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第Ⅱ章

第50話 ロゼ色のズブロッカ

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 紗月が十三階の部屋に戻ると、部屋の中に陽人がいた。
 ソファに背を預けて床に胡坐を掻いている。
 紗月の気配に気が付いた陽人が振り返り、手を上げた。

「やぁ、さっちゃん、予想通り早かったね」
「何してんの?」

 近付くと、テーブルの上には酒が準備されていた。

「久しぶりに一緒に飲みたくなってね。ウィスキーも好きだろ?」

 置いてあるボトルを手に取って、紗月は微妙に嫌な顔をした。

「マッカランのレアカスクって……。私は安酒を大量に飲む方が好きだよ。というか、怖いんだけど。桜ちゃん、私に何かさせたいの?」

 何年ものか知らないが、場合によっては億の値がつく酒だ。さすがにそこまでではないだろうが、陽人が持ってくる以上、それなりの代物なんだろう。
 思わず真意を疑いたくなるほどの高級酒に、嫌な予感しかしない。

「たまには良いじゃないか。安酒を浴びるほど飲むのも楽しいが、良い酒をじっくり味わうのも大人の嗜みだよ」

 紗月の手からボトルを奪い、陽人が丸い氷が入ったグラスにゆっくりと注ぐ。
 マドラーで軽く馴染ませると、透き通った美しい琥珀色が揺れた。

「さっちゃんはストレートが好きだろうけど、今日はハーフロックくらいを愉しんでほしいかな」
「ハイボールが好きだけど、流石にこんな高級な酒で作れとはいえない」

 紗月が好きなハイボールはチープな味わいの、がぶ飲みできる炭酸ウィスキーだ。マッカランを炭酸で割りたいわけではない。
 陽人が紗月にグラスを差し出す。素直に受け取った。
 ウィスキー独特の芳醇で甘い香りが鼻に抜ける。

「ハイボールが良ければ作ろうか? 炭酸水、冷蔵庫にあったようだから」
「いいよ。今日は、桜ちゃんのオススメで飲むから」

 グラスの中身を一口含む。
 フルーティーでまろやかなのに、後味がスパイシーで舌に残る後味が心地よい。
 普段、飲んでいる酒の味が思い出せないくらいだ。

「そもそも、酒の味を感じながら飲んでないな、普段の私は」

 紗月の呟きに、陽人が吹き出した。

「今日は酒の味を感じるかい?」
「こんな高い酒を持ってこられたら、味わうしかないでしょ」
「それは何よりだね。選んだ甲斐があったよ」

 陽人が満足そうにグラスを傾ける。
 どこかリラックスした様子の陽人に、少しだけ安堵した。
 紗月はグラスを持ったまま、陽人の隣に同じようにして座った。

「直桜は、思っていた子と違ったよ。もっと捻くれたガキだと思ってた」

 陽人の首元をちらりと覗く。
 直桜に引っ張られた襟元は綺麗に戻っているが、握られたネクタイが皺になったままだった。
 力などなさそうに見えるあの細腕が、ネクタイに皺を残すほどの握力で握りしめたのだ。

「乾いているようで、熱い子だった」
「そうだね」

 陽人の笑みは、困っているような複雑な色に見えた。

「ガキだけど、捻くれてはいないかな。あの狭い集落で隔離されて育った子だ。世間知らずな自覚があるんだろう。性根は真っ直ぐな子だよ」
「今日の直桜には、スカッとした。私でも、桜ちゃんのネクタイを掴み上げたりは、流石に出来ないからね」

 思わず笑いが漏れた。

「そうかい? 紗月なら普通にやりそうだけどな。それ以上のことを、既にされている気がするよ」
「何それ、どういう意味よ。私がお前に、いつ何をした?」

 不服な視線を送る。
 陽人が考えるように空を眺めた。

「そうだな。言われてみれば昔の紗月は、僕やシゲに遠慮がちだったね。あの頃はあの頃で生意気だと思っていたけど、今に比べれば可愛かったな」
「悪かったな、生意気で。だって桜ちゃんも重ちゃんも年下なんだから、そうなるじゃん」

 吐き捨てて、グラスを傾ける。
 今の歳になってしまえば一歳の年の差などないようなものだ。けれど、十代や二十代の前半は、その一歳が大事なお年頃だ。

「むしろ二人の方が生意気だったよ。13課のエリート候補生ってさ。纏う空気が王子様みたいで目立つし、とても13課の住人とは思えなかった」

 うんざりした声を出す。
 陽人が、おかしそうに笑った。

「あの頃の13課は殺伐としていて纏まりもなくて、組織としては破綻していたからね。僕らのような存在が目新しく映ったんだろ」

 紗月が13課に関わったのは、十六歳の時。忍のスカウトを受けて仕事を始めた。あの頃はまだ人も少なかったし、担当部署も分かれていなかった。

「確かに、そうだね。桜ちゃんと重ちゃんが入ってから、忍は仕事がしやすそうだったし、13課は変わったと思うよ」

 陽人と優士が13課に所属したのは、それから二年後だ。陽人は優士の力を借りて忍に働きかけ、13課は組織としての体を戻していった。

「また大幅な部署改変をしようと思ってる。優秀な人材が増えた今なら僕が以前から思い描いていた編成が可能だ」

 紗月は手の中でグラスを揺らした。大きな球体の氷がカランと揺れる。陽人の手の中で転がる組織と同じに見えた。

「いいんじゃない? 桜ちゃんがずっとやりたかったこと、今なら出来るでしょ。……むしろ、今しかないよね」

 陽人がグラスの中の酒を一気に飲み干した。

「そのためには、今現在、起きている問題の解決が必要だ。僕らが犯した罪の尻拭いを次の世代にさせるわけには、いかないだろ」

 陽人がもう一つ、酒の瓶を取り出して、紗月の前に置いた。
 薄紅色をしたズブロッカの液体が、瓶の中で揺れている。
 その瓶を眺めて、紗月の中にじんわりと熱いモノが込み上げた。

「ロゼ色のズブロッカ、か。懐かしい安酒だね。あの頃は粋がって、ワンショットで飲んでたっけ」
「僕が必ず最初に潰れて、紗月が最後まで残るのが定石だったね」
「重ちゃんは私たちの介抱のために飲む量を控えていたから、絶対に潰れなかったよね」
「シゲはそういう建前で飲まなかっただけだよ。酔い潰れる醜態を見せたくなかったのさ」
「でもさ、無理やり飲ませたこと、あったよね。あの時の重ちゃんは」
「「怖かった」」

 紗月の言葉に陽人が被せた。
 二人揃って、笑いが吹き出す。

「本気で怒ると一番怖いの、重ちゃんだったなぁ。桜ちゃんは普段から、怒ったら怖いですよってオーラ出しているけど、重ちゃんは普段が優しいから、めっちゃ怖い」
「そんなオーラ、出しているつもりないけどな。紗月は普段から怒っているから、怖くないんだろうね」
「否定しないけどさ。大概失礼だな」

 陽人が空いたグラスをテーブルに置く。
 紗月もマッカランを飲み干して、グラスを置いた。

「なんでこの場に、重ちゃんがいないんだろうね」

 言ってはいけない言葉だと、わかっている。
 それでも今は、酒のせいにして、零してしまいたかった。

「シゲはすぐに戻る。また三人で酒を飲み交わせる時がくるさ。清人が必ず巧くやってくれる」

 びくりと、肩が震えた。
 陽人が言う「罪の尻拭い」をさせている最たる後輩は、清人だ。

「悪かったね、紗月」

 陽人の言葉に、首を振った。

「私こそ、悪かったよ。清人は納得して自分から行ったんでしょ。桜ちゃんにはちゃんと相談してたんなら、私が口を出す話じゃ、ないよ」

 本音ではない。本当なら、自分にも相談してほしかったし、あんな無茶な潜入はしてほしくなかった。
 しかし紗月に、それを言う資格はない。

「そうじゃない、伊豆能売の魂についてだ。もっと早くに僕に相談できていたら、紗月の人生は変わっていたはずだよ。話せない状況を作った僕に責任がある」
「違う! それは、違うよ。私個人の責任を、桜ちゃんが気に病む必要はないんだ」

 陽人の視線から逃げたくて、紗月は俯いた。

「紗月だけじゃない、シゲもだよ。自分の生い立ちも集魂会との関わりも、僕に話せていたら、きっと変わっていた。今の、この状況はなかった。僕の責任なんだ」

 陽人がワンショット用のグラスを三つ、取り出した。
 グラスにズブロッカを注いでいく。

「迷惑、掛けたくなかった。桜ちゃんが出世したがる理由を、私も重ちゃんも知ってた。こんな風に迷惑かけるつもりじゃなかったんだ。きっと重ちゃんも同じで」

 陽人の指が紗月の唇に触れた。

「わかってる。責めるつもりも、言い訳をするつもりもない。僕はね、どれだけ強欲と罵られようと紗月とシゲを諦めるつもりはないし、後輩たちを誰一人失う気もない」

 陽人がワンショットグラスを紗月に手渡した。
 自分も一つ、手に取る。

「覚えているかい? 十年前の事件の後、僕らはそれぞれに秘密を胸に仕舞って、忘れることにした。あの時に交わしたのも、この酒だ」

 紗月は、手の中で揺れる薄紅の液体に目を落とした。
 あの時のことは、よく覚えている。
 
「僕の一番の罪は、シゲに英里の霊元を移植したことだ。きっとシゲを苦しめた。次が紗月に秘密を強いたこと。だから紗月は13課を避けたんだろう」

 紗月は首を振った。

「私には私の事情があったよ。桜ちゃんのせいだけじゃない。私はもっと酷い罪を犯したんだ」

 陽人の指が紗月の頬を撫でる。

「あの一件での紗月に非はない。けれど、これから僕が紗月に強いる仕事は、きっと紗月を苦しめる。それでも、頼めるか?」

 陽人が紗月の顎を掬い上げる。
 俯いた顔が上がって、陽人の顔が真ん前に迫った。

(やりたくない、逃げたい。けどもう、逃げるのはやめたんだ)

 紗月は頷いて、薄紅の液体を飲み干すと、目を閉じた。
 体の中に陽人の霊気が流れて満ちる。
 紗月は、ゆっくりと目を開いた。

「清人に背負わせた尻拭いに比べたら、易いよ。私にしか出来ない仕事だ。必ず遣り遂せて見せる」

 陽人に向かって、手を出す。
 陽人が、はにかんだ。

「頼りになるね。さすが紗月だ」

 陽人が同じようにズブロッカを飲み干した。
 自分の霊現体である霊銃を紗月に手渡した。

「痛くなく、頼むね」

 紗月に向き直り、両手を上げる。

「それは無理だよ。銃で撃たれたら、普通に痛いでしょ」

 受け取った銃を構えて、陽人に向ける。

「寝ている間に総て終わらせてくるから、ゆっくり休んで。桜ちゃんも有給、余ってるでしょ」
「僕の場合、状況的に療養休暇になるんじゃないかな。もしくは忌引きかな」
「笑えないから、やめろ」

 二人して、吹き出す。

「じゃぁね。マッカラン分は、仕事してくるよ」
「高い酒を出した甲斐があったね。任せたよ、さっちゃん」

 陽人の左胸に狙いを定める。
 引き金を引いた感触は、まるで映画のスローモーションのように現実的ではなかった。
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