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第11話 参太の秘密
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火事の跡地が佐平次の仕切りで着々と整備され、更地になった場所が村の体を成していく。
その一方で睦樹は、未だ消息の掴めない両親や仲間の事、もう戻らない里を思い、歯噛みする気持ちでその噂を聞いていた。
火事の件を「仕舞いだ」と言って以来、零も他の面々もそのことには一切触れずに日常を過ごしている。
依頼の無い時のあやし亭は随分とのんびりしていて、昼間はそれぞれ好きに過ごし、黄昏時になると店を開ける。
店の場所はいつも変わるが、それは特に誰かが決めているわけではなく、偶然繋がった場所が店の入り口になるのだそうだ。
(偶然、なのかな)
と、睦樹は不思議に思う。
その偶然とは、もしかしたら参太が言っていた「見つけたい人」を感じて店の方から寄っていく、ということなのかもしれない。
まだ店に依頼が入るところを見なことはないが、何となく、そう思った。
(ここに来てから、沢山、知らなかったことを知った)
鳥天狗の里で仲間に囲まれて暮らしていた時には知らなかった世界、知らなかった価値感、知らなかった存在。その総てが凄い速さで睦樹に襲い掛かってきて、圧倒されるばかりだ。里にいた時は、知らなかった気持ちも知った。
(仲間がいないのって、こんなに心細いんだな)
あやし亭の面々は何のかんのと皆、優しい。睦樹のことも人である六のことも、当然のように迎え入れてくれた。
それでも心の隙間を吹き流れる冷たい風がやむことはない。
『……様は、やはりご立派です』
ふと、頭の中で声が聞こえた。それは聞き慣れた仲間の声だ。
『流石、次期鳥天狗の長となるべき御方。聡明さも羽の美しさも他とは比べ物になりません』
そんなことを普段から言われて育ってきた。
(そういえば僕は里の中で、褒められたことしかない)
由緒ある鳥天狗を統べる長の息子として将来を期待され敬われて、そんなことは当然だった。
しかし、このあやし亭では睦樹は新入りで、双実には「チビガキ」と馬鹿にされ、紫苑には「睦樹ちゃん」と子供扱いされる。
初めはカチンときたりイライラしたりしていたが、怒涛のように押し寄せてくる知らなかった色々のせいで、そんな感情はすっかり流されて只々圧倒されている自分に気が付いた。それがとても情けないし歯痒い。
(僕は凄い存在なのに!)
なんて子供じみた発想も、今はもうできなくなった。
それ程に、里の外には睦樹の知らかった世界が広がっていたのだ。
すぐにでも仲間を探しに行きたいという衝動を堰き止めている理由の一つが、それだった。もう一つは零に駄目だと言われているから、なわけだが。
『お前ぇ一人で探し回っても見つかるもんじゃぁねぇよ。野垂れ死にたくなけりゃ、大人にして待っていな』
焦燥に混じった怒りと羞恥が、睦樹の中で蠢いた。
「確かに零の言う通りだ」
自分が如何に世間知らずであったか知ってしまった今は、零の言葉の意味がわかる。何もできない自分は恥ずかしいし悔しいし、でもじっとしても居られない。
「ああ、もう!」
手足をバタつかせて胸の内のモヤモヤと戦っている睦樹の上に、ふと影が落ちた。
「元気ですね、睦樹君」
「あ……参太」
恥ずかしい所を見つかってしまい、しゅんと俯く。
参太はくすりと微笑んで、睦樹を手招きした。
「もし暇を持て余しているのなら、私の部屋に来ませんか? 面白いものを見せてあげます」
「暇ではないけど……」
言いかけて、口を噤んだ。
頭の中でどれだけ考えても仲間の消息は掴めないのだから、具体的にできることがない。暇といえば暇なわけだ。
遠慮がちに見上げた先で視界に入った参太の少し楽しそうな笑みに好奇心が湧いて、とりあえず付いていくことにした。
「うわぁ……」
あやし亭の生活空間を、皆は「隠れ家」と呼ぶ。部屋の襖は色が違うくらいで形は総て同じだ。
通された参太の部屋の中を見回して、睦樹は思わず感嘆の声を上げた。
そこは、今までに見たことがないもので溢れていたのだ。
「さぁ、中へどうぞ」
誘われ座った椅子はとてもふかふかしていて、店にある木造りのものとは座り心地が全く違う。座布団を何枚も重ねた上に座っているようだ。
「それはソファと言うんですよ」
ふかふかした椅子の表面を手でぽんぽん押している睦樹に説明しながら、参太は見たこともない形の急須で、これまた見たことのない形をした湯呑に茶を注ぐ。
「これは紅茶と言って、西洋で日常的に飲まれている茶です。その容器はカップと言って湯呑のようなものです」
揺れる琥珀色の液体から、緑茶とは違った柔らかい甘さの絡んだ香りがふわりと浮かぶ。取手を掴みゆっくりと持ち上げながら、初めての紅茶を恐る恐る口に含む。
「んっ」
一口飲んで渋い顔をした睦樹を参太が心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫ですか?熱過ぎましたか?」
睦樹は首をふるふる振って、
「思ったより、苦い」
涙目で参太を見上げた。
甘い香りからは想像もできなかった渋さに驚いてしまったのだ。
参太はぷっと吹き出して、手元の角砂糖を睦樹の紅茶の中にころんと転がした。
「それで少しは飲みやすくなるはずです。もう一口、飲んでみてください」
びくびくしながら、先程より少なめに、こくりと飲み込む。
「ん! さっきより美味しい」
見開いた瞳が琥珀を映してきらきら輝く。
参太は安堵したように笑みを零した。
「世の中には、こんなものも、あるんだな……」
感心する睦樹に、参太がさっきとは違う困った笑みを見せた。
「本当はここに在ってはいけないもの、ですけどね」
「?」
「まぁ、それは只の人の都合なので、私たち妖鬼にはあまり関係ありませんが」
「??」
言葉の意味が理解できず困り顔をする睦樹の向かいに腰かけて、参太は一口紅茶を啜る。
「日ノ本は江戸開府以降、鎖国を続けているので、オランダ以外との国交を禁止しているのです」
「さこく?」
首を傾げる睦樹に、参太は「んー」と呻って、ぽんと手を叩いた。立ち上がると部屋の奥でがさがさと何かを探し始める。
そんな参太の後姿を眺めながら、改めて部屋の中をぐるりと見渡す。
部屋の四隅は隙間なく大きな棚が置かれ、その中には色々なものが置かれていた。 一番多いのは本だが、それ以外に食器や茶葉、文具と思われるもの等、沢山の知らないものがあって、どこに視線を合わせたら良いかわからない。
(あ……!)
ようやく睦樹でもわかるものを見つけて、視線が定まった。
種子島という銃に似た形のものだ。
以前、絵巻か何かで見た覚えがあるが、飾ってある銃は小さいものから大きなものまで種類が沢山あり、形もそれぞれに違っていた。
(あれも、銃なのかな?)
睦樹が銃に見入っている間に、参太はお目当てのものを探し出して戻ってきた。
「ちなみに西洋では、これをテーブルと言います」
指さした卓の上に、一枚の大きな紙を広げる。
「これは、地図……か?」
里の周辺の地図や日ノ本の地図は見たことがあったが、その大きな紙には睦樹の知らない形をした大小様々な島が沢山描き込まれていた。
「これは世界地図です」
「せ、かい……?」
「そう、日ノ本以外の、この世にある総ての国が書かれている地図です」
「つまり、日ノ本の外の地図……ってことか?」
「そういうことです。この中で、日ノ本は、これ」
参太が指さしたのは、地図の中でもとても小さい島国だ。
「え?! ほ、本当に?」
こくりと頷く参太に、睦樹は声も出せなかった。
参太の指先で隠れてしまいそうな程に小さなこの国が、自分たちの住んでいる場所。
普段、目にしている山も川も朝日も夕陽も、睦樹からすればとても大きい。
それらが総てこの小さな島の中にあるだなんて、信じられない。
呆気に取られている睦樹に、参太はひとつひとつ指さしながら国の名前を教えてくれた。
「……覚えられない」
数も多いが発音や言葉の抑揚が、普段の言葉とは違い過ぎて、全く頭に入らなかった。
「覚えなくていいですよ。ただ、これだけ大きな大陸や島や広い海が存在することだけ知ってもらえたらいいかなと思ったので」
「どうしてこれを、見せてくれたんだ?」
参太は違う国を指さして、説明を続けた。
「これがオランダ。日ノ本の人間は今、この国以外の国とは関りを持たずにいるんです」
「こんなに沢山、他にも国があるのに?」
参太は頷く。
「キリスト教という宗教が国内に広がることを恐れたために国を閉ざしたのです。耶蘇教、といえば、睦樹君も聞いたことがあるでしょうか?」
「ちょっとだけ。人が邪教って言っているのを聞いた」
「日ノ本の偉い人にとっては邪教です。だから国ごと禁止にした。でも実際はそこまで恐ろしいものではありませんし、更に言うなら私たち妖鬼にはどうでもいいことです」
確かに、と睦樹も思う。
思想など、好きなように好きなものを信じればいいのだ。
「そういう関係で、日ノ本より外のものを国の中に入れることを、この国の人間は嫌うのです。ですが私は、海の向こうの文化が大好きで、こうして色々集めているのです」
部屋の中を埋め尽くす品々を眺めて、参太は満足そうに言う。
(部屋の中のものをほとんど見たことがないのは、この国にないからなのか)
ほっとした半面、底知れぬ怖さを感じた。自分には知らないことが山程ある。
最近それを叩きつけられたばかりだというのに、この世にはもっともっと知らないことが沢山あったのだ。
(本当に僕は、何も知らずに生きてきたんだ)
しゅんと俯いてしまった睦樹に、参太が問いかけた。
「どうして日ノ本の偉い人が国を閉ざしたのか、わかりますか?」
「それは耶蘇教を広めないため……」
「確かにそうです。では何故広めたくなかったのか。それはこの国を守りたかったから、です」
「守る……? 耶蘇教はそんなに危険なのか?」
邪教と言われる思想なわけだから、危険ではあるのだろう。
人が人という一族を守る為に長きに渡り国を閉じなければならない程に危険な思想、なのだろうか。
「正しくは、偉い人が危機感を持った、ということですね。耶蘇教が入ってきたらこの国がこのままでいられなくなってしまう、他の国に奪われてしまうかもしれない、そう思ったんです。耶蘇教はそこまで邪悪なものではありませんが、影響力がありますから、この国が無くなるかもしれないことが、怖かったのでしょうね」
どきん、と心ノ臓が跳ねた。
どうしてか脳裏にあの火事の光景が浮かんだのだ。
何かに大事な仲間を奪われるのは、怖いし悲しい。それは天災ばかりとは限らずに、違う土地の同族が作った思想でさえも脅威になり得るという事実は、睦樹の中にじんわりと染み広がる恐怖だった。
「人も、同じなんだな。なんだって、きっかけになるんだ」
落ちてしまった視線に、参太は困った風に言う。
「ごめんなさい、睦樹君。嫌なことを思い出させてしまいましたね」
ゆっくり首を横に振り、睦樹は深く俯いた。
「ここに来て、知らないことを沢山知った。だけど僕には、まだまだ沢山知らないことがある。鳥天狗の里で僕は、ずっとちやほやされて褒められて生きていたんだ。何にも、知らなかったのに」
「それはそれで悪いことではありませんよ。あんな火事さえなければ、君はあの里でずっと幸せに暮らしていた筈です。それならそれで、良かったのですから」
睦樹は、ぶんぶんと強く首を振った。
「長になる僕がそれじゃ駄目だ。褒められて、あんなふうに良い気になって……」
そう口に出したらまた、睦樹の頭がぐらりと揺れた。
(そうだ僕は、凄く良い気になって調子に乗ってた)
長の息子だということを鼻に掛けて、何でもできるつもりでいた。
実際は、六という童を一人守ることすら、命懸けだったというのに。
(そんなことも、知らなかったんだ)
揺れが頭痛に変わり、視界が小刻みに揺れた。
(そういえば、どうして僕はあの時、一人だったんだろう)
六を守るため人前に飛び出した時、自分は一人だった。しかもあの場所は鳥天狗の里の中心部から離れた、人里に近い場所だ。普段一人でそんな場所に行くことなど、滅多になかったはずなのに。
(あそこで僕は、とても大切な……)
とても大切なことがあった。ぼんやりとそう感じるが、それ以上のことを思い出そうとすると頭に霞がかかったように思考が鈍り、頭が痛くなる。
頭痛に耐えかねて、上体がぐらりと傾く。参太が慌てて近寄り、崩れそうな体を支えた。
「睦樹君? どうしたのですか?」
熱っぽい頭の中で、誰かの声がする。
何を言っているのか聞き取れないが、それは怒号のように聞こえた。
(あれは、なんだったっけ)
浮かび上がろうとする思考から引き離そうとするように、意識が遠くなっていく。
「睦樹君、睦樹君!」
参太の声が遠くに聞こえて、口が勝手に動いた。
「……兄様に、会いたい……」
無意識に言葉が零れていた。自分でも、何を言っているのかよくわからない。
ただ何故か、目の前を真っ白な何かが多い尽くしていた。
「……っ」
参太が睦樹の腕を引き、自分の胸に抱きかかえる。
突然頬に熱を感じて、睦樹の意識が浮上した。
「……さん、た」
参太は何も言わずに、睦樹が落ち着くまで肩を抱いてくれていた。
ようやく上体を起こせるようになり、参太の胸から顔を上げる。
「あの、ありがとう……」
「これくらい、構いませんよ」
参太は動じることなく、少し冷めた紅茶を差し出す。
一口含んだら、より頭がすっきりした気がした。
(僕は今、何て言ったっけ……。良くわからないけど、凄く恥ずかしいこと、口走った気がする)
言葉も気になったが、視界を染めた白い何かが心に引っかかった。
呆けた視界の端に参太の心配そうな顔を見つけて、急に恥ずかしさが湧いてきた。紅茶を飲む振りをして顔を隠す。
「参太、あの、今のは……その……他の人には、内緒にして」
ぼそぼそと決まり悪そうに言う睦樹に、参太は笑うことなく真摯に頷いた。
「勿論、誰にも言いませんよ」
参太が、ぽそりと呟いた。
「睦樹君のその感情は当然ですよ。仲間を失う寂しさや怖さは、私にもわかりますから」
ふと顔を上げると、参太は先程より寂しそうな目をしていた。
その目がいつもの参太からは遠く離れた暗い色に見えて、それ以上のことを聞けなくなってしまった。
参太の大事な部分に無遠慮に触れてしまいそうな気がしたからだ。
どうすればよいのか迷っている内に、参太は別の言葉を睦樹にくれた。
「睦樹君は、自分が何も知らないことを恥ずかしいことのように話していましたが、それは全然恥ずかしいことじゃありませんよ」
「でも……」
慰められている、と強く感じて、睦樹の中の羞恥が余計に膨れ上がる。
「知らないことがある、と理解することは、もっと沢山のことを知る第一歩です。これから睦樹君は知らなかったことを沢山覚えられる。何でも知っていると思っていると、それ以上のことを知ることはできません。不足を知ることは恥じることではなく、むしろ誇ることです。君が今、恥ずかしいと思うなら、尚更、です」
「どうして?」
あまりよく理解できなくて、首を傾げる。
「自分が恥ずかしいと思う事を受け入れるのは、実はとても難しいことだからです。それが出来る睦樹君は、勇気があるし賢いと言えるのですよ。だから、そんなに恥ずかしがったり落ち込んだりしなくて、いいのです」
「そう……なのか?」
ぽかん、としてしまった睦樹に、参太は深く頷いた。
睦樹の胸の内は未だ釈然としないままだ。
「でも、今のままじゃ仲間を探せない。早く、探したいのに」
これから色んな事を学んで知るにしても、それにはきっと時間がかかる。
そんなに待っていたら、いつまで経っても両親や仲間に会うことはできない。
「それは零がもう少し待てと言っていたでしょ? 睦樹君、耐えることは時に強さ、ですよ」
ふわり、と参太の手が睦樹の頭を撫でる。
(あ……)
その感覚には覚えがあった。温かく大きな手、いつも睦樹を優しく包んでくれた。 大好きな温もりなのに、どうしてか胸の奥が痛くて涙が出そうになる。
(なんだろう、この感じ)
嬉しいのに悲しい。心の奥に淀んだ何かが揺れているようで、苦しい。
すっと離れた手につられるように顔を上げると、参太はにっこりとした。
「君が強くあれば、きっと良い方に事は巡りますよ。今は、信じて耐えましょう」
温もりが離れた途端、感じた何かはすぐにまた胸の奥にひっこんでしまった。
曖昧な表情のまま睦樹が、こくりと頷く。
参太の温かさと言葉は、睦樹に少しだけ信じる勇気と強さをくれた。
その一方で睦樹は、未だ消息の掴めない両親や仲間の事、もう戻らない里を思い、歯噛みする気持ちでその噂を聞いていた。
火事の件を「仕舞いだ」と言って以来、零も他の面々もそのことには一切触れずに日常を過ごしている。
依頼の無い時のあやし亭は随分とのんびりしていて、昼間はそれぞれ好きに過ごし、黄昏時になると店を開ける。
店の場所はいつも変わるが、それは特に誰かが決めているわけではなく、偶然繋がった場所が店の入り口になるのだそうだ。
(偶然、なのかな)
と、睦樹は不思議に思う。
その偶然とは、もしかしたら参太が言っていた「見つけたい人」を感じて店の方から寄っていく、ということなのかもしれない。
まだ店に依頼が入るところを見なことはないが、何となく、そう思った。
(ここに来てから、沢山、知らなかったことを知った)
鳥天狗の里で仲間に囲まれて暮らしていた時には知らなかった世界、知らなかった価値感、知らなかった存在。その総てが凄い速さで睦樹に襲い掛かってきて、圧倒されるばかりだ。里にいた時は、知らなかった気持ちも知った。
(仲間がいないのって、こんなに心細いんだな)
あやし亭の面々は何のかんのと皆、優しい。睦樹のことも人である六のことも、当然のように迎え入れてくれた。
それでも心の隙間を吹き流れる冷たい風がやむことはない。
『……様は、やはりご立派です』
ふと、頭の中で声が聞こえた。それは聞き慣れた仲間の声だ。
『流石、次期鳥天狗の長となるべき御方。聡明さも羽の美しさも他とは比べ物になりません』
そんなことを普段から言われて育ってきた。
(そういえば僕は里の中で、褒められたことしかない)
由緒ある鳥天狗を統べる長の息子として将来を期待され敬われて、そんなことは当然だった。
しかし、このあやし亭では睦樹は新入りで、双実には「チビガキ」と馬鹿にされ、紫苑には「睦樹ちゃん」と子供扱いされる。
初めはカチンときたりイライラしたりしていたが、怒涛のように押し寄せてくる知らなかった色々のせいで、そんな感情はすっかり流されて只々圧倒されている自分に気が付いた。それがとても情けないし歯痒い。
(僕は凄い存在なのに!)
なんて子供じみた発想も、今はもうできなくなった。
それ程に、里の外には睦樹の知らかった世界が広がっていたのだ。
すぐにでも仲間を探しに行きたいという衝動を堰き止めている理由の一つが、それだった。もう一つは零に駄目だと言われているから、なわけだが。
『お前ぇ一人で探し回っても見つかるもんじゃぁねぇよ。野垂れ死にたくなけりゃ、大人にして待っていな』
焦燥に混じった怒りと羞恥が、睦樹の中で蠢いた。
「確かに零の言う通りだ」
自分が如何に世間知らずであったか知ってしまった今は、零の言葉の意味がわかる。何もできない自分は恥ずかしいし悔しいし、でもじっとしても居られない。
「ああ、もう!」
手足をバタつかせて胸の内のモヤモヤと戦っている睦樹の上に、ふと影が落ちた。
「元気ですね、睦樹君」
「あ……参太」
恥ずかしい所を見つかってしまい、しゅんと俯く。
参太はくすりと微笑んで、睦樹を手招きした。
「もし暇を持て余しているのなら、私の部屋に来ませんか? 面白いものを見せてあげます」
「暇ではないけど……」
言いかけて、口を噤んだ。
頭の中でどれだけ考えても仲間の消息は掴めないのだから、具体的にできることがない。暇といえば暇なわけだ。
遠慮がちに見上げた先で視界に入った参太の少し楽しそうな笑みに好奇心が湧いて、とりあえず付いていくことにした。
「うわぁ……」
あやし亭の生活空間を、皆は「隠れ家」と呼ぶ。部屋の襖は色が違うくらいで形は総て同じだ。
通された参太の部屋の中を見回して、睦樹は思わず感嘆の声を上げた。
そこは、今までに見たことがないもので溢れていたのだ。
「さぁ、中へどうぞ」
誘われ座った椅子はとてもふかふかしていて、店にある木造りのものとは座り心地が全く違う。座布団を何枚も重ねた上に座っているようだ。
「それはソファと言うんですよ」
ふかふかした椅子の表面を手でぽんぽん押している睦樹に説明しながら、参太は見たこともない形の急須で、これまた見たことのない形をした湯呑に茶を注ぐ。
「これは紅茶と言って、西洋で日常的に飲まれている茶です。その容器はカップと言って湯呑のようなものです」
揺れる琥珀色の液体から、緑茶とは違った柔らかい甘さの絡んだ香りがふわりと浮かぶ。取手を掴みゆっくりと持ち上げながら、初めての紅茶を恐る恐る口に含む。
「んっ」
一口飲んで渋い顔をした睦樹を参太が心配そうに覗き込んだ。
「大丈夫ですか?熱過ぎましたか?」
睦樹は首をふるふる振って、
「思ったより、苦い」
涙目で参太を見上げた。
甘い香りからは想像もできなかった渋さに驚いてしまったのだ。
参太はぷっと吹き出して、手元の角砂糖を睦樹の紅茶の中にころんと転がした。
「それで少しは飲みやすくなるはずです。もう一口、飲んでみてください」
びくびくしながら、先程より少なめに、こくりと飲み込む。
「ん! さっきより美味しい」
見開いた瞳が琥珀を映してきらきら輝く。
参太は安堵したように笑みを零した。
「世の中には、こんなものも、あるんだな……」
感心する睦樹に、参太がさっきとは違う困った笑みを見せた。
「本当はここに在ってはいけないもの、ですけどね」
「?」
「まぁ、それは只の人の都合なので、私たち妖鬼にはあまり関係ありませんが」
「??」
言葉の意味が理解できず困り顔をする睦樹の向かいに腰かけて、参太は一口紅茶を啜る。
「日ノ本は江戸開府以降、鎖国を続けているので、オランダ以外との国交を禁止しているのです」
「さこく?」
首を傾げる睦樹に、参太は「んー」と呻って、ぽんと手を叩いた。立ち上がると部屋の奥でがさがさと何かを探し始める。
そんな参太の後姿を眺めながら、改めて部屋の中をぐるりと見渡す。
部屋の四隅は隙間なく大きな棚が置かれ、その中には色々なものが置かれていた。 一番多いのは本だが、それ以外に食器や茶葉、文具と思われるもの等、沢山の知らないものがあって、どこに視線を合わせたら良いかわからない。
(あ……!)
ようやく睦樹でもわかるものを見つけて、視線が定まった。
種子島という銃に似た形のものだ。
以前、絵巻か何かで見た覚えがあるが、飾ってある銃は小さいものから大きなものまで種類が沢山あり、形もそれぞれに違っていた。
(あれも、銃なのかな?)
睦樹が銃に見入っている間に、参太はお目当てのものを探し出して戻ってきた。
「ちなみに西洋では、これをテーブルと言います」
指さした卓の上に、一枚の大きな紙を広げる。
「これは、地図……か?」
里の周辺の地図や日ノ本の地図は見たことがあったが、その大きな紙には睦樹の知らない形をした大小様々な島が沢山描き込まれていた。
「これは世界地図です」
「せ、かい……?」
「そう、日ノ本以外の、この世にある総ての国が書かれている地図です」
「つまり、日ノ本の外の地図……ってことか?」
「そういうことです。この中で、日ノ本は、これ」
参太が指さしたのは、地図の中でもとても小さい島国だ。
「え?! ほ、本当に?」
こくりと頷く参太に、睦樹は声も出せなかった。
参太の指先で隠れてしまいそうな程に小さなこの国が、自分たちの住んでいる場所。
普段、目にしている山も川も朝日も夕陽も、睦樹からすればとても大きい。
それらが総てこの小さな島の中にあるだなんて、信じられない。
呆気に取られている睦樹に、参太はひとつひとつ指さしながら国の名前を教えてくれた。
「……覚えられない」
数も多いが発音や言葉の抑揚が、普段の言葉とは違い過ぎて、全く頭に入らなかった。
「覚えなくていいですよ。ただ、これだけ大きな大陸や島や広い海が存在することだけ知ってもらえたらいいかなと思ったので」
「どうしてこれを、見せてくれたんだ?」
参太は違う国を指さして、説明を続けた。
「これがオランダ。日ノ本の人間は今、この国以外の国とは関りを持たずにいるんです」
「こんなに沢山、他にも国があるのに?」
参太は頷く。
「キリスト教という宗教が国内に広がることを恐れたために国を閉ざしたのです。耶蘇教、といえば、睦樹君も聞いたことがあるでしょうか?」
「ちょっとだけ。人が邪教って言っているのを聞いた」
「日ノ本の偉い人にとっては邪教です。だから国ごと禁止にした。でも実際はそこまで恐ろしいものではありませんし、更に言うなら私たち妖鬼にはどうでもいいことです」
確かに、と睦樹も思う。
思想など、好きなように好きなものを信じればいいのだ。
「そういう関係で、日ノ本より外のものを国の中に入れることを、この国の人間は嫌うのです。ですが私は、海の向こうの文化が大好きで、こうして色々集めているのです」
部屋の中を埋め尽くす品々を眺めて、参太は満足そうに言う。
(部屋の中のものをほとんど見たことがないのは、この国にないからなのか)
ほっとした半面、底知れぬ怖さを感じた。自分には知らないことが山程ある。
最近それを叩きつけられたばかりだというのに、この世にはもっともっと知らないことが沢山あったのだ。
(本当に僕は、何も知らずに生きてきたんだ)
しゅんと俯いてしまった睦樹に、参太が問いかけた。
「どうして日ノ本の偉い人が国を閉ざしたのか、わかりますか?」
「それは耶蘇教を広めないため……」
「確かにそうです。では何故広めたくなかったのか。それはこの国を守りたかったから、です」
「守る……? 耶蘇教はそんなに危険なのか?」
邪教と言われる思想なわけだから、危険ではあるのだろう。
人が人という一族を守る為に長きに渡り国を閉じなければならない程に危険な思想、なのだろうか。
「正しくは、偉い人が危機感を持った、ということですね。耶蘇教が入ってきたらこの国がこのままでいられなくなってしまう、他の国に奪われてしまうかもしれない、そう思ったんです。耶蘇教はそこまで邪悪なものではありませんが、影響力がありますから、この国が無くなるかもしれないことが、怖かったのでしょうね」
どきん、と心ノ臓が跳ねた。
どうしてか脳裏にあの火事の光景が浮かんだのだ。
何かに大事な仲間を奪われるのは、怖いし悲しい。それは天災ばかりとは限らずに、違う土地の同族が作った思想でさえも脅威になり得るという事実は、睦樹の中にじんわりと染み広がる恐怖だった。
「人も、同じなんだな。なんだって、きっかけになるんだ」
落ちてしまった視線に、参太は困った風に言う。
「ごめんなさい、睦樹君。嫌なことを思い出させてしまいましたね」
ゆっくり首を横に振り、睦樹は深く俯いた。
「ここに来て、知らないことを沢山知った。だけど僕には、まだまだ沢山知らないことがある。鳥天狗の里で僕は、ずっとちやほやされて褒められて生きていたんだ。何にも、知らなかったのに」
「それはそれで悪いことではありませんよ。あんな火事さえなければ、君はあの里でずっと幸せに暮らしていた筈です。それならそれで、良かったのですから」
睦樹は、ぶんぶんと強く首を振った。
「長になる僕がそれじゃ駄目だ。褒められて、あんなふうに良い気になって……」
そう口に出したらまた、睦樹の頭がぐらりと揺れた。
(そうだ僕は、凄く良い気になって調子に乗ってた)
長の息子だということを鼻に掛けて、何でもできるつもりでいた。
実際は、六という童を一人守ることすら、命懸けだったというのに。
(そんなことも、知らなかったんだ)
揺れが頭痛に変わり、視界が小刻みに揺れた。
(そういえば、どうして僕はあの時、一人だったんだろう)
六を守るため人前に飛び出した時、自分は一人だった。しかもあの場所は鳥天狗の里の中心部から離れた、人里に近い場所だ。普段一人でそんな場所に行くことなど、滅多になかったはずなのに。
(あそこで僕は、とても大切な……)
とても大切なことがあった。ぼんやりとそう感じるが、それ以上のことを思い出そうとすると頭に霞がかかったように思考が鈍り、頭が痛くなる。
頭痛に耐えかねて、上体がぐらりと傾く。参太が慌てて近寄り、崩れそうな体を支えた。
「睦樹君? どうしたのですか?」
熱っぽい頭の中で、誰かの声がする。
何を言っているのか聞き取れないが、それは怒号のように聞こえた。
(あれは、なんだったっけ)
浮かび上がろうとする思考から引き離そうとするように、意識が遠くなっていく。
「睦樹君、睦樹君!」
参太の声が遠くに聞こえて、口が勝手に動いた。
「……兄様に、会いたい……」
無意識に言葉が零れていた。自分でも、何を言っているのかよくわからない。
ただ何故か、目の前を真っ白な何かが多い尽くしていた。
「……っ」
参太が睦樹の腕を引き、自分の胸に抱きかかえる。
突然頬に熱を感じて、睦樹の意識が浮上した。
「……さん、た」
参太は何も言わずに、睦樹が落ち着くまで肩を抱いてくれていた。
ようやく上体を起こせるようになり、参太の胸から顔を上げる。
「あの、ありがとう……」
「これくらい、構いませんよ」
参太は動じることなく、少し冷めた紅茶を差し出す。
一口含んだら、より頭がすっきりした気がした。
(僕は今、何て言ったっけ……。良くわからないけど、凄く恥ずかしいこと、口走った気がする)
言葉も気になったが、視界を染めた白い何かが心に引っかかった。
呆けた視界の端に参太の心配そうな顔を見つけて、急に恥ずかしさが湧いてきた。紅茶を飲む振りをして顔を隠す。
「参太、あの、今のは……その……他の人には、内緒にして」
ぼそぼそと決まり悪そうに言う睦樹に、参太は笑うことなく真摯に頷いた。
「勿論、誰にも言いませんよ」
参太が、ぽそりと呟いた。
「睦樹君のその感情は当然ですよ。仲間を失う寂しさや怖さは、私にもわかりますから」
ふと顔を上げると、参太は先程より寂しそうな目をしていた。
その目がいつもの参太からは遠く離れた暗い色に見えて、それ以上のことを聞けなくなってしまった。
参太の大事な部分に無遠慮に触れてしまいそうな気がしたからだ。
どうすればよいのか迷っている内に、参太は別の言葉を睦樹にくれた。
「睦樹君は、自分が何も知らないことを恥ずかしいことのように話していましたが、それは全然恥ずかしいことじゃありませんよ」
「でも……」
慰められている、と強く感じて、睦樹の中の羞恥が余計に膨れ上がる。
「知らないことがある、と理解することは、もっと沢山のことを知る第一歩です。これから睦樹君は知らなかったことを沢山覚えられる。何でも知っていると思っていると、それ以上のことを知ることはできません。不足を知ることは恥じることではなく、むしろ誇ることです。君が今、恥ずかしいと思うなら、尚更、です」
「どうして?」
あまりよく理解できなくて、首を傾げる。
「自分が恥ずかしいと思う事を受け入れるのは、実はとても難しいことだからです。それが出来る睦樹君は、勇気があるし賢いと言えるのですよ。だから、そんなに恥ずかしがったり落ち込んだりしなくて、いいのです」
「そう……なのか?」
ぽかん、としてしまった睦樹に、参太は深く頷いた。
睦樹の胸の内は未だ釈然としないままだ。
「でも、今のままじゃ仲間を探せない。早く、探したいのに」
これから色んな事を学んで知るにしても、それにはきっと時間がかかる。
そんなに待っていたら、いつまで経っても両親や仲間に会うことはできない。
「それは零がもう少し待てと言っていたでしょ? 睦樹君、耐えることは時に強さ、ですよ」
ふわり、と参太の手が睦樹の頭を撫でる。
(あ……)
その感覚には覚えがあった。温かく大きな手、いつも睦樹を優しく包んでくれた。 大好きな温もりなのに、どうしてか胸の奥が痛くて涙が出そうになる。
(なんだろう、この感じ)
嬉しいのに悲しい。心の奥に淀んだ何かが揺れているようで、苦しい。
すっと離れた手につられるように顔を上げると、参太はにっこりとした。
「君が強くあれば、きっと良い方に事は巡りますよ。今は、信じて耐えましょう」
温もりが離れた途端、感じた何かはすぐにまた胸の奥にひっこんでしまった。
曖昧な表情のまま睦樹が、こくりと頷く。
参太の温かさと言葉は、睦樹に少しだけ信じる勇気と強さをくれた。
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