9 / 51
第二章 ぬらりひょんと座敷童
4.
しおりを挟む
根津権現の隣には、小さな竹林がある。人の行き交う参道より奥まった竹林の中に入る者は、ほとんどない。
根津門前町を抜け細い路地から竹林に足を踏み入れようとした時、喜乃は長喜の袖を掴んだ。喜乃を見下ろす。日本橋の賑やかな通りを嬉々として眺めていた顔から、笑みが抜けていた。
「この奥に庵があるんだ。俺の師匠の住んでいる家だ。怖ぇ場所じゃぁねぇが、妖が出るかもしれねぇなぁ」
喜乃が掴んだ袖を引いて、長喜を見上げた。ちらりと横目に見る。喜乃の目には、好奇の心情が浮かんでいた。
(怖がってんのかと思ったが、違うな。こいつぁ、楽しみにしている目だ)
気が付けば、喜乃が耕書堂に来て半年近くが過ぎていた。共に過ごす時が増えて、長喜も喜乃の性格を少しずつ飲み込んでいた。
喜乃は平素、あまり口を開かない。鉄蔵と喧嘩をする時も、長い言葉を使わない。表情の変化も、一見しては乏しい。しかし、よく見れば、目に感情が現れる。
長喜は喜乃の小さな手を、きゅっと握った。
「梧柳庵ってぇ所でな。今は小さな庵しかねぇが、昔は大勢の弟子を住まわせて、絵を教えていたんだ。賑やかだったんだぜ」
喜乃が長喜の手を握り返す。二人は揃って、竹林の中に歩みを進めた。
「どうして、小さな庵にしたの? もう弟子は、いないの?」
鬱蒼と茂る笹の葉が、陽の光を遮る。小さな歩に速さを合わせて、薄暗い道をゆっくりと歩く。
「今は二人かなぁ。石鳥と月沙ってぇのがいるが、あの二人は只の弟子とは、違うしなぁ。今は、新しく弟子をとっちゃぁ、いねぇな」
「どうして、弟子をとらないの?」
門前町の賑わいが嘘のような静けさの中に、喜乃の声が響く。少しの風で揺れた笹が、さらさらと音を立てた。
「師匠も老齢だからなぁ。一人で気ままに、絵を楽しみてぇんだろうよ」
石燕は御年七十一になる。弟子をとらなくなった今は、板本を続々と出している。筆は全く衰えを知らず、それどころか勢いを増すばかりだ。
「七十一歳だが、全くそうは見えねぇ、元気なお人だぜ。お喜乃が、いつも大事に持っている百鬼夜行を描いた本人だからな」
喜乃が目を輝かせた。握る手が熱を持つ。高鳴る胸の音が伝わってくるようだ。
長喜が貸した百鬼夜行の本を、喜乃は大層、気に入ったようで、暇さえあれば読み耽っている。さっきも本を開いて、絵を描いていたくらいだ。
(お喜乃も師匠に会えるのが、楽しみなのかもしれねぇな。蔦重さんの言う通り、連れてきて良かったかもな)
喜乃の姿を微笑ましく眺めるうちに、庵の前に着いた。喜乃が胸に手をあてて、大きく呼吸をする。息を整えたのを見守って、長喜は庵の戸を叩いた。
「師匠、おりやすかぃ? 長喜ですよ。入りやすぜ」
「……長喜? あぁ、子興か。さっさと、中に入ぇりな」
静かな嗄声が地を這うように響く。喜乃が長喜の手を、ぎゅっと握り締めた。ちらりと見やる。喜乃が彊直した面持ちで背筋を伸ばし、戸を真っ直ぐに見詰めていた。
長喜は、古びた戸を開いた。
庭に面した障子戸を開け放った庵の中は、戸口より陽が射している。外に向いた文机を覆うように丸まっていた背中が、にょきりと伸びた。
ぎょろりとした目が、長喜をじっとりと睨めつけた。
「ようやっと来たか。あんまり遅ぇから、そろそろ黄泉に逝っちまおうかと思ったよ」
悪戯っぽさを目尻に湛えた石燕の目が、にっと笑む。
「死神様が迎えに来たって追っ払いそうなお人が、よく言うや」
長喜は悪びれもせずに笑う。
「追っ払うなんて勿体ねぇ。来てくだすったら、まずは絵を描いて、それから歓迎の盃だ」
小さな背中を丸めて、石燕がくっくと笑う。
「祝杯が後とは、順序が逆ですぜ。ま、師匠らしいがね」
長喜は、ほっと息を吐いた。
【補足情報】
根津の吾柳庵は、石燕が絵を描いて過ごした場所として資料にも残っています。ただ、竹林は恐らくなかっただろうと思います。その辺りは創作としてお楽しみください。
石燕の弟子はそう多くありませんが、数人の弟子に絵を教えていた場所でもありました。歌麿や長喜が切磋琢磨していた場所だと思うと、色々想像が膨らみます。この場所は今後も大切な場所になるので、覚えておいてもらえたらと思います。
根津門前町を抜け細い路地から竹林に足を踏み入れようとした時、喜乃は長喜の袖を掴んだ。喜乃を見下ろす。日本橋の賑やかな通りを嬉々として眺めていた顔から、笑みが抜けていた。
「この奥に庵があるんだ。俺の師匠の住んでいる家だ。怖ぇ場所じゃぁねぇが、妖が出るかもしれねぇなぁ」
喜乃が掴んだ袖を引いて、長喜を見上げた。ちらりと横目に見る。喜乃の目には、好奇の心情が浮かんでいた。
(怖がってんのかと思ったが、違うな。こいつぁ、楽しみにしている目だ)
気が付けば、喜乃が耕書堂に来て半年近くが過ぎていた。共に過ごす時が増えて、長喜も喜乃の性格を少しずつ飲み込んでいた。
喜乃は平素、あまり口を開かない。鉄蔵と喧嘩をする時も、長い言葉を使わない。表情の変化も、一見しては乏しい。しかし、よく見れば、目に感情が現れる。
長喜は喜乃の小さな手を、きゅっと握った。
「梧柳庵ってぇ所でな。今は小さな庵しかねぇが、昔は大勢の弟子を住まわせて、絵を教えていたんだ。賑やかだったんだぜ」
喜乃が長喜の手を握り返す。二人は揃って、竹林の中に歩みを進めた。
「どうして、小さな庵にしたの? もう弟子は、いないの?」
鬱蒼と茂る笹の葉が、陽の光を遮る。小さな歩に速さを合わせて、薄暗い道をゆっくりと歩く。
「今は二人かなぁ。石鳥と月沙ってぇのがいるが、あの二人は只の弟子とは、違うしなぁ。今は、新しく弟子をとっちゃぁ、いねぇな」
「どうして、弟子をとらないの?」
門前町の賑わいが嘘のような静けさの中に、喜乃の声が響く。少しの風で揺れた笹が、さらさらと音を立てた。
「師匠も老齢だからなぁ。一人で気ままに、絵を楽しみてぇんだろうよ」
石燕は御年七十一になる。弟子をとらなくなった今は、板本を続々と出している。筆は全く衰えを知らず、それどころか勢いを増すばかりだ。
「七十一歳だが、全くそうは見えねぇ、元気なお人だぜ。お喜乃が、いつも大事に持っている百鬼夜行を描いた本人だからな」
喜乃が目を輝かせた。握る手が熱を持つ。高鳴る胸の音が伝わってくるようだ。
長喜が貸した百鬼夜行の本を、喜乃は大層、気に入ったようで、暇さえあれば読み耽っている。さっきも本を開いて、絵を描いていたくらいだ。
(お喜乃も師匠に会えるのが、楽しみなのかもしれねぇな。蔦重さんの言う通り、連れてきて良かったかもな)
喜乃の姿を微笑ましく眺めるうちに、庵の前に着いた。喜乃が胸に手をあてて、大きく呼吸をする。息を整えたのを見守って、長喜は庵の戸を叩いた。
「師匠、おりやすかぃ? 長喜ですよ。入りやすぜ」
「……長喜? あぁ、子興か。さっさと、中に入ぇりな」
静かな嗄声が地を這うように響く。喜乃が長喜の手を、ぎゅっと握り締めた。ちらりと見やる。喜乃が彊直した面持ちで背筋を伸ばし、戸を真っ直ぐに見詰めていた。
長喜は、古びた戸を開いた。
庭に面した障子戸を開け放った庵の中は、戸口より陽が射している。外に向いた文机を覆うように丸まっていた背中が、にょきりと伸びた。
ぎょろりとした目が、長喜をじっとりと睨めつけた。
「ようやっと来たか。あんまり遅ぇから、そろそろ黄泉に逝っちまおうかと思ったよ」
悪戯っぽさを目尻に湛えた石燕の目が、にっと笑む。
「死神様が迎えに来たって追っ払いそうなお人が、よく言うや」
長喜は悪びれもせずに笑う。
「追っ払うなんて勿体ねぇ。来てくだすったら、まずは絵を描いて、それから歓迎の盃だ」
小さな背中を丸めて、石燕がくっくと笑う。
「祝杯が後とは、順序が逆ですぜ。ま、師匠らしいがね」
長喜は、ほっと息を吐いた。
【補足情報】
根津の吾柳庵は、石燕が絵を描いて過ごした場所として資料にも残っています。ただ、竹林は恐らくなかっただろうと思います。その辺りは創作としてお楽しみください。
石燕の弟子はそう多くありませんが、数人の弟子に絵を教えていた場所でもありました。歌麿や長喜が切磋琢磨していた場所だと思うと、色々想像が膨らみます。この場所は今後も大切な場所になるので、覚えておいてもらえたらと思います。
4
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
浅葱色の桜
初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。
近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。
「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。
時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。
小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも載せてます。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
本所深川幕末事件帖ー異国もあやかしもなんでもござれ!ー
鋼雅 暁
歴史・時代
異国の気配が少しずつ忍び寄る 江戸の町に、一風変わった二人組があった。
一人は、本所深川一帯を取り仕切っているやくざ「衣笠組」の親分・太一郎。酒と甘味が大好物な、縦にも横にも大きいお人よし。
そしてもう一人は、貧乏御家人の次男坊・佐々木英次郎。 精悍な顔立ちで好奇心旺盛な剣術遣いである。
太一郎が佐々木家に持ち込んだ事件に英次郎が巻き込まれたり、英次郎が太一郎を巻き込んだり、二人の日常はそれなりに忙しい。
剣術、人情、あやかし、異国、そしてちょっと美味しい連作短編集です。
※話タイトルが『異国の風』『甘味の鬼』『動く屍』は過去に同人誌『日本史C』『日本史D(伝奇)』『日本史Z(ゾンビ)』に収録(現在は頒布終了)されたものを改題・大幅加筆修正しています。
※他サイトにも掲載中です。
※予約投稿です
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる