鎮魂の絵師

霞花怜

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第一章 獣の目をした娘

獣の目をした娘⑤

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 喜乃の小さな足裏を洗い、傷口を確かめる。出血は止まっており、他の棘も見当たらない。

「血も止まったし、棘もねぇようだな。まだ、痛ぇか?」

 軽く傷を押して、喜乃の顔に目を向ける。喜乃が、むっすりと不快な顔で、首を横に振った。後ろから覗く伝蔵が、ほっと胸を撫で下ろす。

「そうけぇ。んじゃ、父親んとこに、戻るかね」

 長喜は再び喜乃を抱えて、立ち上がった。

「……十郎兵衛は、父上ではない」

 掠れた声で、喜乃が呟く。先ほどの威力の籠った声とはまるで違う、弱い声音だ。
 長喜は、俯く喜乃の小さな頭を眺めた。艶のある黒髪が、さらりと流れて喜乃の顔を隠す。
 纏う着物も何気ない仕草も、町人のそれとは違う。一見、麁暴に聞こえる言葉遣いも、どこか品が漂う。

(御武家の娘には、違ぇねぇだろうが。何やら深ぇ事情が、ありそうだなぁ)

 後ろに立つ伝蔵と鉄蔵を振り返る。同じ感を抱いたのか、難しい顔をしていた。
 三人は長喜の部屋に行き、喜乃の足に軽く布を巻いてやった。足が痛まぬように、長喜は、また喜乃を抱え上げた。
 皆で、奥の間に戻る。その間も、喜乃は大人しく長喜に担がれていた。

「戻りやしたぜ、蔦重さん。逃げた童を掴まえやしたよ」

 伝蔵が軽い調子で、襖を開ける。

「ご苦労さん。……てぇ、おい! 足の布は、何でぇ! 手前ぇら、何しやがった!」

 重三郎が、蒼顔で怒鳴った。

「俺らが、やったんじゃぁねぇよ。この小童が手前ぇで怪我ぁしやがったんだ」

 ぼりぼりと頭を掻きながら、鉄蔵が苦々しく吐き捨てる。
 眉間に深く皺を寄せて口を開いた重三郎の前に、伝蔵が、すぃと屈んだ。

「蔦重さん、聞いてくだせぇよ。童が走って行った先が、鉄蔵の部屋だったもんでね。あの部屋は常から汚ねぇ様でしょう? 本やら絵やら筆やら硯まで、床の上に放りっぱなしだ」

 起きた事実を掻い摘んで話し始める。伝蔵は、所々面白可笑しく出来事を語る。だが、事実は曲げず、泰然と話を運んだ。

(流石、戯作者だなぁ。絵より黄表紙が売れる訳が、わからぁ)

 伝蔵の話運びの巧みさに、長喜は感心した。

 北尾門下で絵を習っている伝蔵だが、さほど巧い訳でもない。それは本人も心得ているが、特に愁苦している様子もない。伝蔵にとり、絵は戯作を引き立てるための手段なのだと、長喜は思う。

 一通りの講釈が済むと、重三郎の眉間から皺が消えていた。奥に座す十郎兵衛の顔など、笑んで緩んでいる。

「まぁ、そねぇな訳でね、足に布が巻かれているんでさ。本に、申し訳ありやせん」

 十郎兵衛に向かい、伝蔵が頭を下げた。後ろにいた長喜と鉄蔵も釣られて、頭を下げる。

「大事な預かり子に、来て早々怪我なんざ、させちまって。十郎兵衛様、申し訳ありやせん」

 重三郎が十郎兵衛に向かい、深々と頭を下げた。十郎兵衛が首を振った。

「よしてくれ、重三郎殿。儂は、むしろ安堵した。お喜乃が、会って間もない他人に抱かれて文句を吐かない姿は、初めて見た」

 長喜が腕の中の喜乃を見下ろす。喜乃が表情を硬くして、長喜の腕から抜け出した。十郎兵衛の隣に戻り、ちょんと腰を下ろす。

「お喜乃の勝手な振舞いは、儂が詫びよう。本当に、すまなかった。折れた筆は、新しいものを今日にも用意させるので、どうか許してやって欲しい」

 鉄蔵に向かい、十郎兵衛が頭を下げた。

「そういう話じゃぁ、ねぇんだよ。絵師の筆は使い込んで、なんぼだ。いくら新しいもんを貰っても、手に馴染むまでに、どれだけ掛かると思いやがる」

 口さがなく吐き捨てる鉄蔵に、十郎兵衛は深く頷いた。

「御仁の仰る通りだ。筆は、絵師にとり魂の一片である。修理するなら、預かろう。どれだけ詫びても、詫びきれぬ」

 沈痛な面持ちの十郎兵衛を、鉄蔵が意外な顔で、ちらりと伺う。

「十郎兵衛様は、絵を嗜まれる御人だ。筆の大事さは、よく存じていらっしゃるよ」

 重三郎の言に、鉄蔵が口を結んだ。

「私が、直す」

 十郎兵衛の隣に座して押し黙っていた喜乃が、呟いた。全員の目が喜乃に向く。

「私が、折った筆だから、私が直す。新しい筆を買うのでも、いい。ここで働いて、お金を貯めて、私が弁償する」

 喜乃が、じっと鉄蔵を見上げた。鉄蔵が目を細めて、喜乃を睨む。
 喜乃は鉄蔵から目を逸らさない。真っ直ぐに見詰める目は、瞬きすらしていない。その表情に、長喜は見入っていた。

(さっきは獣に見えた。野獣じゃぁねぇ。飼い慣らされた獣でもねぇ。しっかり芯のある、一人の人間だ)

 剥き出しで粗削りな強さと弱さ。言葉の端々に滲む、童らしからぬ知性と智恵。敵愾を露わにした瞳。その奥に隠した本然の感情は存外、子供らしい純粋さ、なのかもしれない。
 長喜は、喜乃という娘に関心が湧いた。
 喜乃と睨み合っていた鉄蔵が、口元を緩めた。

「良い根性していんな。わかった。あの筆はお前ぇに託す。修理するなり新しい筆を買うなりして、俺んとこに持ってこい。それで勘弁してやる」

 口を真一文字に引き結んだ喜乃が、一つ頷く。膝を揃えて重三郎に向き直った。

「私を、ここで働かせてください。よろしくお願いします」

 丁寧に手を突き、深々と頭を下げる。
 驚いて狼狽える重三郎が、十郎兵衛に目を向ける。十郎兵衛は喜乃の姿をまじまじと見詰め、重三郎以上に驚いた顔をしていた。十郎兵衛と重三郎が同じ顔を合わせると、互いに表情を緩めた。重三郎は諦めた顔を、十郎兵衛は安堵の表情を浮かべた。

「お喜乃が自分から、斯様な懇願をしたのは、初めてだ」

 目を潤ませる十郎兵衛を眺めて、重三郎が小さく笑みを零した。

「こらぁ、俺の負けでさぁね。わかりやした。この蔦重、引き受けると決めたからにぁ、しっかりお預かり致しやす。だが、別格の扱いはしやせんぜ。あくまで、うちの下働きだ。よう、ございやすか?」

 十郎兵衛が目尻を拭い、頷く。

「無論だ。でなければ、お喜乃を耕書堂に預ける意味がない。本人も、皆と同じ扱いを望むだろう」

 喜乃はじっと重三郎を見たまま、動かない。だが、強い意志の籠った目は、十郎兵衛の言葉に充分、頷いて見えた。
 重三郎は、後ろの三人を振り返った。

「今日からお喜乃は、うちの下働きだ。よく仕込んでやれよ。だがな、手前ぇら! お喜乃に手なんぞ出しやがったら、俺が殺すぞ。しっかと心得て、面倒を見てやれ!」
「へぇい」

 伝蔵が楽しそうに、鉄蔵が億劫そうに、長喜は何となく、各々に返事をする。
 十郎兵衛が長喜に目を向け、にこりと微笑んだ。気が付いた長喜も、十郎兵衛に向き合う。

「儂は蜂須賀家抱えの能役者で、斎藤十郎兵衛と申す。この娘はお喜乃、遠縁の子だ。気性の荒い娘だが、何卒よろしく頼む。八丁堀地蔵橋に、儂の屋敷がある。長喜殿、何かあれば、いつでも訪ねてくれ」

 十郎兵衛の目から、強い心願が流れてくる気がした。

「へぇ、わかりやした。こちらこそ、よろしく頼みやす」

 なんと返事して良いかわからず、とりあえず軽く会釈する。
 十郎兵衛は至極満足な顔をして、耕書堂を後にした。帰る背中を見送る喜乃の目は、幾分か、心細そうに見えた。
 ぽん、と喜乃の頭に手を置く。喜乃が、むっすりした顔で長喜を見上げた。小さな手が、長喜の手を振り払おうと伸びる。

「これから、よろしくな」

 にっ、と口端を上げて、笑みを見せる。
 長喜の顔を見た喜乃が、手を止めた。頭に乗る大きな手を、そっと握った。

「さっきは、ありがとう。……ごめんなさい」

 微かに聞こえた呟きに、長喜は耳を疑った。

「お喜乃、お前ぇの部屋に案内してやるから、こっちに来な!」

 重三郎の呼び声に、喜乃が走り出した。

「なんでぇ。大事な言葉もちゃぁんと、知っていたんだなぁ」

 片足を引き摺り、ぎこちなく走る小さな背中に、長喜は笑みを送った。仲夏の陽を浴びて廊下を走る喜乃の姿が、やけに鮮やかに、美しく映った。





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【補足情報】
この作品で「鉄蔵」と呼ばれている人が、のちの葛飾北斎です。
北斎さんは30歳前までは、ほとんど売れない無名絵師でした。
勝川門下にいた頃は、勝手に狩野派の絵を学びに行ったりシーボルトに会いに行ったりして結果、破門になります。
その後は独自に絵を描いていたようですが、宗理の号を使い始めてから、少しずつ世の中に認知され始めます。
武家の出で川村姓だったことから、御庭番の仕事を担っていたのでは? という本を出されている有名作家さんがいらっしゃいますね。
私もその意見賛成派で、本人が御庭番だったというよりは、家督を継いで御庭番をしていた兄の手伝いをしていたんだろうな、と考えています。
ひたすら浦賀のスケッチをしていたとか、突然どこかに旅立つとか、彼の奇行もそう考えると辻褄が合う。
部屋の片づけが嫌いで、散らかると引っ越していた話は有名ですが、それも身を隠すための手段だったのでは? と思います。
一年で80回以上引っ越して板元が見付けるのに苦労するとか、洒落になんねーよ。スマホない時代だってのにね。

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