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第2章「可視光線」

14.真っ黒

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 避ける間もなく角が額に突き刺さる。
 ぎゃっと情けない悲鳴を上げた。足元にスケッチブックが落ちる。
 表紙には「船渡川梓紗ふなとがわあずさ」と書かれていた。

「お、おまえっ、ミイに手ぇ出したのかよ! ほんっと最悪!」

 廊下の向こうから、鬼のような形相を浮かべるスケッチブックの持ち主がずかずかと近づいてくる。
 教育実習生を「おまえ」呼ばわりし顔面に物を投げつける。藤ヶ峰ふじがみねの教職員やシスターがこの場にいたら失神していただろう。

「は、はあ?」

 スケッチブックを投げられた理由がわからないし、「ミイ」ってなんだ?

「家に来いとか風呂入れとか……、実習生が生徒にそんなことしていいと思ってんの!?」

「そんなこと言ってないから!」

「誤魔化すつもり!?」

「アズ、違うんだって!」

 腕を振り上げる船渡川の前に野田が前に立ちはだかる。せっかく体調が戻ったのにまた少し顔色を悪くさせていた。
 「アズ」は船渡川梓紗の、「ミイ」は野田海頼みらいのあだ名だとやっと理解する。

「勘違いだよ。先生はやましいことを言ったわけじゃなくて……」

「じゃあ、なんなの? 教師が生徒とそんな会話する?」

 女子にしては背の高い船渡川が野田を見下ろしぎろりと睨みつけた。以前、美術室で見せた表情と全く同じだった。
 野田は口ごもってしまう。

「言えないんだ?」

「言えない。でも本当に違うから。このこと誰にも言わないで」

「私が言いふらすと思ってんの? そんなくだらないことするわけないじゃん。ミイのわけわかんない噂だって私が言ったんじゃないし」

 船渡川は鋭い視線を、今度はこちらに送る。

「生徒と付き合うなら、もっと上手くやりなよ」

「俺は生徒に手を出すような真似はしないよ。おまえらの神様に誓ってもいい。……ところで、二人はあだ名で呼び合うような仲だったのか? 知らなかった」

 つまり、船渡川は友達を暴漢から守ろうとしてスケッチブックを投げつけたということだ。幼児を守ろうとしてトイレットペーパーを投げた我が母のように。
 現代社会において、「男はこうだ、女はああだ」と語るのはナンセンスなのだろうが、いざという時に「性根たくましい」と思わせてくれるのは女性のほうが多いのかもしれない。
 「友達なのかどうか」という質問に二人は一向に答えない。お互いに目も合わさない。
 船渡川は床に落ちていた元凶器であるスケッチブックを拾い上げ押し付けてくる。「これ提出しに来ただけだから」と言い残すと、彼女はさっさと廊下を引き返していった。
 


 溶き油やクリーナーの独特なにおいが充満した美術室では、宍倉が部員たちにキャンバスの貼り方を教えていた。キャンバスの貼られる木枠は部員の身長ほどの高さがある。秋の文化祭の展示に向けて今から準備するそうだ。
 デッサンを仕上げに来た生徒は、野田の他にも二人いた。教室の隅の席に三人を肩身狭く座らせ、各々作業を始めさせる。
 野田以外の二人は黙々と手を動かしていた。デッサンも細かい描き込みの段階にまで達していて、放っておいても問題は無さそうだ。

 野田はというと、デッサンを始める前にまず鉛筆を削る必要があった。彼女の持っている鉛筆は全て芯が丸くなっていた。ただでさえ「へのへのもへじ」状態なのに、準備に時間をかけていてはいつまでたっても終わらない。備品のカッターを借り、鉛筆削りを手伝ってやることにした。

「別に、喧嘩したわけじゃないんです。アズとは初等部から仲がよくて、中等部も二人で一緒にハイレベコースに進級して、ダンス部に入部して……」

「野田もハイレベだったのか」

「はい。でも、うちに弟が生まれてから部活は続けられなくなって、高等部に進級する時も普通コースに変えたんです。普通コースの方が早く帰宅できるので。でも、アズと話す機会が無くなって、自然とあんな感じになっちゃって」

 野田の隣に座る生徒はイヤフォンで耳を塞ぎながらデッサンをしているし、もう一人は勝手にモデル用のソファへ移動していた。部屋には部員が木枠に釘を打ち付ける音が絶えず響いている。
 その環境のおかげもあって、野田は船渡川との関係を打ち明けてくれた。

「なんだ、てっきり嫌がらせでもされてんのかと思った」

「嫌がらせ? そんなことアズはしません。変な噂を流したのもアズじゃないです。絶対に」

 きっぱりと野田は言う。

「ただ気まずくなっちゃっただけです。私のせいで」

 宍倉ししくら菅原すがわらに相談したことは完全なる余計なお世話だったと知る。「うわー、めちゃくちゃうざいじゃん、俺」と心の中で絶叫し赤面してしまった。気まずいだけなら野田と船渡川同士で解決すればいい。大人がしゃしゃり出るような問題ではない。

 野田の話を聞いた今、船渡川との関係性よりも、部活をやめコースを変えてまで弟の世話をしていることのほうが深刻な問題に思えてくる。

「弟の世話、そんなに大変なのか?」

「親が忙しいから、仕方ないです」

 またそれかと胸の中でため息をつく。
 「親が忙しい」。
 学生の本分は勉強や友人と遊ぶことで育児をするのは親の役目なのに。

「月曜日に遅刻したのも、弟の世話のせい?」

「そうなんです。澄空の通う幼稚園は月曜日だけ給食が出ないんですけど、お弁当を持たせるのを忘れちゃって。澄空を幼稚園に送った後、一度家に戻ったんです。それで遅刻しました」

「船渡川も、弟の世話が忙しいんだから、もうちょっとわかってやればいいのにな」

「そもそも、アズには弟の世話をしていることを言っていないので」

「なんで?」

「心配されるのが嫌なんです。アズはめちゃくちゃ優しいんです。困っている人を見かけたら絶対助けようとするんです」

「助けてもらえばいいじゃん」

「アズの勉強の邪魔になるようなことはできません。アズには将来の夢があるし、勉強に関して、お母さんがかなり厳しいらしいから」

「女の子同士って複雑だなあ」

 女子の人間関係はパズルゲームのようだ。何手先も考えながらバランスよくピースを積み上げなければいけない。己を取り巻く人間関係は、運動会の玉転がしのような単純さだったというのに。
 しかし野田のゲームのやり方は「上手い」と言えるのだろうか。慎重すぎるあまり手持ちのピースを隠し、その結果、不戦敗になってはいないだろうか。

 鉛筆を全て削り終わり、やっとデッサンをする準備が整った。野田は鉛筆の芯の粉を払い、荒れた指先にハンドクリームを塗りこんでいる。

「でもさ、困ってどうしようもない、もうお手上げだって時は、ちゃんと周りに助けを求めないとな。たとえば今、デッサンをやるうえで困ってることは無いの?」

 野田のスケッチブックを指す。

「……困ってますよ。でも、先生に助けを求めても無駄じゃないですか」

 野田はちらっと、美術部員の相手をしている宍倉を見やった。

「無駄って? 先生の存在意義は生徒の質問に答えることなのに」

 野田は「だって」と口を少し曲げる。

「美術の先生は絵を描くのが得意でしょう?」

「まあ、そうだよな」

 当り前だが、美大や芸大のほとんどの学部は絵が上手くなければ入れない。
 宍倉のように教育学部を経由して美術教師になる場合も実技を課される場合が多い。だからしっかりとデッサンの基礎を学ぶ必要がある。

「英語の先生は英語が得意、数学の先生は数学が得意。だから、その科目が苦手な生徒の気持ちなんて先生にはわからない。わからないから相談しても無駄ってことです」

「なるほどねえ」

 宍倉が「野田はやる気が無い」と思っている原因の一つかもしれない。
 野田は相談しに来ない。
 つまり、能動的とは思えない。やる気が無い。

「だから、授業でわからないことがあったら先生には訊かないで、友達に質問するか参考書を読んで調べるか、あとはネットで調べるかですね」

 野田がスケッチブックを開く。
 あの「へのへのもへじ」が登場した。絵の、首にあたる部分が真っ黒になっていた。
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