた。
 十月二十三日、この日も朝からあらゆる物件を見て回ったが、成果は芳しくなかった。
「最悪だ。こだわりすぎてんのかな俺。いいや、店舗にこだわらない経営者なんていないだろう」
 不動産屋の自動ドアからゾンビのような足取りで外に出た黒羽は、ため息をつきながら家へ帰る途中だった。十月の沖縄は日中はまだ暑さを残していることが多く、まとわりつく熱気は彼の苛立ちを加速させた。
 茜色が辺りを美しく彩る夕暮れのなか、一週間前の出来事を思い出す。
 祖父が喫茶店として利用していた建物は、今もなお貸し出しており、大家の厚意で「格安で貸してあげるよ」と言われていたのだ。だが、黒羽は首を縦ではなく、横に振った。せっかく喫茶店を経営するのだから、自分で探した物件でスタートを切りたかったのだ。 
 祖父が生きていれば、「世の中は自分一人の力で生きていけるほど甘くない。人が助けてくれる時は素直に助けてもらえ」と言っただろう。
 下らぬ意地だったかもしれないが、祖父が使っていた建物で喫茶店を経営するのは、いつまでも祖父に頼ってばかりのような気がして嫌だった。
 しかし、その意地が裏目に出ていた。
 本日何度目になるのか自分でも分からないため息をつく。そんな様子を天は知ってか知らずか、雨がポツリと落ちてきた。
 さっきまでの美しい夕暮れが嘘のように、空には分厚い黒雲が覆いかぶさり、黒羽を見下ろしている。
「待ってくれ。俺が家に着くまで持ちこたえてくれ」
 藁にも縋る気持ちで祈ったが、天はその願いをあっさりと突っぱねた。ポツリ、ポツリと一つ、二つと水滴が落ち、やがて辺り一面は水浸しになった。
 雨のにおいが立ち込める琉花町。黒羽は、雨に打たれながらも懸命に走る。右、左、正面。視線を動かして、雨宿りができそうな場所を探すが、なかなか見つからなない。
(もういっそのこと、家にそのまま帰ろうかな)と考えた時に、オーニングがせり出している建物を発見した。
 吸い込まれるように走り、やっとの思いで到着する。
 濡れた体を拭こうと、背中に背負っていたリュックサックからタオルを取り出そうとするが、こんな日に限って入れ忘れてしまった。
「……悲しいな」
 一人呟いた声は、雨がアスファルトを叩く音に遮られた。風が吹き、肌寒く感じた黒羽は、逃げるように後ろに下がった。その時、ドンっと何かにぶつかってしまう。
(そういえば、俺はどんな建物の前にいるんだ?)と思い後ろを振り向くと、そこは売りに出されている建物だった。
 窓に張り出されている用紙には”店舗用物件一千万円で販売中”と書かれていた。
「安すぎだろ!」
 黒羽は大きな声で叫んだ。
 琉花町は、都市化が進んでいる町で地元民だけでなく、移住者の人気も集めている。特に海沿いのこの辺りは、美しい景色を一望でき、需要が高いエリアだ。そんな所に建っているにも関わらず、この価格は一体どういうことなのだろうか?
「瑕疵物件なのかな? 中はどんな感じだ」
 室内を覗き込むと、トクン、ドクンと胸が自然と高鳴っていくのを黒羽は、はっきりと自覚した。薄暗いので、細部までは確認できないが、広さも間取りも理想通りの物件そのものだった。
 興奮気味にリュックサックを開けてスマホを取り出すと、用紙に小さく記された電話番号にかけようとした。しかし、その時、椅子をテーブルにぶつけたような音が室内から聞こえたので、黒羽はスマホを操作する指を止めた。再び室内を覗き見ると、一人の老人がポツンと立っていた。ホウキを手に持っているので、掃除をしていたのだろうが、先ほどはいなかったような気がする。少し季節外れの怪談のようで、背筋がゾワリとしたが首を振って気のせいだと思い直す。
(奥にいたのかな? 見えなかったや。大家か、それとも不動産会社の人か? よし)
「すいません!」
 大きな声で呼びかけてみる。
 老人は黒羽を見ると、入り口のドアをすぐに開けてくれた。
「突然申し訳ございません。実は……」
 続きの言葉は途中で途切れてしまう。
 理由は、その老人があまりにも怪しかったからだ。
 目がくぼみ、顔には沢山の皺が刻まれている。少し開いた口からは、わずかに残っている歯が見え、髪は手入れをされておらず、白髪が様々な方向に飛び跳ねていた。おまけに服はボロボロで擦り切れている。
 不法侵入したホームレスだと思い、黒羽は身構えた。そんな彼の様子を気にした素振りはなく、老人は見た目とまるで合っていない穏やかな声で話しかけてきた。
「どうしました? 天気にでも嫌われましたかな」
 人は見た目にはよらないとはよく言ったものだ。風貌はともかく、老人の品のある声はスッと心を落ち着かせてくれた。
「ええ、雨が降ってきたものですから、ここで雨宿りをしていたのです。失礼ですが、あなたはこの物件の大家さんでしょうか?」
「はい、そうです。名は神無月と申します。さあさ、外にいては風邪を引いてしまう。どうぞ中へお入りください」
 ありがたい申し出に心の底からお礼を言い、室内に足を踏み入れた。
「おお……」
 テーブルと椅子があるだけの空間だが、黒羽には宝の山に匹敵するほど素晴らしいものに見えた。
 入り口から左手の窓からは海を一望でき、木製の壁はオシャレでがっしりとしている。床は手入れが行き届いており、ワックスが鏡のように光っていた。
「あ、あの。突然すみません。僕の名前は黒羽秋仁と申します。あ……タオル。ありがとうございます……えーと。喫茶店を経営したいと考えておりまして、ちょうど物件を探している最中だったんですが……」
「それはそれは。雨に降られたのは不幸中の幸いと言えるかもしれませんね。良かったら、ご案内しますが、いかが?」
 断る理由はない。案内を頼むと、神無月は快く引き受けてくれた。
「ここは昔、吾輩が趣味でレストランを経営していた時に使っていた建物でしてね」
「え? レストラン」
「はい。そんなに驚いてどうしましたかな?」
「い、いいえ。なるほど。それで、業務用の椅子とテーブルがあるんですね」
「はい。まあ、冷蔵庫やコンロなどは、あんまりにもボロボロだったんで撤去しましたが、使えそうな物はそのままにしておきました。厨房はこちらですよ」
 カウンターの中に入って奥まで進むと、右側に厨房の入り口がある。神無月の後に続いて厨房に入ると、油汚れ一つない新築のような場所が広がっていた。
「随分と綺麗ですね」
「はい。業者さんにお願いして、隅々まで清掃してもらったんですよ。いやはや、彼らには随分と苦労をかけてしまいましたが、その甲斐あって新品同様です」
「確かに。そういえば、この物件の築年数は何年でしょうか?」
「ああ、この建物は……」
 老人は問いに的確かつ丁寧に答えてくれる。黒羽は疑問がなくなるまで、沢山のことを質問した。
 気付けば、リモコンで早送りを押したかのように夜が訪れ、建物の中は完全な暗闇に満たされた。
「あ、吾輩としたことが、夢中になるあまり暗くなっても電気をつけないとは」
「いいえ、神無月さんのせいでは。質問をしまくった僕のせいですよ」
 神無月は電気のスイッチをつけた。パッと灯った照明の白い光が眩しくて、黒羽は目を瞑る。
「眩しい……ウッ!」
 閉じた瞼を開けた瞬間、思わず叫びそうになった。神無月が体を前に向けたまま顔だけを後ろに向け、黒羽を見ていたからだ。
「黒羽さん。この建物について基本的なことはほとんどお話しました。けれど、まだお伝えしなければならないことがあるのです」
 ゾワリと毛が逆立つ。神無月の口調はあくまで優しげなままだ。だが、これまでとは何かが決定的に違う。得体のしれない、例えるなら、暗闇の中に何かが蠢いているかのように、見えない怖さと迫力が神無月の体から発せられていると黒羽は感じた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】【勇者】の称号が無かった美少年は王宮を追放されたのでのんびり異世界を謳歌する

雪雪ノ雪
ファンタジー
ある日、突然学校にいた人全員が【勇者】として召喚された。 その召喚に巻き込まれた少年柊茜は、1人だけ【勇者】の称号がなかった。 代わりにあったのは【ラグナロク】という【固有exスキル】。 それを見た柊茜は 「あー....このスキルのせいで【勇者】の称号がなかったのかー。まぁ、ス・ラ・イ・厶・に【勇者】って称号とか合わないからなぁ…」 【勇者】の称号が無かった柊茜は、王宮を追放されてしまう。 追放されてしまった柊茜は、特に慌てる事もなくのんびり異世界を謳歌する..........たぶん….... 主人公は男の娘です 基本主人公が自分を表す時は「私」と表現します

クラス転移で無能判定されて追放されたけど、努力してSSランクのチートスキルに進化しました~【生命付与】スキルで異世界を自由に楽しみます~

いちまる
ファンタジー
ある日、クラスごと異世界に召喚されてしまった少年、天羽イオリ。 他のクラスメートが強力なスキルを発現させてゆく中、イオリだけが最低ランクのEランクスキル【生命付与】の持ち主だと鑑定される。 「無能は不要だ」と判断した他の生徒や、召喚した張本人である神官によって、イオリは追放され、川に突き落とされた。 しかしそこで、川底に沈んでいた謎の男の力でスキルを強化するチャンスを得た――。 1千年の努力とともに、イオリのスキルはSSランクへと進化! 自分を拾ってくれた田舎町のアイテムショップで、チートスキルをフル稼働! 「転移者が世界を良くする?」 「知らねえよ、俺は異世界を自由気ままに楽しむんだ!」 追放された少年の第2の人生が、始まる――! ※本作品は他サイト様でも掲載中です。

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

エラーから始まる異世界生活

KeyBow
ファンタジー
45歳リーマンの志郎は本来異世界転移されないはずだったが、何が原因か高校生の異世界勇者召喚に巻き込まれる。 本来の人数より1名増の影響か転移処理でエラーが発生する。 高校生は正常?に転移されたようだが、志郎はエラー召喚されてしまった。 冤罪で多くの魔物うようよするような所に放逐がされ、死にそうになりながら一人の少女と出会う。 その後冒険者として生きて行かざるを得ず奴隷を買い成り上がっていく物語。 某刑事のように”あの女(王女)絶対いずれしょんべんぶっ掛けてやる”事を当面の目標の一つとして。 実は所有するギフトはかなりレアなぶっ飛びな内容で、召喚された中では最強だったはずである。 勇者として活躍するのかしないのか? 能力を鍛え、復讐と色々エラーがあり屈折してしまった心を、召還時のエラーで壊れた記憶を抱えてもがきながら奴隷の少女達に救われるて変わっていく第二の人生を歩む志郎の物語が始まる。 多分チーレムになったり残酷表現があります。苦手な方はお気をつけ下さい。 初めての作品にお付き合い下さい。

ドアマットヒロインはごめん被るので、元凶を蹴落とすことにした

月白ヤトヒコ
ファンタジー
お母様が亡くなった。 それから程なくして―――― お父様が屋敷に見知らぬ母子を連れて来た。 「はじめまして! あなたが、あたしのおねえちゃんになるの?」 にっこりとわたくしを見やるその瞳と髪は、お父様とそっくりな色をしている。 「わ~、おねえちゃんキレイなブローチしてるのね! いいなぁ」 そう、新しい妹? が、言った瞬間・・・ 頭の中を、凄まじい情報が巡った。 これ、なんでも奪って行く異母妹と家族に虐げられるドアマット主人公の話じゃね? ドアマットヒロイン……物語の主人公としての、奪われる人生の、最初の一手。 だから、わたしは・・・よし、とりあえず馬鹿なことを言い出したこのアホをぶん殴っておこう。 ドアマットヒロインはごめん被るので、これからビシバシ躾けてやるか。 ついでに、「政略に使うための駒として娘を必要とし、そのついでに母親を、娘の世話係としてただで扱き使える女として連れて来たものかと」 そう言って、ヒロインのクズ親父と異母妹の母親との間に亀裂を入れることにする。 フハハハハハハハ! これで、異母妹の母親とこの男が仲良くわたしを虐げることはないだろう。ドアマットフラグを一つ折ってやったわっ! うん? ドアマットヒロインを拾って溺愛するヒーローはどうなったかって? そんなの知らん。 設定はふわっと。

30年待たされた異世界転移

明之 想
ファンタジー
 気づけば異世界にいた10歳のぼく。 「こちらの手違いかぁ。申し訳ないけど、さっさと帰ってもらわないといけないね」  こうして、ぼくの最初の異世界転移はあっけなく終わってしまった。  右も左も分からず、何かを成し遂げるわけでもなく……。  でも、2度目があると確信していたぼくは、日本でひたすら努力を続けた。  あの日見た夢の続きを信じて。  ただ、ただ、異世界での冒険を夢見て!!  くじけそうになっても努力を続け。  そうして、30年が経過。  ついに2度目の異世界冒険の機会がやってきた。  しかも、20歳も若返った姿で。  異世界と日本の2つの世界で、  20年前に戻った俺の新たな冒険が始まる。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。

石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。 だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった 何故なら、彼は『転生者』だから… 今度は違う切り口からのアプローチ。 追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。 こうご期待。

処理中です...