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【第7部〜虞美人編〜】

第7話 章邯の降伏

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 項梁が亡くなった翌年の紀元前207年、秦の章邯は趙の鉅鹿を囲んでいた。楚の懐王は上将軍に宋義、次将を項羽として救援に向かわせた。しかし、宋義は安陽に着くと、46日間も逗留し、進軍しなかった。
 紀元前207年10月、斉の将である田都が斉の宰相である田栄に反し、趙の援軍に向かう楚軍に降った。
 項羽は全く動こうとしない宋義に苛立ち進言した。「早く兵を率いて黄河を渡り、楚軍が秦軍を外から攻撃し、趙が鉅鹿城から打って出れば挟撃する形を取り、秦軍を必ず破るでしょう」
 宋義は項羽に言った。
「そうではない。そもそも牛についた虻を手で打てても、牛の毛の中にいる虱を殺すことは出来ない。今、秦が趙を攻めて戦に勝てたとしても、兵は疲弊しているだろう。我ら楚軍は、疲弊した秦軍に乗じることが出来る。秦が勝てなければ、我らは兵を率いて太鼓を鳴らして西へ進軍すれば、必ず秦に勝利することが出来るだろう。鎧を着て武器を取って戦う事は、私は貴方に到底及ばないが、座して策略を計る事については、貴方は私には到底敵わない」
 項羽は納得などしなかったが、相手は総大将だ。不満の色を見せて退出した。
 宋義は項羽の不満を見て軍中に、「虎の様に猛き者、羊の様に従順でない者、狼の様に貪る者、狂暴で使うことが出来ない者は、全て斬刑にする」という命令を下した。これは、項羽を牽制したものだと言う事はすぐに分かった。
「ううむ、何故だ。何故動こうとしないのだ?」
「項将軍、宋義が動こうとしない理由が分かりましたぞ!」
「亜父よ、宋義が動かない理由が戦略以外にあると言うのか?」
「はい。これは戦略だとしても余りにも兵法に適ってはおらず、疑問に思っておりました。宋義は息子の宋襄を斉の宰相にする為に画策しておったのです。今は息子が斉に行くのを見送って大宴会の最中です」
 項羽は怒りに震わせながら言った。
「何だと?今年は飢饉で民は貧しく兵士らは、わずかな芋や豆を食って飢えに耐えている。それなのに、己らだけが美味いものをたらふく食ってるだと?本来なら兵を率いて黄河を渡り、趙国から食料を受けて、趙と力を合わせて秦を攻めるべきであるのに、『疲弊した秦軍に乗ずる』などと言っている。そもそも、秦の強大さで趙を攻めているのだから、勢いで必ず趙に勝つことが出来るだろう。趙が敗北して、秦はさらに強大となる。どうして、その疲弊に乗ずる事が出来るのか?更に叔父上が敗れたばかりで、懐王は座しても席にて安心出来ず、国中を掃く様にして兵力を集め、全てを宋上将軍に属させたのだ。国家の安危はこの一挙にかかっている。今、兵士を憐れまず、己の私事ばかり行っている。宋義は社稷の臣ではない」
 早朝、項羽は宋義に相談したい事があると言って、とばりの中に入るなり宋義の首を落とした。
「宋義は斉と組んで、楚に謀反を起こそうと謀った。懐王が密かにこの項羽に命じて、宋義を誅させたのだ」
 楚軍の諸将は皆、項羽に恐れ伏して、抵抗する者はいなかった。
「最初に楚王を立てたのは、将軍の家です。それに将軍は反乱を未然に防いだのです。誰が反対などしましょうや?」
 亜父が諸将に、項羽に賛同する様に促すと、他の将もそれに従った。項羽は諸将によって仮の上将軍に立てられた。
「よし!では宋襄を追って殺せ!斉に行かせれば、斉が楚に歯向かうぞ!」
 宋襄は斉で追いつかれ、殺された。
 項羽は一連の経過を懐王に報告すると、反乱を未然に防いだ手柄として、上将軍に任じられた。
「趙の援軍に向かうぞ!」
 黄河を渡ると項羽は3日分の食糧以外は廃棄し、渡って来た船を叩き壊させた。
「これで我らには後が無い。前に打って出て秦軍を破り、食糧を趙から受け取り、秦から奪うしか生き残る道は無くなった」
 復讐に燃え、退路を断たれた項羽軍の士気は高く、秦の蘇角と渉間軍に火牛の如く突撃した。
「項籍、俺が相手だ!」
 槍をしごいて蘇角は立ち向かったが、項羽の戟で胸を貫かれると放り投げられ、10m以上も飛ばされた。蘇角は受け身を取る事なく、頭から地面に叩きつけられて即死した。
 勢いに乗った項羽軍は、そのまま渉間軍に突撃して包囲した為、渉間は観念して剣で喉を掻き切って自決した。俺は敵将の王離を捕虜にする手柄を挙げた。王離は秦の名将・王翦の孫だ。
「章邯まであと一息ぞ!続け!秦兵を皆殺しにしろ!」
 この時代、項羽と互角に戦える者など1人もおらず、兵士は寄せ集めである為に、指揮を執る将が討たれると恐慌状態に陥る。その為、兵を率いる将の強さが、そのまま軍の強さであった。これが項羽軍が強かった理由だ。
 秦軍は連敗を重ねると、章邯は司馬欣を都に送って援軍を求めた。しかし数日後、司馬欣は変わり果てた姿で現れた。ボロを纏って、難民に扮していたのだ。
「その姿はどうした?援軍は?」
「援軍は参りません」
 司馬欣は悔し涙を流して話した。
「我らの家族はすでに、趙高によって処刑されておりまする」
「な、何だと!?」
「いつまで経っても反乱軍を討伐出来ないのは、我らが敵と示し合わせているからだと疑われておりまする。我らも誅殺の対象となり、新たな指揮官が来て、我らを捕縛する手筈となっておりまする」
「そ、そんな馬鹿な事が…あってたまるか!ワシの…ワシの女房と息子が…死んだだと…?」
「宮中に近しい者が報せてくれたお陰で、こうして逃げ帰って来られたのです。功を立てても誅殺され、功を立てなくても誅殺される…無念でなりません…」
 司馬欣は泣き伏せ、それが事実である事を物語っていた。秦の中央は政治も軍事も疎い、宦官の趙高が握っていた。腐敗政治は極め、もはや秦帝国の終わりを予感させた。
「これが…これが国に忠誠を尽くし、死力を尽くして戦った者に対する扱いかぁ!」
 章邯は国に絶望して涙を流し、兵士らも戦意を失った。
「我らの道は…降るしかあるまい…」

 章邯は武装解除し、自らの身体に薔薇いばらを巻き付けて項羽軍の前に投降した。
「どの面下げて、我らの前に跪いたか!」
 思わず阿籍ア・ジーと声が揃った。思いは同じであると感じて、少し嬉しく思った。
それがしの生命で、秦兵らの投降を認めて頂きたい」
「よく言った!」
 項羽は剣を抜いて振り上げた。
「あいや暫くお待ち下さい」
「亜父よ、何故止める?」
 項羽は叔父の項梁が亡くなった後、軍師である范増を亜父と呼んで慕い、頼りにした。
「少し此方へ」
 そう言って、項羽の耳元で囁いた。
「将軍、これは少し考えなくてはなりません。将軍は将来をどうお考えですか?もし、天下に覇を競うおつもりならば赦すのです。もしそうでなければ、ここで斬ってしまいなされ」
「ううむ…天下に覇を競いたいが、何故斬ってはダメなのだ?叔父上の仇だぞ!」
「だからこそです。将軍が章邯を恨んでいる事は、三つ子の童子でさえも知っている事。もし斬れば、降っても殺されると思い、今後は降伏せず、死ぬまで徹底交戦するでしょう。しかしここで赦せば、仇である章邯でさえ赦されたのだからと思い、将軍に恐れをなし秦を見限った者達は続々と投降して来る事でしょう」
「なるほど…理に適っている」
 項羽は暴君の様に伝えられているが、そうではない。理路整然と述べられれば認める度量を持っている。ただ、怖過ぎて誰も項羽に対して理路整然と述べられなかっただけなのだ。
 項羽は投降を認め、章邯と司馬欣、それからもう1人の副将である董翳の3人に恩赦を与えた。しかし、猜疑心の強い項羽は決して油断をせず、投降した秦兵を監視していた。
「おい、俺らは投降兵で捕虜では無いんだぞ。それなのにこれでは、まるで捕虜の扱いじゃないか!」
「俺らは別に投降なんかしたくなかった。投降したお陰で、国に帰られなくなった。それもこれも章邯将軍らのせいだ。一層の事、あの3人を捕らえて秦に降れば、手柄になるぞ?」
「そうだ、そうしよう…」
 項羽が送り込んでいた間者スパイは、投降兵に広がるこの不穏な空気を報告した。
「何だと!助けてやった恩を仇で返すつもりか!?黥布を呼べ!」
 怒れる項羽は、黥布に秦の投降兵を生き埋めにしろ!と指示をした。虞美人や亜父が知れば止めたに違いないが、章邯らにも秘密裏に行動した。
 投降した秦軍は20万で、楚軍よりも多かった為に反乱を恐れたのと、20万もの兵士に食わせる食糧も無かった事が決断させる要因だった。これらは全てが事後に知らされた。
 章邯らは唖然とし、聞いた私は「なんてむごい事を!」と泣いて怒ったが、意に返されなかった。女子おなごが政治に口を挟むな、と言う態度を取られた。亜父は首を振って、この件にはもう関わるなとゼスチャーを送った。
 その昔、長平の戦いで趙軍が秦の白起に敗れた時、40万人が生き埋めにされた。今回、その半分の20万人が生き埋めにされたが、数の問題では無い。これは阿籍ア・ジーの悪名を後世に残すものだと、私は嘆いた。
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