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第10話 札差・近江屋佐平次
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札差・近江屋佐平次の動きは早かった。
睦樹たちが視察に行った次の日にはもう、焼け野原と化していた村と禿山と化した里山までの整備が始まったのである。個人の出資とは思えない数の人足の手配、効率の良い整備の指示。総てが手際よく、佐平次の高い才を窺わせた。
更に市井を驚かせたのは、あっという間に更地になったその場所に新たな村を作り、以前住んでいた村人に無償で家と田畑を与える、という触れ込みである。
里山の焼け跡を更にして広げた村の面積は広く、一軒毎の敷地は以前より広い。元の村人を受け入れても余りある家屋には、新しい住人を迎え入れるという。
江戸の町でも相当な噂となり、申込者が殺到した。
ぽつりぽつりと家が建ち始めた広い敷地を、佐平次は満足そうに眺める。
「二代目、こんなところにいらしたのですね」
後ろから若い男が走ってきて、佐平次が振り返った。
「二代目はやめておくれないさいな、若旦那。私は若旦那が先代の跡を継ぐまでの繋ぎだ。こんなことがあって遅れてはいるが、早くこの名を若旦那にお戻ししたいと思っているんですよ」
若旦那、と呼ばれた青年は首を横に振った。
「いいえ、亡き先代も二代目のことをとても高く評しておりました。今回の村の再建も、総て近江屋からの出資。私なんぞ、外で学んできても、ここまでのことはできません。本当に、尊敬するばかりです」
真っ直ぐな瞳を輝かせる青年に、佐平次は微笑みかける。
「これも私の我儘を聞いてくださる若旦那のお陰だ。ありがとうございますよ」
両の手をしっかと握って眉を下げる佐平次に、青年は只々首を振るばかりだ。
「おーい、近江屋さんよ!」
そこへ、大工の棟梁である治助が声を掛けた。
「あぁ、治助さん。今日もご苦労様です。皆様への昼餉と菓子をお持ちしていますから、休憩を取りながらやってくださいよ」
大量の飯と菓子を見て、治助は目を丸くする。
「毎日毎日、俺らの分まで本当にすまねぇなぁ。あんたの気遣いには頭が下がらぁ」
豪快に礼を言う治助に、佐平次は控えめに笑う。
「何を言うんです。こんなにも早く焼け跡を綺麗にしてもらって、立派な家屋を立ててもらっているのだから、これ位の事はさせていただかないと」
それを聞いて、治助は若旦那を振り返る。
「こんなに立派なお人に二代目を継いでもらえて良かったなぁ。若旦那もこの人に倣って、頑張ってくだせぇよ」
くいくいと腕で突かれて、若旦那はこくりと頷く。
「はい。私も精進したいと思います」
素直に答える若旦那に治助が、がははと笑った。
「若旦那は本当に素直なお人だねぇ。悪い女に引っかからねぇように気を付けな!」
ばん!と背中を叩かれて、わっと前のめりになった青年の体を佐平次が支える。
「惣治郎さんは真っ直ぐで純粋な方だからね。うちの若旦那をあまり揶揄わないでくださいよ」
悪ぃ悪ぃと言いながら、治助は他の大工仲間や人足に昼餉の刻を告げに行く。
佐平次と惣治郎はそれを見送りながら、整いつつある新しい村を誇らしい気持ちで眺めていた。
〇●〇●〇
浅草の蔵前、近江屋の一室で、初老の男が店の主を待っていた。
男は出された茶をのんびりと啜りながら、庭に咲く金木犀の香りを楽しんでいた。
しばらくして、小走りな足音が聞こえてきた。
半開きの障子戸の前で、佐平次が小さく背中を丸め仰々しく頭を下げていた。
「大変お待たせして申し訳ございません、田沼様。このように狭い所にまで足をお運びいただいたというのに」
額が床に付く勢いで平伏する佐平次に、田沼は「いやいや」と持っていた湯呑を置いた。
「それ程、待ちはせぬ。それにお主は今、たいそうに忙しい身なのだから、気にすることはない」
安堵の表情を上げて、佐平次は部屋に入ると障子戸をぴったりと閉めた。
「それもこれも皆、田沼様の御計らいあってのこと。感謝のしようもございません」
「何、儂はお主の申し出を受けたに過ぎぬ。あの火事の焼け跡の始末も村の整備も総てはお主の仕切り。助かっているのはこちらの方だ、礼を言う」
頭を下げられて、佐平次は大袈裟なほどに恐縮した。
「とんでもございません。我らが町人の住居を提供するのは当然のことでございます。ましてあの村は御料、江戸の商人として、成すべき事ことをさせていただいたのでございます」
御料とは、幕府直轄の土地のことだ。
芽吹村は江戸幕府の天領として毎年幕府に年貢を納めている。つまりあの場所に住んでいた百姓たちは幕府が直に抱える農民というわけである。
江戸では、大店を持つ者が長屋を作り、町人に低家賃で提供することが定められていた。
裏長屋などは、大店の裏に作る町人用の住居である。こと田沼政権下においては、商人の利潤が大きく人口も爆発的に増加していたので、その役割も大きかった。
火事に遭った村は江戸市中からは郊外であったが、地理的にそれほど距離もなく立地が良かった。
江戸に住処を持てない人々や住み替えを考える者、身分替えを検討する者にとっては、今回の新住居は大変に魅力的であったのである。
加えて幕府としても、江戸の人口増加に対する住居と安定した年貢の確保という二つの問題を一挙に解決する一助としての、画期的かつ大胆な打開策として、佐平次の提案を一も二もなく受理したのであった。
「しかし、あの里山を失ったのは、本当に残念であったな」
しんみりと視線を下げる田沼に、佐平次も沈痛な面持ちをする。
「自然の発火とはいえ、私も本当に残念に思います」
眉間に皺を寄せ如何にも悲しげな顔で目を伏す佐平次を、田沼がちらりと目だけで窺う。
「こうなった以上は、更にした土地に住居や田畑を増やし、人の住める場所として新たな村の繁栄に繋げることが、私共にできる唯一の罪滅ぼしであると、信じております」
依然、力強く佐平次は持論を説く。
湯呑の中で揺れる茶を眺めながら、田沼は緩く笑んだ。
「そうか。ならばこの件、お主に一任しよう。元より申請していた蔵の増設も、許可する」
佐平次は、ぱっと明るい顔になり、先より更に深く平伏した。
「ありがとうございます。村の再興の為田沼様の御為、この近江屋、あの村に蔵前を増やすことで必ずやこの御恩に報いる所存でございます」
畳に額を擦り付ける佐平次の丸まった背中を眺めながら、田沼は表情を落とし、目を細めた。
「お主の真心に、感謝する」
金木犀の香りが途切れた狭い部屋の中で、田沼の乾いた声が空気を小さく揺らした。
睦樹たちが視察に行った次の日にはもう、焼け野原と化していた村と禿山と化した里山までの整備が始まったのである。個人の出資とは思えない数の人足の手配、効率の良い整備の指示。総てが手際よく、佐平次の高い才を窺わせた。
更に市井を驚かせたのは、あっという間に更地になったその場所に新たな村を作り、以前住んでいた村人に無償で家と田畑を与える、という触れ込みである。
里山の焼け跡を更にして広げた村の面積は広く、一軒毎の敷地は以前より広い。元の村人を受け入れても余りある家屋には、新しい住人を迎え入れるという。
江戸の町でも相当な噂となり、申込者が殺到した。
ぽつりぽつりと家が建ち始めた広い敷地を、佐平次は満足そうに眺める。
「二代目、こんなところにいらしたのですね」
後ろから若い男が走ってきて、佐平次が振り返った。
「二代目はやめておくれないさいな、若旦那。私は若旦那が先代の跡を継ぐまでの繋ぎだ。こんなことがあって遅れてはいるが、早くこの名を若旦那にお戻ししたいと思っているんですよ」
若旦那、と呼ばれた青年は首を横に振った。
「いいえ、亡き先代も二代目のことをとても高く評しておりました。今回の村の再建も、総て近江屋からの出資。私なんぞ、外で学んできても、ここまでのことはできません。本当に、尊敬するばかりです」
真っ直ぐな瞳を輝かせる青年に、佐平次は微笑みかける。
「これも私の我儘を聞いてくださる若旦那のお陰だ。ありがとうございますよ」
両の手をしっかと握って眉を下げる佐平次に、青年は只々首を振るばかりだ。
「おーい、近江屋さんよ!」
そこへ、大工の棟梁である治助が声を掛けた。
「あぁ、治助さん。今日もご苦労様です。皆様への昼餉と菓子をお持ちしていますから、休憩を取りながらやってくださいよ」
大量の飯と菓子を見て、治助は目を丸くする。
「毎日毎日、俺らの分まで本当にすまねぇなぁ。あんたの気遣いには頭が下がらぁ」
豪快に礼を言う治助に、佐平次は控えめに笑う。
「何を言うんです。こんなにも早く焼け跡を綺麗にしてもらって、立派な家屋を立ててもらっているのだから、これ位の事はさせていただかないと」
それを聞いて、治助は若旦那を振り返る。
「こんなに立派なお人に二代目を継いでもらえて良かったなぁ。若旦那もこの人に倣って、頑張ってくだせぇよ」
くいくいと腕で突かれて、若旦那はこくりと頷く。
「はい。私も精進したいと思います」
素直に答える若旦那に治助が、がははと笑った。
「若旦那は本当に素直なお人だねぇ。悪い女に引っかからねぇように気を付けな!」
ばん!と背中を叩かれて、わっと前のめりになった青年の体を佐平次が支える。
「惣治郎さんは真っ直ぐで純粋な方だからね。うちの若旦那をあまり揶揄わないでくださいよ」
悪ぃ悪ぃと言いながら、治助は他の大工仲間や人足に昼餉の刻を告げに行く。
佐平次と惣治郎はそれを見送りながら、整いつつある新しい村を誇らしい気持ちで眺めていた。
〇●〇●〇
浅草の蔵前、近江屋の一室で、初老の男が店の主を待っていた。
男は出された茶をのんびりと啜りながら、庭に咲く金木犀の香りを楽しんでいた。
しばらくして、小走りな足音が聞こえてきた。
半開きの障子戸の前で、佐平次が小さく背中を丸め仰々しく頭を下げていた。
「大変お待たせして申し訳ございません、田沼様。このように狭い所にまで足をお運びいただいたというのに」
額が床に付く勢いで平伏する佐平次に、田沼は「いやいや」と持っていた湯呑を置いた。
「それ程、待ちはせぬ。それにお主は今、たいそうに忙しい身なのだから、気にすることはない」
安堵の表情を上げて、佐平次は部屋に入ると障子戸をぴったりと閉めた。
「それもこれも皆、田沼様の御計らいあってのこと。感謝のしようもございません」
「何、儂はお主の申し出を受けたに過ぎぬ。あの火事の焼け跡の始末も村の整備も総てはお主の仕切り。助かっているのはこちらの方だ、礼を言う」
頭を下げられて、佐平次は大袈裟なほどに恐縮した。
「とんでもございません。我らが町人の住居を提供するのは当然のことでございます。ましてあの村は御料、江戸の商人として、成すべき事ことをさせていただいたのでございます」
御料とは、幕府直轄の土地のことだ。
芽吹村は江戸幕府の天領として毎年幕府に年貢を納めている。つまりあの場所に住んでいた百姓たちは幕府が直に抱える農民というわけである。
江戸では、大店を持つ者が長屋を作り、町人に低家賃で提供することが定められていた。
裏長屋などは、大店の裏に作る町人用の住居である。こと田沼政権下においては、商人の利潤が大きく人口も爆発的に増加していたので、その役割も大きかった。
火事に遭った村は江戸市中からは郊外であったが、地理的にそれほど距離もなく立地が良かった。
江戸に住処を持てない人々や住み替えを考える者、身分替えを検討する者にとっては、今回の新住居は大変に魅力的であったのである。
加えて幕府としても、江戸の人口増加に対する住居と安定した年貢の確保という二つの問題を一挙に解決する一助としての、画期的かつ大胆な打開策として、佐平次の提案を一も二もなく受理したのであった。
「しかし、あの里山を失ったのは、本当に残念であったな」
しんみりと視線を下げる田沼に、佐平次も沈痛な面持ちをする。
「自然の発火とはいえ、私も本当に残念に思います」
眉間に皺を寄せ如何にも悲しげな顔で目を伏す佐平次を、田沼がちらりと目だけで窺う。
「こうなった以上は、更にした土地に住居や田畑を増やし、人の住める場所として新たな村の繁栄に繋げることが、私共にできる唯一の罪滅ぼしであると、信じております」
依然、力強く佐平次は持論を説く。
湯呑の中で揺れる茶を眺めながら、田沼は緩く笑んだ。
「そうか。ならばこの件、お主に一任しよう。元より申請していた蔵の増設も、許可する」
佐平次は、ぱっと明るい顔になり、先より更に深く平伏した。
「ありがとうございます。村の再興の為田沼様の御為、この近江屋、あの村に蔵前を増やすことで必ずやこの御恩に報いる所存でございます」
畳に額を擦り付ける佐平次の丸まった背中を眺めながら、田沼は表情を落とし、目を細めた。
「お主の真心に、感謝する」
金木犀の香りが途切れた狭い部屋の中で、田沼の乾いた声が空気を小さく揺らした。
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