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第31話 紫苑と双実
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次の日、やけに体が痛くて、いつもより早く目が覚めた。
どうしてなのかわからなかったが、ふと昨日、志念に付いて一日中家事の手伝いをしていたことを思い出す。
(あれのせいなのかな)
引き摺るように起き上がって、一度大きく伸びをしてから、布団を畳む。
いつもは適当にしている仕草だったが、今日からはもっと丁寧に畳もう、と思った。
顔を洗って隠れ家の廊下を歩く。
隠れ家の中は、外がどんなに寒くても暑くても、あまり空気に変化がない。
障子戸を開けて庭に出れば季節を感じるが、部屋の中は一定した気温が保たれていた。
(紫苑て、凄いんだなぁ。一体、何者なんだろう)
この『隠れ家』と、飯屋である『あやし亭』という空間を作り維持しているのは紫苑の力だと聞いた。
睦樹は未だに紫苑の詳しい素性を知らない。
尤も紫苑に限らず他の面子についても同じなわけだが。
(いつか、わかる日が来るかな)
と考えて、歩いていた足を止めた。
睦樹は自分の名を思い出すために、あやし亭に留まることを決めた。
その目的は既に達成している。
(僕はどうして、まだここに居るんだろう)
いや、違う。まだここに居たい、と思っている。
(どうして、なのかな)
本当はわかっている筈の問答を繰り返している睦樹の目線の先に、ある光景が飛び込んだ。
少しだけ開いている襖の向こう側を覗いて、ぎょっと飛び上がった。すると。
「睦樹ちゃん。覗いてなんかいないで、入っていらっしゃいな」
小声で手招きする紫苑に誘われて、おずおずと部屋に入る。
「ごめん、覗き見するつもりは、なかったんだけど」
「驚いた?」
言い訳する睦樹の心情を言い当てて、紫苑はくすりと笑う。
睦樹は素直に頷いた。
「紫苑と双実は、あんまり仲が良くないんだと、思ってた」
紫苑の膝の上には、猫の姿で心地よさそうに眠る双実の姿があった。
尾が二股に分かれているので、正確には猫又というべきなのだろうが、見目は普通の三毛猫である。
そんな三毛猫姿の双実の背中を紫苑が優しい手付きで撫でていた。
「双実ちゃんは、素直だから。安心できる相手には、つんつんしちゃうのよ」
「それは、素直っていうのか?」
それこそ素直な問いをぶつけると、紫苑はふふっと微笑んだ。
「言いたいことを言って、気を遣わない態度で居るのは、素直って言わない?」
そう言われるとそんな気もする、という気もするが。
睦樹は難しい顔で「うーん」と呻った。
そんな睦樹を楽し気に眺めながら、紫苑は眠る双実の頭を、そっと撫でる。
「双実ちゃん、あたしの膝でお昼寝するのが大好きなのよ。だから、たまぁにこうやって、お昼寝に付き合ってあげるの。本当はあたしの、じゃなくて、大好きだった姐さんのお膝、なのだけどね」
「姐さん? 姉妹がいたのか?」
猫は子沢山だし当然か、と思いながら問う。紫苑が首を振った。
「双実ちゃんを飼っていた花魁のお姐さんの事。兄弟なら、お兄さんがいたわよ。三毛の雄は珍しいから、見世の守神って大事にされていたらしいわ」
「そう、なんだ」
じゃあ双実は? という問いは、聞けなかった。
三毛の雄が守神と言われて大事にされている一方で、珍しくもない三毛の雌である双実は、どういう扱いをされていたのだろう。
ちらりと、眠る双実の顔を覗く。
すっかり眠りこけている双実の気の抜けた顔を見て、少し安心した。
きっと双実を飼っていた花魁の姐さんは、双実のことも大事にしてくれていたのだろう。
(だから、膝の上で昼寝するのが好きなんだろうな)
何となく、そう思った。
「双実ちゃんて、あたしに、ちゃん付けで呼ばれるのを嫌がるでしょ? 大好きだった姐さんがちゃん付けで呼んでいたから、思い出しちゃうのかもねぇ。勿論、呼んでいたのは元の名、だけれどね」
紫苑のわざとらしい言い回しが、妙に引っ掛かかった。
「双実は、思い出したくない、のかな」
自分の名と記憶を取り戻すことに躊躇の無かった睦樹でも、少しだけわかる。
一度は捨ててしまう程に辛い現実を、もう一度取り戻し真っ直ぐに向き合う怖さや苦しさが。
睦樹の複雑な表情を見て、紫苑は眉を下げた。
「そうねぇ、そうかもしれないわねぇ。本当はもう思い出しているのかもしれないし、忘れた振りをしているのかもしれないし。本人じゃないと、わからないわねぇ」
それを聞いて、睦樹は表情を硬くした。
「ねぇ、紫苑。名を思い出しても、ここに居て、いいのか」
ふいと紫苑が顔を上げる。
強張った表情の睦樹を眺めて、気の抜けたように笑みを零した。
「ふふ、うふふふ」
着物の袖で口元を隠して笑う紫苑に、睦樹が困惑した顔をする。
紫苑がふぅ、と笑みを収めた。
「ごめんねぇ、睦樹ちゃんがとっても可愛いから、つい、ね」
前に志念にも似たようなことを言って笑われたことを思いだし、ムッとする。
頬を膨らませて子リスのような顔をする睦樹に、紫苑が目を細めた。
「睦樹ちゃんはきっともう、気付いていると思うけれど。ここに居る皆はねぇ、好きでここに住んでいるのよ。失くした名をどうしたいかは其々だけれど、そんなこと、どうでもいいのよ」
艶っぽさを纏う笑みを乗せた瞳が、真っ直ぐに睦樹を見詰める。
「睦樹ちゃんは、どうしたいの?」
「僕は……」
本当は気付いている。まだ、ここに居たい。
けれど自分には、蒼羽として、一族の長の息子として、やらなければならないことがある。
言葉を止めてしまった睦樹に、紫苑は変わらぬ笑みを向ける。
「迷っているなら、迷っていたらいいわぁ。答えが出るまで、ね」
にこりと微笑まれて、体の力が抜ける。
緩んだ目に、くにゃりくにゃりと空を泳ぐ双実の尻尾が目に入った。
「紫苑、とりあえず僕は今、双実の尻尾を触ってみたい」
にゅっと伸ばした睦樹の手を、二股の尻尾がびしっと弾く。
「嫌に決まっているでしょ! 触るんじゃないわよ!」
いつもの双実の金切り声がして、寝ていた筈の双実が顔を上げる。
「痛い! 双実、寝た振りしていただろ!」
手を擦りながら咎める睦樹に、双実が畳みかけた。
「あんたが、ぎゃあぎゃあ煩いから目が覚めちゃったのよ、このチビガキ! ここに居たいなら、いつまでだって居たらいいでしょ! 悩むだけ無駄!」
言うだけ言ってぷいっと顔を背けてしまった双実に、睦樹がぽかんと口を開ける。
そんなやり取りを見て、紫苑が嬉しそうに笑った。
「全くもぅ、二人とも仲良しねぇ」
「仲良しじゃないわよ! ……まだ、ちょっとしか」
紫苑に噛みついた双実がじっとりとした目で睦樹を睨む。
呆けた顔をしていた睦樹の顔に徐々に笑みが昇った。
「尻尾が駄目なら、背中、撫でたい。もふもふ、触りたい」
ずいずいと近寄ってくる睦樹に、双実がぞっとした声を上げる。
「調子に乗るんじゃないわよ、嫌よ! 大体、あんたの羽だって、もふもふしているじゃない。自分の羽で満足しておきなさいよ!」
「僕の羽のもふもふと、双実の毛並のもふもふは別物じゃないか」
「知らないわよ、そんなの。嫌、やだ! 紫苑、助けて!」
もはや涙目で縋りつく双実を紫苑がすっと抱き上げる。
睦樹は、しゅんとして残念そうな声で言った。
「森の友達だった、兎やムササビのもふもふが大好きだったんだ。双実の毛並は友達に似ているから、思い出してちょっとはしゃいじゃった。ごめん」
俯く睦樹を眺めて、双実が言葉を失くす。
紫苑の胸に縋りながら黙っていたが、すっと背中を睦樹に向けた。
「ちょっと、ちょっとだけ、撫でるだけよ。ぎゅーとかしたら、引っ掻くからね」
ぱっと明るい顔をして睦樹が双実の背中に手を伸ばす。
ふわりとした猫の背中を撫でながら、睦樹がにこにこと嬉しそうに笑う。
「すっごく、もふもふだ」
「当たり前でしょ。毎日、綺麗に手入れしているんだから」
誇らしげな双実に笑いかける睦樹の目尻が少し潤んでいると気付いていても、二人とも何も言わない。
この柔らかくて暖かな空気の中に、もう少しだけ居たいと思った。
どうしてなのかわからなかったが、ふと昨日、志念に付いて一日中家事の手伝いをしていたことを思い出す。
(あれのせいなのかな)
引き摺るように起き上がって、一度大きく伸びをしてから、布団を畳む。
いつもは適当にしている仕草だったが、今日からはもっと丁寧に畳もう、と思った。
顔を洗って隠れ家の廊下を歩く。
隠れ家の中は、外がどんなに寒くても暑くても、あまり空気に変化がない。
障子戸を開けて庭に出れば季節を感じるが、部屋の中は一定した気温が保たれていた。
(紫苑て、凄いんだなぁ。一体、何者なんだろう)
この『隠れ家』と、飯屋である『あやし亭』という空間を作り維持しているのは紫苑の力だと聞いた。
睦樹は未だに紫苑の詳しい素性を知らない。
尤も紫苑に限らず他の面子についても同じなわけだが。
(いつか、わかる日が来るかな)
と考えて、歩いていた足を止めた。
睦樹は自分の名を思い出すために、あやし亭に留まることを決めた。
その目的は既に達成している。
(僕はどうして、まだここに居るんだろう)
いや、違う。まだここに居たい、と思っている。
(どうして、なのかな)
本当はわかっている筈の問答を繰り返している睦樹の目線の先に、ある光景が飛び込んだ。
少しだけ開いている襖の向こう側を覗いて、ぎょっと飛び上がった。すると。
「睦樹ちゃん。覗いてなんかいないで、入っていらっしゃいな」
小声で手招きする紫苑に誘われて、おずおずと部屋に入る。
「ごめん、覗き見するつもりは、なかったんだけど」
「驚いた?」
言い訳する睦樹の心情を言い当てて、紫苑はくすりと笑う。
睦樹は素直に頷いた。
「紫苑と双実は、あんまり仲が良くないんだと、思ってた」
紫苑の膝の上には、猫の姿で心地よさそうに眠る双実の姿があった。
尾が二股に分かれているので、正確には猫又というべきなのだろうが、見目は普通の三毛猫である。
そんな三毛猫姿の双実の背中を紫苑が優しい手付きで撫でていた。
「双実ちゃんは、素直だから。安心できる相手には、つんつんしちゃうのよ」
「それは、素直っていうのか?」
それこそ素直な問いをぶつけると、紫苑はふふっと微笑んだ。
「言いたいことを言って、気を遣わない態度で居るのは、素直って言わない?」
そう言われるとそんな気もする、という気もするが。
睦樹は難しい顔で「うーん」と呻った。
そんな睦樹を楽し気に眺めながら、紫苑は眠る双実の頭を、そっと撫でる。
「双実ちゃん、あたしの膝でお昼寝するのが大好きなのよ。だから、たまぁにこうやって、お昼寝に付き合ってあげるの。本当はあたしの、じゃなくて、大好きだった姐さんのお膝、なのだけどね」
「姐さん? 姉妹がいたのか?」
猫は子沢山だし当然か、と思いながら問う。紫苑が首を振った。
「双実ちゃんを飼っていた花魁のお姐さんの事。兄弟なら、お兄さんがいたわよ。三毛の雄は珍しいから、見世の守神って大事にされていたらしいわ」
「そう、なんだ」
じゃあ双実は? という問いは、聞けなかった。
三毛の雄が守神と言われて大事にされている一方で、珍しくもない三毛の雌である双実は、どういう扱いをされていたのだろう。
ちらりと、眠る双実の顔を覗く。
すっかり眠りこけている双実の気の抜けた顔を見て、少し安心した。
きっと双実を飼っていた花魁の姐さんは、双実のことも大事にしてくれていたのだろう。
(だから、膝の上で昼寝するのが好きなんだろうな)
何となく、そう思った。
「双実ちゃんて、あたしに、ちゃん付けで呼ばれるのを嫌がるでしょ? 大好きだった姐さんがちゃん付けで呼んでいたから、思い出しちゃうのかもねぇ。勿論、呼んでいたのは元の名、だけれどね」
紫苑のわざとらしい言い回しが、妙に引っ掛かかった。
「双実は、思い出したくない、のかな」
自分の名と記憶を取り戻すことに躊躇の無かった睦樹でも、少しだけわかる。
一度は捨ててしまう程に辛い現実を、もう一度取り戻し真っ直ぐに向き合う怖さや苦しさが。
睦樹の複雑な表情を見て、紫苑は眉を下げた。
「そうねぇ、そうかもしれないわねぇ。本当はもう思い出しているのかもしれないし、忘れた振りをしているのかもしれないし。本人じゃないと、わからないわねぇ」
それを聞いて、睦樹は表情を硬くした。
「ねぇ、紫苑。名を思い出しても、ここに居て、いいのか」
ふいと紫苑が顔を上げる。
強張った表情の睦樹を眺めて、気の抜けたように笑みを零した。
「ふふ、うふふふ」
着物の袖で口元を隠して笑う紫苑に、睦樹が困惑した顔をする。
紫苑がふぅ、と笑みを収めた。
「ごめんねぇ、睦樹ちゃんがとっても可愛いから、つい、ね」
前に志念にも似たようなことを言って笑われたことを思いだし、ムッとする。
頬を膨らませて子リスのような顔をする睦樹に、紫苑が目を細めた。
「睦樹ちゃんはきっともう、気付いていると思うけれど。ここに居る皆はねぇ、好きでここに住んでいるのよ。失くした名をどうしたいかは其々だけれど、そんなこと、どうでもいいのよ」
艶っぽさを纏う笑みを乗せた瞳が、真っ直ぐに睦樹を見詰める。
「睦樹ちゃんは、どうしたいの?」
「僕は……」
本当は気付いている。まだ、ここに居たい。
けれど自分には、蒼羽として、一族の長の息子として、やらなければならないことがある。
言葉を止めてしまった睦樹に、紫苑は変わらぬ笑みを向ける。
「迷っているなら、迷っていたらいいわぁ。答えが出るまで、ね」
にこりと微笑まれて、体の力が抜ける。
緩んだ目に、くにゃりくにゃりと空を泳ぐ双実の尻尾が目に入った。
「紫苑、とりあえず僕は今、双実の尻尾を触ってみたい」
にゅっと伸ばした睦樹の手を、二股の尻尾がびしっと弾く。
「嫌に決まっているでしょ! 触るんじゃないわよ!」
いつもの双実の金切り声がして、寝ていた筈の双実が顔を上げる。
「痛い! 双実、寝た振りしていただろ!」
手を擦りながら咎める睦樹に、双実が畳みかけた。
「あんたが、ぎゃあぎゃあ煩いから目が覚めちゃったのよ、このチビガキ! ここに居たいなら、いつまでだって居たらいいでしょ! 悩むだけ無駄!」
言うだけ言ってぷいっと顔を背けてしまった双実に、睦樹がぽかんと口を開ける。
そんなやり取りを見て、紫苑が嬉しそうに笑った。
「全くもぅ、二人とも仲良しねぇ」
「仲良しじゃないわよ! ……まだ、ちょっとしか」
紫苑に噛みついた双実がじっとりとした目で睦樹を睨む。
呆けた顔をしていた睦樹の顔に徐々に笑みが昇った。
「尻尾が駄目なら、背中、撫でたい。もふもふ、触りたい」
ずいずいと近寄ってくる睦樹に、双実がぞっとした声を上げる。
「調子に乗るんじゃないわよ、嫌よ! 大体、あんたの羽だって、もふもふしているじゃない。自分の羽で満足しておきなさいよ!」
「僕の羽のもふもふと、双実の毛並のもふもふは別物じゃないか」
「知らないわよ、そんなの。嫌、やだ! 紫苑、助けて!」
もはや涙目で縋りつく双実を紫苑がすっと抱き上げる。
睦樹は、しゅんとして残念そうな声で言った。
「森の友達だった、兎やムササビのもふもふが大好きだったんだ。双実の毛並は友達に似ているから、思い出してちょっとはしゃいじゃった。ごめん」
俯く睦樹を眺めて、双実が言葉を失くす。
紫苑の胸に縋りながら黙っていたが、すっと背中を睦樹に向けた。
「ちょっと、ちょっとだけ、撫でるだけよ。ぎゅーとかしたら、引っ掻くからね」
ぱっと明るい顔をして睦樹が双実の背中に手を伸ばす。
ふわりとした猫の背中を撫でながら、睦樹がにこにこと嬉しそうに笑う。
「すっごく、もふもふだ」
「当たり前でしょ。毎日、綺麗に手入れしているんだから」
誇らしげな双実に笑いかける睦樹の目尻が少し潤んでいると気付いていても、二人とも何も言わない。
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