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第三章 役者の似絵と一抹の影
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耕書堂に着くと、大騒ぎになっていた。日が暮れても帰ってこない長喜と喜乃を手代衆が探し回っていたそうだ。雷を落とす重三郎を十郎兵衛が何とか宥めてくれた。
喜乃の熱は一先ず下がり、落ち着いて眠っている。
静かに寝息を立てる寝顔を眺めて、長喜は、やっと一息した。
「足の怪我は、如何か。お喜乃のために体を張らせて、すまなかった。あの子は、ずいぶんと長喜殿に懐いているようだ」
十郎兵衛に礼を述べられ、長喜は小さく頭を下げた。
「いやぁ、伝蔵や鉄蔵とも、よく一緒にいやすぜ。今日は、俺の師匠のところに行っていましたもんで。お喜乃は師匠の絵が好きなんでさ」
鼻の頭を掻いて笑む。
「お喜乃にとって長喜殿は心安らぐ相手なのやもしれぬ。他には見せぬ顔をすると、重三郎殿が話しておった。これからも、お喜乃を宜しく頼む」
深々と頭を下げられ、長喜は狼狽えた。
「頭を上げてくだせぇ。俺ぁ、お喜乃と一緒に絵を描くくれぇが関の山だ。手代の勇助やら蔦重さんのほうがよっぽど世話してくれていまさぁ。お喜乃は可愛がられていますぜ」
十郎兵衛が、安堵した顔で笑んだ。
「やはり、重三郎殿に任せたのは正しかった。この場所が、お喜乃にとり、心地の良い居所になれば良いのだがな」
どこか悲しそうに呟く十郎兵衛に、長喜は笑みを仕舞った。言葉を選びながら、長喜は口籠りながら切り出した。
「お喜乃が熱を出したのは、妖のようなもんに中てられたせいですが。他にも気に懸かった件がありやして。お武家風の男衆が、写楽ってぇ野郎を探しておりやした。何でか、悪いもんに感じた。だから、隠れていたんです。十郎兵衛様に、お心当たりは、ございやすか」
十郎兵衛が俯く。長い沈黙の後、十郎兵衛が徐に口を開いた。
「何故、聞きたいと思う? それを聞いて、長喜殿は、どうされる。お喜乃や儂と関りがあったなら、どうするのだ」
十郎兵衛の顔から感情が抜け落ちて見えた。長喜は息を飲んだ。言葉が出てこなかった。
「覚悟もなく、お喜乃の事情に深入りすべきではない。其方のためにならぬ」
長喜は、黙り込んだ。十郎兵衛の言葉は、長喜の問いを肯定しているようなものだ。つまり「写楽」は、十郎兵衛や喜乃と関りがある。安易に首を突っ込めば、良くない何かが長喜にも降りかかるのだろう。
「余計な詮索をして、すいやせん」
頭を下げる長喜に、十郎兵衛が首を振った。
「いや、儂も意地が悪かったな。其方には、お喜乃について、色々と知ってほしいと思っておるのだ。だが、長喜殿にとり利になるかは、わからぬ。むしろ悪い事体にもなりかねん。其方を案ずればこそ、今のままが良い」
十郎兵衛が立ち上がる。
「少々、長居をしすぎたようだ。儂は帰るとしよう。これからも、お喜乃を構ってやってくれ」
「俺のほうこそ、御無礼致しやした。お送りいたしやす」
長喜も立ち上がり、十郎兵衛を追う。十郎兵衛が振り返り、手で制した。
「気遣いは無用だ、……長喜殿。もし、本気でお喜乃に関わる覚悟ができたなら、儂の元に来てくれ。その時には、其方の問いの総てに応えよう」
優しく目を細めて、十郎兵衛は部屋を出て行った。背中を見送って、長喜は佇んだ。
(覚悟、か。よっぽどの覚悟をしねぇと聞いちゃぁならねぇような事情ってぇのは、お侍の家じゃぁ、よくある話なのかねぇ)
もしかしたら喜乃は、自分が考えるより遥かに遠くにいるはずの人間なのかもしれない。
(師匠のところで、楽しそうに絵を描いているお喜乃しか、俺ぁ知らねぇもんなぁ)
漠然と胸に広がる不安に、一抹の寂しさが混じる。
穏やかに眠る喜乃の寝顔を、長喜は、ぼんやりと眺めていた。
【補足情報】
斎藤十郎兵衛は泡徳島藩お抱えの能役者。謎の絵師・東洲斎写楽の正体として有名な御仁です。実は江戸時代当時は写楽が十郎兵衛というのは、結構有名というか通説でした。今のように特に謎めいた話とかじゃなくね。写楽が絵を出していた当時は全然売れてなかったし、同時期に売り出した歌川豊国に人気を全部持っていかれてた、いやむしろ、豊国のお陰で写楽も多少売れた、みたいな存在感だったから、注目度も低かったんでしょう。写楽が注目されるのは二十世紀に入ってから。ドイツの美術研究家ユリウス=クルトが「めちゃくちゃ精密な似顔絵じゃん!」って称賛してからの逆輸入なので、それまで日本人は見向きもしませんでした。だから正体がわかんなくなっちゃったんだろうね。当時から売れてた歌麿や石燕ですらほとんど個人の資料が残ってないのに、売れない絵師の個人情報が残るわけはなく。お陰で現代の我々は、様々な想像をしてロマンに酔える。それが歴史の醍醐味だと思います。
喜乃の熱は一先ず下がり、落ち着いて眠っている。
静かに寝息を立てる寝顔を眺めて、長喜は、やっと一息した。
「足の怪我は、如何か。お喜乃のために体を張らせて、すまなかった。あの子は、ずいぶんと長喜殿に懐いているようだ」
十郎兵衛に礼を述べられ、長喜は小さく頭を下げた。
「いやぁ、伝蔵や鉄蔵とも、よく一緒にいやすぜ。今日は、俺の師匠のところに行っていましたもんで。お喜乃は師匠の絵が好きなんでさ」
鼻の頭を掻いて笑む。
「お喜乃にとって長喜殿は心安らぐ相手なのやもしれぬ。他には見せぬ顔をすると、重三郎殿が話しておった。これからも、お喜乃を宜しく頼む」
深々と頭を下げられ、長喜は狼狽えた。
「頭を上げてくだせぇ。俺ぁ、お喜乃と一緒に絵を描くくれぇが関の山だ。手代の勇助やら蔦重さんのほうがよっぽど世話してくれていまさぁ。お喜乃は可愛がられていますぜ」
十郎兵衛が、安堵した顔で笑んだ。
「やはり、重三郎殿に任せたのは正しかった。この場所が、お喜乃にとり、心地の良い居所になれば良いのだがな」
どこか悲しそうに呟く十郎兵衛に、長喜は笑みを仕舞った。言葉を選びながら、長喜は口籠りながら切り出した。
「お喜乃が熱を出したのは、妖のようなもんに中てられたせいですが。他にも気に懸かった件がありやして。お武家風の男衆が、写楽ってぇ野郎を探しておりやした。何でか、悪いもんに感じた。だから、隠れていたんです。十郎兵衛様に、お心当たりは、ございやすか」
十郎兵衛が俯く。長い沈黙の後、十郎兵衛が徐に口を開いた。
「何故、聞きたいと思う? それを聞いて、長喜殿は、どうされる。お喜乃や儂と関りがあったなら、どうするのだ」
十郎兵衛の顔から感情が抜け落ちて見えた。長喜は息を飲んだ。言葉が出てこなかった。
「覚悟もなく、お喜乃の事情に深入りすべきではない。其方のためにならぬ」
長喜は、黙り込んだ。十郎兵衛の言葉は、長喜の問いを肯定しているようなものだ。つまり「写楽」は、十郎兵衛や喜乃と関りがある。安易に首を突っ込めば、良くない何かが長喜にも降りかかるのだろう。
「余計な詮索をして、すいやせん」
頭を下げる長喜に、十郎兵衛が首を振った。
「いや、儂も意地が悪かったな。其方には、お喜乃について、色々と知ってほしいと思っておるのだ。だが、長喜殿にとり利になるかは、わからぬ。むしろ悪い事体にもなりかねん。其方を案ずればこそ、今のままが良い」
十郎兵衛が立ち上がる。
「少々、長居をしすぎたようだ。儂は帰るとしよう。これからも、お喜乃を構ってやってくれ」
「俺のほうこそ、御無礼致しやした。お送りいたしやす」
長喜も立ち上がり、十郎兵衛を追う。十郎兵衛が振り返り、手で制した。
「気遣いは無用だ、……長喜殿。もし、本気でお喜乃に関わる覚悟ができたなら、儂の元に来てくれ。その時には、其方の問いの総てに応えよう」
優しく目を細めて、十郎兵衛は部屋を出て行った。背中を見送って、長喜は佇んだ。
(覚悟、か。よっぽどの覚悟をしねぇと聞いちゃぁならねぇような事情ってぇのは、お侍の家じゃぁ、よくある話なのかねぇ)
もしかしたら喜乃は、自分が考えるより遥かに遠くにいるはずの人間なのかもしれない。
(師匠のところで、楽しそうに絵を描いているお喜乃しか、俺ぁ知らねぇもんなぁ)
漠然と胸に広がる不安に、一抹の寂しさが混じる。
穏やかに眠る喜乃の寝顔を、長喜は、ぼんやりと眺めていた。
【補足情報】
斎藤十郎兵衛は泡徳島藩お抱えの能役者。謎の絵師・東洲斎写楽の正体として有名な御仁です。実は江戸時代当時は写楽が十郎兵衛というのは、結構有名というか通説でした。今のように特に謎めいた話とかじゃなくね。写楽が絵を出していた当時は全然売れてなかったし、同時期に売り出した歌川豊国に人気を全部持っていかれてた、いやむしろ、豊国のお陰で写楽も多少売れた、みたいな存在感だったから、注目度も低かったんでしょう。写楽が注目されるのは二十世紀に入ってから。ドイツの美術研究家ユリウス=クルトが「めちゃくちゃ精密な似顔絵じゃん!」って称賛してからの逆輸入なので、それまで日本人は見向きもしませんでした。だから正体がわかんなくなっちゃったんだろうね。当時から売れてた歌麿や石燕ですらほとんど個人の資料が残ってないのに、売れない絵師の個人情報が残るわけはなく。お陰で現代の我々は、様々な想像をしてロマンに酔える。それが歴史の醍醐味だと思います。
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