鎮魂の絵師

霞花怜

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第一章 獣の目をした娘

獣の目をした娘④

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 三人は忍び足で、奥の間へと向かった。

「客間じゃぁなくって、奥の部屋けぇ。余程に大事な客人なのかね」

 鉄蔵が小さな声で伝蔵に問い掛ける。伝蔵が、しっと人差し指を口元に近付けた。
 ぴしりと閉じた襖に、三人が揃って耳をそばだてる。若い男の話声が聞こえてきた。

「儂としても、手放すのは不安だが、手元に置くにも困り果てた。この子のためにも、世間を学ぶのは肝要だと思うのだ。力添えを頼めぬか」

 男の重い声音から、沈痛な心持ちが伝わる。

「御話は、わかりやしたよ。他でもねぇ十郎兵衛様の懇願だ。力になりてぇのは山々ですがねぇ。知っての通り、うちは男所帯だ。幼子とはいえ、女子を入れるにゃぁ、ちぃと気ぃが引けやすぜ」
「案ずるな。お喜乃は男に手籠めにされるような女子ではない。むしろ、ここの者に無体を働かないか、儂はそれを案じておる」
「そう仰られましてもねぇ……。うちにいる輩も、一癖も二癖もある変わり者ばかりだ。何が起こるか、わかりゃぁしねぇ。しかし、こんだけ器量良しなら、他に行く当ては、いくらでもありやしょうに……」

 重三郎の困り果てた声に、長喜は驚いた。平生は侍相手にも引けを取らない重三郎だ。十郎兵衛という侍が重三郎にとり、どれほどの知己かは知らない。だが、これほど弱気な重三郎の声は初めて聞いた。
 鉄蔵と伝蔵も同じ思いなのか、驚いた顔をしている。三人は顔を見合わせた。

「他を当たらなかった訳ではない。どこに預けても、飛び出して帰ってくる。もう、重三郎殿しか、頼れる者がない。この通りだ」
「待ってくだせぇ。頭を上げてくだせぇよ。十郎兵衛様に、そねぇな振舞いをされたんじゃ……どうしたもんか。……参りやしたね」

 重三郎が深く息を吐いたのと同時に、部屋の中で大きな物音がした。

「お喜乃! いい加減にしろ。何故、素直に座っていられぬ!」

 十郎兵衛の鋭い声が飛ぶ。
 がしゃん、と何かが割れる音の後に、襖が開いた。

「うわぁあ!」

 先頭にいた伝蔵が、驚いて床に転がる。鉄蔵が器用に、ひょいと横に避ける。その後ろで、長喜は開いた襖の先を見ていた。

 歳の頃、五、六歳くらいだろうか。白い肌と端正な輪郭。綺麗に通った鼻筋と調和のとれた切れ長の目。まるで錦絵から飛び出した美女のようだ。
おおよそ童とは思えぬ仕上がった顔立ちは、とても美しい。だが、その目に浮かぶのは、明らかな敵愾だ。

(こいつぁ、獣だ。まるで美しい、女の獣だ)

 今にも牙を向きそうな獰猛な獣を目前にした気になった。胸の奥が、ざわりと音を立てる。昨晩、産女を前に絵を描いた時と似た感慨が、じんわりと湧いてくる。

 無言で眺める長喜を、童が強く睨みつけた。

「お喜乃、大人しく、こちらへ……」

 後ろから伸びた腕を振り払い、喜乃と呼ばれた童は部屋を飛び出した。三人は忙然として、走り去った童女の背中を眺めた。

「おい、手前ぇら! ぼうっとしていねぇで、あの童を掴まえてきやがれ!」

 部屋から顔を出した重三郎が、三人に向かい、慌てて怒鳴る。はっと我に返った鉄蔵が、蒼い顔をした。

「あっちは、俺の部屋だ。おいこら、小童! 待ちやがれ!」

 走る鉄蔵を、伝蔵が追いかける。その後を、長喜は付いて行く。庭に面して、くの字に曲がった廊下の先を、目で追う。一番端まで走った喜乃が、部屋の障子を開け放った。案の定、鉄蔵の部屋だ。

「入るんじゃぁねぇ! そこにゃぁ、大事なもんが山ほど放り出してあるんだ!」

 怒鳴りながら部屋に駆け込む鉄蔵を追いながら、伝蔵が吹き出した。

「大事なもんなら、放り出しておくなってな。ま、いつもの鉄蔵だがよ」

 確かに、その通りだと、長喜も思う。鉄蔵の部屋はいつも、足の踏み場もないほどに散らかっている。物を片付けるという通念が、そもそも備わっていないのかと思うほどだ。

 二人が鉄蔵の部屋を覗き込んだ時。ぼりっと、鈍い音がした。喜乃の足の下で、筆が一本、折れていた。
 言葉にならない悲鳴を飲み込んで、鉄蔵が大股に喜乃に近付く。喜乃は微動だにせず、鉄蔵を睨み付けていた。

「足を退かせ。その筆は、今、使っている中で一番大事な、使い勝手の良い筆なんだよ」

 どす声を静かに響かせる鉄蔵の肩には、怒りが溢れている。
 後ろで伝蔵が、ひっ、と息を飲んだ。喜乃は全く動じず、鉄蔵を睨み据えたままだ。

 今にも手が出そうな鉄蔵の脇を、長喜は、すり抜けた。喜乃の小さな体を抱え上げる。浮いた足元から鉄蔵が、折れた筆を取り返した。

「てんめぇ……。餓鬼だからって、何でも許されるとでも思っていんのか! 手前ぇの親は、何にも教えてくれなかったのかよ!」

 長喜の腕から逃れようと、じたばたしていた喜乃が、きっと鉄蔵を睨んだ。

「親の悪口を言うな! 漏聞していたのは、お前らだ。悪いのは、お前らだ!」

 小さな体から出たとは思えない威力のある声に、伝蔵がびくりと肩を上げる。
 鉄蔵が片眉を、ぴくぴくと引き攣らせた。今にも殴り掛かりそうな顔だ。

(こいつぁ、まずい。鉄蔵が本気で怒り出したら、面倒だ)

 長喜は喜乃を抱えたまま、廊下に出た。

「待て、長喜! その小娘に躾をしてやらなけりゃぁ、気が済まねぇ!」

 どかどかと近付く鉄蔵を、振り返る。

「そねぇに大事なら、床に転がしておくんじゃぁねぇよ。お前ぇも悪ぃだろ」
「ああ⁉ お前ぇは、小娘の味方かよ。絵師が手前ぇの大事な筆ぇ折られて、黙っていられるか!」

 地響きするような怒鳴り声に、伝蔵が耳を塞ぐ。

「誰の味方でも敵でもねぇよ。ちぃと、待っていろ」

 長喜は、喜乃を抱いたまま廊下に座り込んだ。逃げようと動く半身を抱えて、足に手を伸ばす。

「殴ったりしねぇから、足の裏を見せな。怪我しちゃいねぇか、確かめるだけだ」

 わざとぶんぶん振り回す足を掴まえる。右足の裏に、小さな棘が刺さっていた。

「言わんこっちゃぁねぇ。折れた筆の一片が、刺さっているぞ。抜いてやるから、じっとしていろ。伝蔵、こいつの足を押さえてくれ」

 横に屈んだ伝蔵が、喜乃の足を掴まえる。尚も逃げようと動く喜乃を押さえながら、何とか棘を抜いた。

「もう残っていねぇな。しばらくは、歩くたびに痛むぜ。手前ぇが悪ぃと心得て、受け止めな。人様の大事なもんを壊した罰だ」

 小さな体を抱えた腕を緩める。喜乃が、長喜の腕から飛び出した。右足を床につき、顔を歪めた。

「私は、悪くない! 漏聞なんかした、お前らが悪いんだ! 仕返しを、しただけだ!」

 長喜を睨む喜乃の目の力は、衰えていない。しかし、先ほどより潤んで見える。
 頭を掻いて、長喜は喜乃を見下ろす。すっと屈んで、喜乃に目の高さを合わせた。

「勝手に話を聞かれたのが、嫌だったのけぇ。そりゃぁ、悪かったな。だがよ、嫌な振舞いをされたら、人の大事なもんを壊して良いなんてぇ法は、ねぇぜ」

 一瞬、喜乃の目の力が緩んだ。だが直ぐに、眦を釣り上げる。その顔を見て取り、長喜は静かに語り掛けた。

「俺らは絵師でな。絵を描いて飯を食っている。だがな、それだけじゃぁねぇ。好きで絵を描いていんだ。絵や、絵を描く道具は、絵師にとって手前ぇの分身だ。魂の一片みてぇなもんだ。お前ぇさんの足と同じように、鉄蔵の筆も痛かったんだぜ。だから鉄蔵は怒ったんだ」

 釣り上がった眦が下がる。しかしまた、喜乃の目が懸命に長喜を睨もうとする。

(悪い振舞いをしたってぇのは、わかっているんだろうなぁ。素直じゃねぇのか、追い出されたくて、わざとしているのか)

 十郎兵衛が「どこに出しても帰ってくる」と話していたのを、思い出した。

「嫌な思いをさせて、悪かったな。俺らも謝るから、お前ぇさんも、鉄蔵に謝れ。それで仕舞いだ」

 喜乃が、ぐっと口を引き結んで、俯いた。顔を真っ赤にして、小さな拳を握っている。
 伝蔵が鉄蔵を突き、喜乃の様子を指さす。
 怒る肩を何とか制し、鉄蔵が豪快に頭を掻き毟った。

「ああ、ああ。俺らも悪かったよ。けどな、あらぁ、転がしているんじゃぁねぇ。俺が使い易い場所に置いているだけだ。放っているんじゃぁねぇからな!」

 長喜は眉を下げて、苦笑した。

「足から血が出ているぜ! 手当しねぇと! 医者を呼ぶか?」

 伝蔵の声に、喜乃の足元を確かめる。廊下に血の擦れた跡が付いていた。

「棘が残っていんのかもなぁ。医者まで要らねぇだろ。洗い流して、もう一度、棘を抜いてやるよ」

 長喜は再び喜乃の体を抱き上げた。押し黙ったままだが、喜乃は抵抗しなかった。
喜乃を担いで歩き出した長喜に、伝蔵が続く。その後ろを、鉄蔵が渋い顔で付いてくる。

「世話の焼ける小娘だなぁ。大事な筆は折りやがるし、勝手に怪我はするし。御転婆どころじゃぁねぇぜ、こいつぁ」

 長喜に担がれたまま、喜乃が後ろの鉄蔵を睨み付けた。

「鉄蔵みてぇな声のでけぇ大男を睨む元気がありゃぁ、上等だ。棘くれぇ、どうってこたぁねぇな」

 くりっと顔向きを変えて、喜乃が長喜を見上げた。眦の上がっていない素直な顔は、歳相応に見える。

(こねぇな幼子が、あねぇに人を睨むなんざ。どねぇな場所で、どねぇな思いで、今まで生きてきたのかねぇ)

 ぼんやりと考えながら、長喜は裏の井戸に歩いた。





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【補足情報】
山東京伝(伝蔵)は言わずと知れた有名戯作者です。北尾政虎の号で絵も描いていました。というか、絵師スタートの戯作者です。
彼の活躍については有名すぎて語る必要ないと思います。
人柄は穏やかで、いわゆるイケメンだったのでめっちゃモテたらしいです。妓楼の傾城を二回妻にしていますが、二人とも流行病で亡くなっています。
友人は多いが淡白な付き合いを好む人でした。いわゆる「割り勘」を日本で最初にした人のようです。それまでは、誰かが一括で払うのが普通だったらしいので。
手鎖の刑になったりして何度も書くのを止めようと思いながらも、蔦重さんや馬琴に支えられて、結局死ぬまで創作を続けた人でした。
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