鎮魂の絵師

霞花怜

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第一章 獣の目をした娘

獣の目をした娘③

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 次の日の昼九つ。
 長喜は自室の布団に寝そべり、ぼんやりと外の景色を眺めていた。萌える新緑が水色の空に浮き上がる。開け放った障子戸から、爽やかな風が流れ込んだ。

 蔦屋重三郎の営む《耕書堂》が、吉原から日本橋通油町に越してきたのは、今年も初めの頃だ。その時から、長喜は耕書堂の一室を間借りして、居住の絵師を始めた。

 長喜の実家は大伝馬町の木綿問屋だ。今でも、時々は帰る。絵師の仕事を本気で始めるため、敢えて居住を決めた。絵を描き始めた頃は、百川子興の号を使っていた。栄松斎長喜と改めたのは、耕書堂に居座ってからだ。

(もっともっと、自分の描きてぇ絵を描くんだ。俺にしか見えねぇ、感じねぇ心で。俺にしか引けねぇ線が、きっともっとある)

 昨晩の死霊と産女の絵も、納得のいく出来だった。

(けど、まだだ。俺が描きてぇ絵には、まだ、足りねぇ。もっと色んなもんを見て感じて、山ほど描かにゃぁ……)

 高鳴る胸に急かされて、半身を起こす。途端に、頭の中に鐘が鳴り響くような痛みが走り、くらりと眩暈がした。抑えきれない悪心に口を押さえる。起き上がった体が、ふらりと布団に舞い戻った。

「……兄ぃめ。礼と仕返しを、両方しやがった」

 昨晩、歌麿の誘いに乗って飲みに行った訳だが。下戸の歌麿は芸妓と楽しむばかりで、ほとんど呑まない。
 代わりに長喜にばかり酒が回ってくる。酒は好きだが長喜も、さほどいける口ではない。しかし昨晩は、歌麿への後ろめたさから、促されるまま飲んだ。気が付いた時には、自室の布団で寝ていた。
 酒が強くないのを知っていて、潰れるほど飲ませる。その後に、しっかり家まで送り届ける辺りが、実に歌麿らしい。

(途中から、全く覚えていねぇ。どれだけ飲ませたんだよ。ったく)

 心の中で悪態を吐きながら、爽やかな景色に背を向けた。
 頭痛と悪心に耐えて丸まる背中に、がつん、と容赦のない蹴りが入った。

「いつまで寝ていやがるんでぇ。昼は、とうに過ぎたぜ。朝寝と昼寝をくっつけて、夜まで寝る気かよ」

 恨めしい目で顔だけ振り向く。鮮やかな景色の前に、鉄蔵が立っていた。
 長喜の顔を見た鉄蔵が、目をひん剥いた。

「もしやお前ぇ、例の産女を見付けたな! どんな風貌だった? 美人だったか? それとも化物か? 絵を描いたんだろ? 詳しく聞かせろよ!」

 寝そべる長喜に躙り寄り、肩を揺らす。

「馬鹿野郎、揺するな。頭が、割れそうに痛ぇんだよ……」

 口元を押さえて悪心に耐える長喜などお構いなしに、鉄蔵が目を輝かせた。

 鉄蔵も絵師だ。勝川春朗の号で絵を描いている。勝川門下ではあるが、絵を学べる場所なら、どこへでも飛んでいく。今は、町狩野から絵を習っているらしい。
 それだけならまだ良いが、御禁制の洋画をこっそり模写している時もある。どこから持ち込んだのかは、わからない。面倒が嫌いな長喜は、気付かぬ振りをしている。好き勝手な振舞のせいもあり、勝川の門を潜りづらいらしく、鉄蔵は耕書堂によく出入りしていた。

 面白いもの好きな蔦重とは馬が合うようで、今では耕書堂に部屋まで宛がわれている。もはや食客だ。豪快で大胆な性格は、長喜とは似ても似つかない。だが、二十三で同い年というのもあり、仲が良い。絵に対する姿勢や思いは、似ていると感じる。
 だから、鉄蔵が産女に感心を持つのは、特に不思議ではない。加えて鉄蔵もまた、歌麿と同じく幽霊や妖怪が見えない人間だ。

「んなこたぁ、いいから。さっさと話せよ。読売の産女は、本当にいたのか? 別のもんか? 嘘っぱちか?」

 あまりにしつこく肩を揺らすので、長喜は根負けして頷いた。

「産女なら、見付けたぜ。歌麿兄ぃと一緒に会った。美人てぇより、優しい母親ってぇ感じだったなぁ。今頃は、黄泉の向こうに辿り着いているだろうぜ」
「絵は、どうした? 一番に巧い絵は消えちまったろうが、書き損じがあんだろ。持って帰ぇってきたんだろうな!」

 身を乗り出す鉄蔵に、首を傾げる。

「そういや、どこにやったか……。……あぁ、歌麿兄ぃが持っているかもしれねぇなぁ。……恐らくだけど……」

 ごろりと寝返りを打って、長喜は呆けた。
 鉄蔵が動きを止める。長喜の横に、すとんと腰を下ろした。

「長喜よ。ぼんやり抜かしてんじゃぁねぇよ。大事なもんは、手前ぇでしっかり持ち帰れ。あんな気取り屋に、くれてやるんじゃぁねぇ」

 太い腕をがっしりと組んだ鉄蔵が、長喜を見下ろす。大きな体に筋骨のある鉄蔵は、一見しては絵師とは思えない。力仕事でも、していそうな風貌だ。

「別に、いいだろうよ。失くしたんじゃぁねぇんだし。兄ぃが持っていれば、そのうちに持ってきてもらやぁ、いいだけだぜ」

 ちっ、と大きな舌打ちをして、鉄蔵が苦い顔をした。

「あねぇに、すかした狐目野郎に頭ぁ下げるなんざ、御免だぜ。ちぃっと美人の錦絵が売れたくれぇで、天狗になりやぁがって」

 確かに歌麿の名が世間に知れたのは、今年に入ってからだ。昨年までは別の号で絵本の挿絵などを描いていた。

「兄ぃが得意なのは、女の絵だけじゃぁねぇ。あの人は、何を描かせても、巧いんだ」
「ああ、そうだろうよ。虫でも植物でも秘画でも、何でも描けらぁ! そのうちにもっと巧くなって、人気になるだろうよ! そんで、どんどん天狗になりやがるだろうな!」

 ぽそりと零れた長喜の言葉に、鉄蔵が間髪入れずに噛み付いた。
 長喜は、呆けて鉄蔵を眺めた。鉄蔵が、ふぃと目の先を逸らした。

「褒めてねぇからな。只、巧いとは思うってぇ、それだけの話だよ!」

 じわりじわりと、笑いが込み上げる。長喜は堪らず、声を出して笑った。

「何を笑いやがる! 俺ぁ、思ったままを口にしただけだ。大体、俺だったら、あねぇな絵は描かねぇ!」

 耳を赤くして怒る鉄蔵の姿が可笑しくて、なかなか笑いが収まらない。

「くっくく。そうかぃ、そうかぃ。そらぁ、そうだろうなぁ。鉄蔵の描く絵と兄ぃの絵は、全く違うよなぁ」

 鉄蔵の気持ちは、長喜にもよくわかる。絵の技や巧みさに対する純粋な嫉妬など、絵師なら誰にでも芽生える心情だ。

 出会った頃から、鉄蔵と歌麿は相性が悪い。それには長喜も気が付いていた。欽羨と嫉妬を真っ直ぐに言葉にする鉄蔵が、長喜は憎めない。兄弟子の悪口めいた話をされても、嫌な気はしない。そもそも、鉄蔵の言葉は、悪口とすら言い得ない。

 笑う長喜と怒る鉄蔵の元に、伝蔵が、ひょっこりと顔を出した。

「おーい、何やら妙な客が来ているぜ。覗きに行かねぇかぃ」

 伝蔵もまた、長喜や鉄蔵と同様に、耕書堂に寝泊まりしている。二十二歳の伝蔵は、北尾政演の号で絵を描いている。最近は、山東京伝の名で戯作も書く。歳の近い三人は、平素から一つの部屋に集まり、絵や戯作の話をして盛り上がっていた。

「どうしたぃ? 妙な客ってぇのは、何でぇ?」

 振り返った鉄蔵に、伝蔵が物好の浮いた目を向けた。

「どこぞの御侍様のようだが、只の侍じゃぁ、なさそうだぜ。童を連れてきて、蔦重さんと神妙な話をしていんだよ」

 長喜と鉄蔵が顔を合わせる。鉄蔵が、にやりと笑んで立ち上がった。

「そいつぁ、何かありそうだ。行こうぜ、長喜。もう昼寝は充分だろう」

 大きく一つ、欠伸をする。長喜は重い頭を叩き、伸びをした。

「頭痛も治まってきたし、今日は絵を描く気にもならねぇ。ちょぃと覗いてみるかねぇ」

 物見高の足音を立てる二人の後を、ぼんやりと付いていく。

 その先に、人生が変わる出会いが待ち受けているなどと、この時は思いもしなかった。





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【補足情報】
耕書堂は蔦屋重三郎が営んでいた板元です。板元の字も、江戸時代だとこれで「はんもと」と読みます。版元になるのは、活版印刷が導入された以降になります。
耕書堂には当時、たくさんの食客が住み着いていました。葛飾北斎、曲亭馬琴、喜多川歌麿、山東京伝、東洲斎写楽(多分)などなど。もっといっぱいいますが、今、浮かんでこない。
今後の化政文化の担い手やその師匠が山ほどいたんですね。
蔦重は名プロデューサーであり、面倒見がいいおやっさんだったようです。
そう言えば、2025年の大河ドラマは蔦重ですね。
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