上 下
12 / 50
第1章「内緒の子ども」

11.内緒の子ども

しおりを挟む
 場の空気が凍ったことに、純粋な幼児はもちろん気付いていない。

「ねえ、なんなの?」

「……その噂、知ってるんですね」

 野田がれんげを皿のふちにかける。伏せられた目元が暗い。
 その表情を見ただけでわかる。
 噂は本人の耳にばっちり入っているし「隠し子がいる」と言われていることを気にしている。
 澄空すかいは「カクシゴってなんなの!」としつこい。

「内緒の子どもってこと」

 野田が小声で言う。

「ナイショノコドモってだれ」

「誰っていうか……」

「幼稚だよな! 高校生にもなってそんなこと言っててさ!」

 二人の会話を遮るように言い、やれやれと大げさに肩を落としてみせる。

「先生はその噂、信じないんですか?」

「信じるか! アホくさい。どう見ても弟だろ」

 くだらないと思うし、それを聞き流せない野田にもやきもきしてしまうが、狭い世界だから仕方がない。卒業した公立高校でさえ息が詰まる時があった。箱庭のような一貫校では、なおさら窮屈に感じることもあるだろう。

「……ああっ!」

 カレーを口に運ぼうとしてあることを思い出し、素っ頓狂すっとんきょうな声を上げてしまった。

「えっ、何ですか?」

「おっきいこえ、こわいよー」

 口の周りをカレーで汚した澄空が耳を塞ぐ。子ども用のスプーンが床に落ちた。

「ごめんごめん、『あれ』を忘れてたと思って」

 食事中だが立ち上がり、キッチンの棚に忘れ物を取りに行く。

「甘口カレーにはこれをかけないと」

 チャック式の小袋を持って自分の席に戻る。ティースプーンで赤い粉をすくいカレーに振りかけた。きょとんとしている野田に炎の絵が描かれた赤い小袋を渡す。

「……ガラムマサラ? 調味料ですか?」

「甘口カレーのルーの上にかけてみな。激辛が好きならスプーン三杯くらいかな。結構辛くなるよ」

「えー、からくなっちゃうの? やだあ」

「そう。だから澄空はかけない方がいいよ」

 床に落ちたスプーンを洗い澄空に返す。

「じゃあ、澄空用にまず甘口カレーを作って、大人が食べる時にはこのガラムマサラをかければ辛口カレーになるってことですか? す、すごすぎる……!」

 ガラムマサラの袋を手に、野田は目をキラキラと輝かせた。

「これがあれば甘口のカレーと辛口のカレーでお鍋をわけなくていいんだ……。洗い物も減るし最高!」

「あまくちはさいこーだよね」

 くだけた口調になって喜ぶ野田の反応に気がよくなり、また別の調味料を取りに立つ。

「こっちの玉ねぎペーストも時短になる。炒め玉ねぎってめちゃくちゃ時間かかるけど、これは具材と一緒に鍋に入れて煮込むだけだから。あとリンゴペーストとか、チャツネとかも売ってるんだけど、そっちもおすすめ」

「こんな便利なものがあるなんて知らなかったです。カレーを作る時、絶対に使います!」

「うちのカレーとガラムマサラを持っていっていいから、家で試してみて。野田の家に冷凍うどんあっただろ。それと合わせてカレーうどんにしてもいいし」

 野田から表情が消えた。

「…………なんでうちに冷凍うどんがあるって知ってるんですか?」

「あ」

 再び墓穴を掘った。

 冷や汗をかきながら野田の家に勝手に入ったことを白状する。

「本当にごめん。でも、澄空を一人にしておけなくて」

「…………いえ、い、いいんです」

 野田は顔を赤らめながら、やっと雑炊をまともに食べ始めた。

「ちょうど昨日、大掃除したんです。なので、だ、大丈夫です」

 大掃除?
 もう少し散らかせば映画「ホーム・アローン」の真似事ができそうな野田家のリビングを、つい思い返した。




 保冷バッグの中にカレーとジャガイモとガラムマサラ、そしてついでに玉ねぎペーストとリンゴペーストも入れて野田に持たせた。

「親御さん、そろそろ帰って来るか?」

「おやごさん、かえってこないよ。ママだけかえってくる。パパはおとまりなんだ。びょういんでがんばってるの」

「へえー、病院で? 医者とか看護師とか?」

「まあ、そんなところですね」

 澄空の靴を直しながら野田が歯切れの悪い返事をする。別に詮索せんさくするつもりはないが、両親のこととなると言葉を濁されるから、少し引っかかる。

「じゃ、また学校で」

 今日はご近所さんのよしみで家に上がったり上げたりしたが、明日からはまた実習生と実習先の生徒という関係に戻る。

「ゆっくり休みなよ。無理かもしれないけど」

 一生懸命になって靴を履いている澄空を見下ろした。

「ありがとうございました。先生のお母さんにもよろしくお伝えください」

 最後まで礼儀正しく振舞って、野田は澄空を連れ十三階の自宅へ帰っていった。




 夜、父が風呂に入っている間に母が女子会(?)から帰ってきた。頬から耳にかけて赤く染まっている。酒を飲むとすぐ顔に出る。

「あの後、大丈夫だったの?」

「野田も澄空も完食して帰っていった」

 ノートパソコンで来週の授業の指導案を清書しながら答える。

「両親が忙しいから、ほとんど毎日弟の世話してんだって。偉いよな」

「十三階の野田さんかあ。全然面識が無いけど、どんな人たちなのかしらね。まったく!」

 母を振り向くと、目が据わっていた。
 酒のせいで語勢が荒々しいのか本当に腹を立てているのか、横顔だけでは判断しかねた。

「子どもに子どもの世話をさせるなんて戦前戦後じゃあるまいし。お風呂で澄空くんの体を見た感じ、身体的な虐待は無さそうだったけど」

 物騒な単語が母の口から放たれ、ぎくりとして「まさかあ」とおどけてみせた。しかし母は「身体的な虐待」という言葉を口にした時のまま、表情を変えずにいる。

「するわけないだろ。虐待なんてされているように見えるか?」

「なんの変哲の無いように見える家庭の中でも、虐待ってのは行われてんのよ。ネグレクトって言葉、あんたも聞いたことあるでしょ」

「でも、父親なんて医療従事してるらしいよ」

「職業は関係無いでしょ!」

 怒りの矛先がこちらに向かいそうなので、それ以上反論するのはやめておいた。

「あの子たちに、またいつでも夕飯食べに来てって言っておいてよ」

「弟に言ったら、また真に受けるよ」

「真に受けていいのよ」

 洗面所から出てきた父に「おかえり」と声を掛けられ、母はやっと平常時の顔つきに戻った。

 野田家の玄関に置かれていたフォトスタンドを思い出す。
 記憶の中の四人の顔は既にぼやけていたが、文句のつけようのない幸せそうな家族写真だったことだけははっきりと覚えている。家族写真を飾るような家庭の中で、母の言ったような事件が起きているとはどうしても想像できない。

 船渡川ふなとがわとのこともあるし、学校で野田に会ったらまた声を掛けてみようと思った。

 しかし次の日の火曜日、野田は学校を休んだ。
 その次の日も来なかった。



 第一章「内緒の子ども」   了
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

放課後のタルトタタン~穢れた処女と虚ろの神様~

戸松秋茄子
ライト文芸
「なあ知ってるか、心臓の取り出し方」 三学期最初の朝だった。転校生の市川知佳は、通学路で拾ったりんごに導かれるようにして、学校の屋上に足を踏み入れる。 そこで待っていたのは、冷たい雨と寂しげな童謡、そして戦時中に変死体で発見された女学生の怨霊にして祟り神「りんご様」で―― そしてはじまる、少し奇妙な学園生活。徐々に暴かれる、知佳の暗い過去。「りんご様」の真実―― 日常と非日常が交錯する、境界線上のガールミーツガール開幕。 毎日12,21時更新。カクヨムで公開しているものの改稿版です。

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

葵の心

多谷昇太
ライト文芸
「あをによし奈良の都に初袖のみやこ乙女らはなやぎ行けり」これはン十年前に筆者が奈良地方を正月に旅した折りに詠んだ和歌です。一般に我々東京者の目から見れば関西地方の人々は概して明るく社交的で、他人と語らうにも気安く見えます。奈良の法隆寺で見た初詣の〝みやこ乙女たち〟の振袖姿の美しさとも相俟って、往時の正月旅行が今も鮮明に印象に残っています。これに彼の著名な仏像写真家である入江泰吉のプロフィールを重ねて思い立ったのがこの作品です。戦争によって精神の失調を覚えていた入江は、自分のふるさとである奈良県は斑鳩の里へ目を向けることで(写真に撮ることで)自らを回復させます。そこにいわば西方浄土のやすらぎを見入出したわけですが、私は敢てここに〝みやこ乙女〟を入れてみました。人が失調するのも多分に人間によってですが(例えばその愚挙の最たる戦争とかによって)、それならば回復するにもやはり人間によってなされなければならないと考えます。葵の花言葉を体現したようなヒロイン和泉と、だらしなくも見っともない(?)根暗の青年である入江向一の恋愛模様をご鑑賞ください。 ※表紙の絵はイラストレーター〝こたかん〟さんにわざわざ描いてもらったものです。どうぞお見知りおきください。

厭離穢土

k0n0
ライト文芸
いじめ。 それは陰湿な行為であり、最悪の行為である。 そして一番怖いところは周りも便乗してしまう所である。 これは少年の葛藤の物語。 少年はどのような未来を見るのか__。

【声劇台本】バレンタインデーの放課後

茶屋
ライト文芸
バレンタインデーに盛り上がってる男子二人と幼馴染のやり取り。 もっとも重要な所に気付かない鈍感男子ズ。

ハーレムフランケン

楠樹暖
ライト文芸
神達(かんだち)学園高等部は女学校から共学へと変わった。 しかし、共学へと変わった年の男子生徒は入江幾太ただ一人だった。 男子寮は工事の遅れからまだ完成しておらず、幾太は女子寮の一室に住むことになる。 そんな折り、工事中の現場で不発弾が爆発。 幾太をかばって女生徒たちが大けがを負った。 幾太は奇跡的に助かったが、女生徒達の体はバラバラになり、使える部位を集めて一人の人間を作ることに……。 一人の女の子の体に六人分の記憶と人格。女子寮ハーレムものが一転してフランケンシュタインものに――

病気呼ばわりされて田舎に引っ越したら不良達と仲良くなった昔話

ライト文芸
弁護士の三国英凜は、一本の電話をきっかけに古びた週刊誌の記事に目を通す。その記事には、群青という不良チームのこと、そしてそのリーダーであった桜井昴夜が人を殺したことについて書かれていた。仕事へ向かいながら、英凜はその過去に思いを馳せる。 2006年当時、英凜は、ある障害を疑われ“療養”のために祖母の家に暮らしていた。そんな英凜は、ひょんなことから問題児2人組・桜井昴夜と雲雀侑生と仲良くなってしまい、不良の抗争に巻き込まれ、トラブルに首を突っ込まされ──”群青(ブルー・フロック)”の仲間入りをした。病気呼ばわりされて田舎に引っ越したら不良達と仲良くなった、今はもうない群青の昔話。

処理中です...